「一人かい?」
玄《げん》関《かん》のドアを開けると、有賀が立っていた。
「ええ。入って」
と、亜由美は言った。「——ちょうど良かったわ。誰《だれ》かと話したかったの」
「何だ、それじゃ誰でも良かったみたいじゃないか」
と、有賀は笑《わら》って言った。
居《い》間《ま》へ入ると、ドン・ファンが長々とソファの中央を占《せん》領《りよう》している。
「何だ、このワン公、まだここに居《い》座《すわ》っているのか?」 「アルコールはまずい。今、絶《た》ってるんだ」
「へえ。飲み過《す》ぎて暴《あば》れたの?」
「よせやい。来週、山に行くからさ」
「あら、まだ山登りなんてやってるの?」
「見くびるなよ。こう見えたって——大したことはないんだぞ」
「変な自《じ》慢《まん》ね」
と、亜由美は笑った。「じゃ、紅《こう》茶《ちや》でもいれるわ」
有賀と話していると、それだけで何となく気が晴れるのだ。こういうボーイフレンドも貴《き》重《ちよう》である。
「——田村さん、まだ退《たい》院《いん》できないのかな」
と、紅茶をすすりながら、有賀は言った。
「もう大分元気になったようね。でも難《むずか》しいところじゃない? 増口さんのところで働くことになっていたのに、淑子さんが行方不明じゃね」
「彼女《かのじよ》の行方も分らないのか」
「そうらしいわね」
「週《しゆう》刊《かん》誌《し》あたりじゃ、随《ずい》分《ぶん》騒《さわ》いでるな。彼女の出生の秘《ひ》密《みつ》とか言って」
「いやね、あんな記事。——あの環《かん》境《きよう》については、私、淑子さんに同《どう》情《じよう》するわ」
「逃《に》げているのが偽《にせ》物《もの》だとしたら、本物の淑子さんは殺されているのかな」
「そうね。——これだけ騒がれてるんだもの。生きていれば出て来るでしょう」
「もう週刊誌の連中は来ない?」
「ええ。でも昨日、何だか電話があったみたい。お母さんが出たんで、向うは早々に切っちゃったようよ」
「君のお母さん、変ってるものな」
「私も年取ったら、ああなるのかな、と思うと心配よ」
ドン・ファンが、亜由美の膝《ひざ》の上に来て、クンクンと鼻を鳴らした。
「何なの?——あ、そうか。ごめん、お前の紅《こう》茶《ちや》、忘《わす》れてたわ」
仕方なく、亜由美は、まだ飲み始めたばかりの紅茶を、ドン・ファンの皿《さら》へあけてやった。ドン・ファンがペチャペチャと音をたてて飲み始める。
「我が家は犬まで変ってる」
と亜由美は言って笑《わら》った。
電話が鳴って、亜由美は、
「きっとお母さんよ」
と言いながら、受話器を上げた。「はい、塚川です」
「あの、私、邦代ですけど」
あの別《べつ》荘《そう》の、手伝いの娘《むすめ》である。
「あら、何か?」
「実は、ちょっと妙《みよう》な物を見付けたんです」
「妙な物って?」
「あの——別荘へ来ていただけません?」
亜由美はちょっと迷《まよ》ってから、
「ええ、いいわ」
と言った。「でも、今から行くと夜になるわね」
「どうせ私、今一人なんです」
「あら、もう一人の方は?」
「他の別《べつ》荘《そう》へ移《うつ》っちゃって。ここはどうせ当分使わないでしょう?」
「それもそうね。分ったわ。これから行く。それじゃ」
「あの——」
と邦代があわて気味に言った。「この間のことはすみませんでした」
「この間のこと?」
「武居さんから、お嬢《じよう》さんのことを黙《だま》っててくれって、お金までいただいたのに……」
「ああ、あのことね。いいわよ。どうせ分ることだったんだもの」
「そうですか」
と、邦代はホッとした様子で言った。
「それじゃ、今度もいくらかいただけます?」
亜由美は、つい笑《わら》い出しそうになった。チャッカリ屋だが、どこか憎《にく》めない相手なのである。
電話を切ると、亜由美は有賀に、
「——こんなわけ。一《いつ》緒《しよ》に行ってくれる?」
と訊《き》いた。
「どうせそのつもりだろ?」
「もちろんよ。だって私、道が分んないんだもの」
と亜由美が澄《す》まして言った。
ドン・ファンがクゥーンと鼻を鳴らして、亜由美の足に体をこすりつけて来る。
「あ、分ったわよ。お前も行くのね」
「じゃ車をどうにかしなきゃ」
「借りられる?」
「誰《だれ》か貸《か》してくれると思うぜ。——二十分待ってろ。都合つけて来る」
有賀は急いで飛び出して行った。
実《じつ》際《さい》には十五分で、有賀は戻《もど》って来た。
「ちょっと中古だけど、まあいいだろう。乗れよ」
と、亜由美とドン・ファンを乗せて、いささか息切れのしそうな〈老車(?)〉はガタゴトと走り出した。
あまりスピードが出ないので、ちょっと時間はかかったが、それでも何とか別《べつ》荘《そう》へ辿《たど》り着く。——もうすっかり陽《ひ》は落ちて、闇《やみ》が周囲を包んでいた。
「邦代さん!——邦代さん!」
と、亜由美は呼《よ》んだ。
