前に増口に会ったときは、自《じ》宅《たく》の広い居《い》間《ま》で話をしたが、今日は社長室である。
あの大《だい》邸《てい》宅《たく》の居間に劣《おと》らず広い。その奥《おく》に、馬《ば》鹿《か》でかい机《つくえ》があって、増口が座《すわ》っていた。
「やあ、いらっしゃい。そこへかけてくれたまえ」
増口はいつもの、愛想の良い営《えい》業《ぎよう》用《よう》の笑《え》顔《がお》で、二人を迎《むか》えた。
不思議な人だ、と亜由美は思った。自分の娘《むすめ》が偽《にせ》物《もの》かもしれず、しかも行方不明になっていて、当然その知らせも受けているはずなのに、一向にその様子は変らないのだ。
こんな父親があるだろうか?
広い社長室の一角、衝《つい》立《たて》があって、そこに高級な応《おう》接《せつ》セットが置かれている。殿永と亜由美がそこに腰《こし》をおろすと、
「入口のところで止められんかったかね」
と、増口は言いながら、自分もソファに身をどっかと沈《しず》めた。「何しろ週《しゆう》刊《かん》誌《し》やTV局が押《お》しかけて来て、うるさくて仕方ないんだ」
「大変ですね。どこかへ身を隠《かく》されては?」
と殿永が言った。
「何も悪いことをしたわけではないからな」
増口は笑《わら》って言った。「——ときに、何か訊《き》きたいことがあるという話だったが」
「お嬢《じよう》さんが行方不明になっていますが」
「うん、聞いとる。まあ、そこの娘さんにも言った通り、あれが本当に娘かどうか、分らんがね」
「あまりご心配の様子ではありませんね」
「心配して何になる? どこにいるかも分らんのだ。どうせ私《わたくし》には何ともしてやれんのだからな」
「それはつまり——」
「おいおい、君」
と、増口は遮《さえぎ》って、「君も警《けい》察《さつ》官《かん》だろう。しかも、なかなかの切れ者と見たぞ。淑子が私の本当の娘《むすめ》でないことぐらい、先《せん》刻《こく》ご承《しよう》知《ち》だろうが」
と言った。
これには亜由美も仰《ぎよう》天《てん》した。殿永は、微《ほほ》笑《え》んで、
「そちらから言い出して下されば幸いです」
と肯《うなず》いた。「淑子さんは、あなたの妹さんに当るわけですね」
「妹ですって?」
と、亜由美は思わず言った。
「そう。淑子は私の親《おや》父《じ》が、女《によう》房《ぼう》以外の女に生ませた子だ。それを私が養女として引き取った」
と、増口は言った。「いや、はっきり言えば押《お》し付けられたのさ。こっちは父親の命令には逆《さか》らえん。財《ざい》産《さん》を継《つ》ぐには、それが条《じよう》件《けん》だったのだ」
なるほど。そうなると、淑子は増口にとって、妹にして娘ということになるわけだ。とても愛《あい》情《じよう》など湧《わ》くまい。
「しかし、誤《ご》解《かい》せんでくれよ」
と、増口は言った。「私は、ちゃんと、やるだけのことは淑子にしてやった。別に淑子をいじめたりした覚えはない」
「淑子さんはそのことを?」
と亜由美が訊《き》いた。
「知っていた。かなり早くからな。うちの家内が、やはり素《す》直《なお》には可愛《かわい》がることができなかったのだな。子《こ》供《ども》の頃《ころ》にしゃべってしまったのだ」
それは淑子には大きなショックだったろう。しかし、増口とその妻の気持も、分らぬでもないが。
「その件《けん》はともかく——」
と、殿永は話を変えた。「淑子さんが偽《にせ》物《もの》かもしれないと考えたのは、なぜですか?」
「ああ、それは、匿《とく》名《めい》の電話があったからだ」
「どんな声ですか?」
「男の声だった。しかし、押《お》し殺した声で、よく分らなかったな。ともかく淑子が他の女と入れ替《かわ》っていると言うんだ。それだけ言って切れてしまった」
「ご自分で確《たし》かめようとしなかったんですか?」
「自分の目には自信がなかった。それに、もし誰《だれ》かが淑子になりすましているのだとすれば、それを気付いた人間を殺そうとするかもしれん。それが怖《こわ》くてな。こう見えても、私は死ぬのが好《す》きではないのだ」
「好きな人はいませんわ。じゃ、私か武居さんなら殺されてもいい、と思われたんですね」
亜由美がにらむと、増口は笑《わら》って、
「そうとも。君らが殺されても、私《ヽ》は《ヽ》死なずに済《す》む。そこが肝《かん》心《じん》のところだ」
と、増口は平然としている。
亜由美は、怒《おこ》るのも忘れてポカンとしていた。こうでなくては、金持にはなれないのかもしれない。
「じゃ、今、淑子さんがどうしているか、気にならないんですか」
と、亜由美が訊《き》くと、増口は肩《かた》をすくめて、
「別にならんね」
と言った。
「——呆《あき》れたわ!」
社長室を出ると、亜由美は息をついた。
「殿永さん、淑子さんのことをご存《ぞん》知《じ》だったんですね」
「ええ。黙《だま》っていてすみませんね。それを増口氏にぶつけて反《はん》応《のう》を見ようと思っていたんです。しかし、向うから言い出されてしまった」
「一《ひと》筋《すじ》縄《なわ》で行かない人ですね」
「正に、その通りですな」
殿永は、タクシーを拾うと、ある病院の名を告《つ》げた。
「どこへ行くんですか?」
「さっき連《れん》絡《らく》を取ってみたんです。どうやら田村さんが、話ができる程《てい》度《ど》には回《かい》復《ふく》したようですよ」
と殿永は言った。
二人の乗ったタクシーは、郊《こう》外《がい》の、割《わり》合《あい》に小さな個《こ》人《じん》病院の前で停《とま》った。
「ここに、田村さんが?」
「都内の大病院じゃ秘《ひ》密《みつ》を保《たも》てませんからね」
と、殿永は言った。
病院の入口に、警《けい》官《かん》の姿《すがた》があったが、それ以外は、どこといって変るところのない、静かな緑に囲まれた病院である。
「やあ、どうも」
院長らしい、初老の医師が出て来て、
「もう大分元気になりましたよ」
と、先に立って病室へと案内してくれる。
明るく陽《ひ》の射《さ》し込む病室で、田村はベッドに起き上って、窓《まど》の外を眺《なが》めていた。
「田村さん」
と亜由美が声をかけると、田村がゆっくり振《ふ》り向く。
「やあ、塚川君か」
声は弱々しくて、頬《ほお》がこけていたけれど、田村らしい笑《え》顔《がお》が戻《もど》っていた。
「気分はどうですか?」
「うん。まあまあだ。——君にも大分心配かけたようだね」
「まあ多少は」
と、亜由美は微《ほほ》笑《え》んだ。
「失礼します」
と、殿永が自《じ》己《こ》紹《しよう》介《かい》をしてから、「二、三うかがいたいことがあるのです」
と言った。
「ええ。——成田で、記者たちとの仲《ちゆう》裁《さい》に入って下さった方ですね。憶《おぼ》えていますよ。何をお話すればいいんですか?」
「奥《おく》さんのことです」
「淑子さんの? いや、妻《つま》のことを『さん』づけじゃおかしいかな。しかし、どうも何と呼んでいいのか分らないので……」
「この塚川さんに、あなたは、結《けつ》婚《こん》式《しき》の当日、花《はな》嫁《よめ》が別の女だと囁《ささや》いたそうですね」
田村はちょっと間を置いてから、肯《うなず》いた。
「それはどういう意味だったんです?」
田村は、言葉を選ぶように、しばらく迷《まよ》ってから、言った。
「そう見えたんですよ。——本当に妙《みよう》な気分でした。それまで淑子さんとは、何度か付き合っていたし、彼女《かのじよ》の方が僕《ぼく》との結婚に熱心でした」
田村は苦《く》笑《しよう》して、「本当ですよ。僕にだって信じられないくらいでしたが、結婚を申し込《こ》んで来たのは、彼女の方だったんです」
「いや、別におかしくありませんよ」
「そうですか?——ともかく、僕は結婚が決ってからも、仕事が忙《いそが》しくて、それに、その手のことはまるで苦手なので、披《ひ》露《ろう》宴《えん》の手配など、万端、彼女へ任せきりでした」
「なるほど」
「ところが、当日は彼女とはあまり話をする機会がありません。で、いざ、披露宴の席で彼女と並《なら》んで座《すわ》っていると、どうも彼女の様子がおかしいんです」
「どういう風に?」
「何というか……。話しかけても、口もきかないし、それに心もちやせたようで、少し顔の感じが違《ちが》うんです」
「つまり別の女だ、と?」
「そんなこと、まさか、と思っていましたがね。——化《け》粧《しよう》が濃《こ》いせいかとも思いましたが、どうも、そうでもない。どこかおかしいんです」
「それで、塚川さんに……」
「あれは、とっさのことで、僕《ぼく》も混《こん》乱《らん》していたんです。しかし、あのときには、どうにもその疑《ぎ》惑《わく》がふくれ上って来ていて……。ともかく、誰《だれ》かにそのことを話しておきたかったんです。僕の勘《かん》違《ちが》いなら、後で笑《わら》って済《す》むことですしね」