玄《げん》関《かん》のチャイムを鳴らしてみたが、一向に出て来る気配はない。
「——開いてるわ。入りましょう」
「どこにいるのかな」
「ちょっと気味悪いわね」
中は、明りが点《つ》いているが、物音はしない。
「邦代さん!——塚川亜由美よ!」
と、声を上げる。
「探《さが》してみようか?」
「こんな広い所を? きっと戻《もど》って来るわよ」
「でも、開けっ放しで出て行くかい?」
「それはそうね……」
亜由美は、不安な思いで、周囲を見回した。——突《とつ》然《ぜん》、玄関のドアがガタッと音をたてて開いて、亜由美たちは飛び上りそうになった。
「あら、いらしてたんですか、すみません」
と、邦代が、何やら大きな包みをかかえて入って来る。
「ああ、びっくりした」
亜由美は胸《むね》を撫《な》でおろした。「一体何事なの?」
「これなんです。居《い》間《ま》の方で広げましょう」
と、邦代が、ひとかかえもある大きな包みを、居間の方へ運んで行く。
「僕が持つよ」
と、有賀がナイトぶりを発《はつ》揮《き》しようとした。
「すみません」
手《て》渡《わた》そうとしたとたん、包みが解《と》けて、中身がドッと床《ゆか》へ落ちた。——服だ。女物の、ワンピースやブラウス、スーツなどである。
「洋服ね」
と、亜由美がその一つを取り上げた。
「あ、こら、ドン・ファン!」
ドン・ファンが、床に山となっている服の中へ首を突《つ》っ込《こ》んで、キャンキャンと甲《かん》高《だか》く吠《ほ》え始めたのだ。尻尾《しつぽ》を振《ふ》り、中をかき回すので、服が四方八方へ飛び散った。
「こら! ドン・ファン、やめなさい!」
やっとの思いで、ドン・ファンをかかえ上げる。
「——この服はどこで見付けたの?」
「林の中です」
「林の?」
「ええ」
と、邦代は肯《うなず》いた。「埋《う》めてあったんです。——私、昼間、ゴミをどこかへ埋めようと思って、林の中へ入ったんです。そしたら、何かこう、掘《ほ》り起して、また土をならしたようなあとがあって、何だろう、と思って掘り返してみたんです。そしたら、これが」
「埋めてあったのね」
「もう一つあります。居《い》間《ま》に置いてありますけど」
「この包みが二つ?」
「それ、もしかしたら、いなくなった淑子さんのじゃないのか」
と、有賀が言った。
「そうらしいわ。邦代さん、服に見覚えはない?」
「あります。間《ま》違《ちが》いありませんわ」
居間へ、服を全部運び込《こ》むと、もう一つの包みを解いて、ソファに並《なら》べてみた。かなりの量である。
「——じゃ、持ち出して、すぐ近くに埋《う》めたんだな」
と有賀が言った。
「どうしてそんな面《めん》倒《どう》なことしたのかしら?」
亜由美は手近な服を取り上げてみた。ドン・ファンが相変らず服の匂《にお》いをかいでは吠《ほ》えている。
「ドン・ファンが、匂いを憶《おぼ》えてるってことは、きっとこれは本当に淑子さんの服だったのよ」
と、亜由美は言った。
「だから、偽《にせ》物《もの》には合わなかったんだな」
「でも、ちょっと変ね」
「何が?」
「持ち出したりすれば、偽物だって言ってるようなもんだし、それに、そんなすぐ近くに埋めるなんて……どこか遠くへ行って捨てるか燃《も》やすかすればいいじゃないの」
「そりゃそうだな。でも、犯《はん》人《にん》なんて、やっぱりあわててんだよ。だから冷静に判《はん》断《だん》できないのさ」
「そうね、たぶん」
と、亜由美は肯《うなず》いた。「ともかく、殿永さんに知らせなきゃ」
「あ、この服だわ」
と、邦代が、赤のワンピースを取り上げて、
「これがほしかったんだ!——ねえ、この服、全部警《けい》察《さつ》で持ってっちゃうんですか?」
「たぶん、そうでしょうね」
「一枚《まい》ぐらいくれないかしら」
邦代は残念そうに言って、その服を体にあてている。亜由美は微《ほほ》笑《え》みながら、
「じゃ、殿永さんに訊《き》いてあげるわ。後でもらえるかどうか。電話借りるわね」
亜由美は殿永へ電話を入れた。
「もしもし、塚川です。殿永さん——」
「今、どこです?」
殿永の声は、いつになく緊《きん》張《ちよう》している。
「あの——別《べつ》荘《そう》です。増口さんの。実は服が——」
「病院に彼女《かのじよ》が現《あらわ》れたんですよ」
「彼女って——」
「淑子です。いや、偽《にせ》物《もの》かもしれませんが」
「どこの病院ですか?」
「田村さんのですよ。今から急行するところです」
「私もすぐ行きます!」
亜由美は電話を切ると、「有賀君、車!」
と叫《さけ》んで、ドン・ファンをかかえ上げた。
「どこに行くの?」
「後で説明するわ。急いで!——邦代さんまた連《れん》絡《らく》するから、これは大事に取っておいてね」
「ええ、でも……」
と、邦代は何やら首をひねっている。
玄《げん》関《かん》の方へ急ぎながら、亜由美は、邦代が呟《つぶや》くのを聞いた。
「おかしいなあ……」