「びっくりしましたわ」
と、亜由美は言った。
「すまないね。驚《おどろ》かせる気じゃなかったんだが……」
「ああ言われて驚くなって方が無《む》理《り》だわ」
と、亜由美は笑った。
「しかしですね」
と殿永が真《ま》面《じ》目《め》な口調で続ける。「お二人はハネムーンに発《た》って、何日か一《いつ》緒《しよ》におられたわけでしょう。その間に、彼女《かのじよ》が偽《にせ》物《もの》なのかどうか、分ったんじゃありませんか?」
「そこなんですよ」
と、田村はため息をついた。「僕も、旅行に出れば、はっきりすると思っていました。二人きりになって話せば……。化粧を落とした素顔も見られるわけですからね」
「それで……」
「ところが、だめなんです」
「というと?」
「ハンブルクであんな目に遭《あ》う前、何日かあったわけですが、二人で過《す》ごした時間なんて、ほとんどなかったんですよ。向うへ着くと、増口さんのホテルチェーンの人間が待ち構《かま》えていましてね。市内観光や、名所へ案内してくれるんです」
「なるほど」
「そして夜は毎晩、増口さんと何らかの仕事で付合いのある、かなりのお偉《えら》方《がた》に夕食に招《しよう》待《たい》されましてね。——もう、食事は多いし、ワインは飲まされるし、ホテルへ帰ると胃の薬を服《の》んで、そのままベッドへドタッと倒《たお》れるというくり返しだったんです」
「それはお気の毒に」
「大体、僕《ぼく》はアルコールに強い方じゃないので、悪《わる》酔《よ》いして、大変でした。とてもじゃないけど、向うの人の食《しよく》欲《よく》にはついて行けません」
「では、奥《おく》さんとゆっくり話をする機会は?」
「全然ありませんでした」
殿永は、チラッと亜由美の方を見て、エヘンと咳《せき》払《ばら》いした。
「しかし……その……ハネムーンなんですから、夜はその……つまり……お二人だったわけでしょう? まさか寝《ね》るときまで誰《だれ》かがそばにくっついていたわけは……」
亜由美は赤くなって殿永をにらんだ。
「私に気をつかって、変に遠回しな言い方しないで下さい!」
「いや、どうも……」
と殿永が頭をかく。
「お話は分りますよ。——実は、全くだらしのない話ですが、ついに彼女《かのじよ》とは寝《ね》ずじまいでした。毎晩酔《よ》って帰るんじゃ、とても無《む》理《り》です。——あの、ハンブルクが、その意味では、初めての機会だったんです」
「つまり、二人きりで過《す》ごされたわけですね?」
「ええ、夕食の約《やく》束《そく》もなく、案内してくれる人もいませんでした。ホテルに着いて、本当にホッとしたのを憶《おぼ》えています」
「で、彼女《かのじよ》と話をすることができたんですか?」
「それが……」
田村はちょっとためらいがちに言った。「まあ僕も、結《けつ》婚《こん》したからには、夫の義《ぎ》務《む》を果《はた》さなきゃと思っていましたし……。部屋で落ち着いたのは、昼過《す》ぎでしたが、彼女とベッドに入ろうとしたんです。彼女もちょっとためらっていましたが承《しよう》知《ち》してくれて、じゃシャワーを浴びようということになり、僕《ぼく》が先にバスルームへ入ったんです。ところが出てみると、彼女、いなくなっていたんですよ」
「いなくなって?」
「要するに逃《に》げられたんじゃないですか。こっちは途《と》方《ほう》に暮《く》れてしまいました。そこへ、例の、呼《よ》び出しの電話がかかって来たんです」
「すると、つまり、淑子さんが偽《にせ》物《もの》かもしれないという疑《うたが》いは、最後まで残っていたわけですね」
「そうです。——信じてもらえないかもしれませんが、事実なんですよ」
田村はそれだけ話すと、疲《つか》れたのか、息を吐《は》いて、ベッドに横になった。
「どうも、お疲れのところ、すみませんでした」
と殿永は会《え》釈《しやく》して、病室を出て行こうとした。
「——刑事さん」
と、田村が、少し弱々しい声で、言った。
「彼女を見付けて下さい」
「力を尽《つ》くしますよ」
と、殿永は言った。
亜由美は、殿永と一《いつ》緒《しよ》に病室を出ると、
「やっぱり彼女、そっくりな偽物だったんですね」
「そのようですね」
と殿永は言った。「しかし、そうなると、問題は一つ増《ふ》えます」
「え?」
「本物はどこにいるのか、ということです」
何となく、二人は口が重くなり、黙《だま》って病院の出口へと歩いて行った。