「もう、びっくりして心《しん》臓《ぞう》が止るかと思いましたわ!」
と看《かん》護《ご》婦《ふ》は、まだ青くなって震《ふる》えている。
「落ち着いて、ゆっくり、話して下さい」
殿永がなだめるように言った。
「ええ……。私、ちょうど体温を計る時間だったので、体温計を持って、あの病室の前を通りかかったんです。他の病室へ行くところだったんですけどね」
「すると中で音がした」
「はい。何かこう——ドシン、って物の倒《たお》れるような音がして——。後でみたら、椅《い》子《す》が倒れてました。きっとあれですわ」
「なるほど、それで?」
「その音で、ふっと足を止めました。そして耳を澄《す》ましていると、『ワーッ』って叫《さけ》び声が——」
「それは田村さんの声ですね」
「ええ。『やめてくれ』って叫び声がして、私、びっくりしてドアをパッと開けたんです。そしたら、女が立っていて、キッとこっちを振《ふ》り向いて——」
「この女ですか」
殿永が、淑子の写真を見せる。
「ええ、この人です。もっとこう……怖《こわ》い顔でしたけど」
「どんな格《かつ》好《こう》をしていました?」
「そうですね、ええと……コートを着てましたわ、白っぽい。で、髪《かみ》がこう乱《みだ》れた感じで……。もう目が恐《おそ》ろしくって、ギラギラ光ってる感じでした……」
亜由美は話を聞きながら、ちょっと脚《きやく》色《しよく》してあるわ、と思った。
「そして手にナイフを握《にぎ》ってました。その刃《は》がキラッと光って……」
「で、あなたはどうしました?」
「もう怖《こわ》くって、悲鳴を上げてしまいました。そして手にしていた体温計や器具を落っことして——あれ、壊《こわ》れちゃったかしら」
と、変なことを心配している。
「そして廊《ろう》下《か》へ出て助けを求めた」
「そうなんです、『誰《だれ》か来て』って叫《さけ》びました。大声で言ったつもりだったんですけど、何だか囁《ささや》くような声だったらしいですわ」
「しかし、あなたのおかげで、女は逃《に》げました。田村さんも助かったわけですよ」
「まあ、そんな……」
と、看《かん》護《ご》婦《ふ》は照れたように赤くなった。
「——殿永さんは、女《じよ》性《せい》の相手がお上手ね」
と、亜由美は後で言った。
「皮《ひ》肉《にく》ですか、それは」
と、殿永は笑った。
「田村さんの様子は?」
「今、鎮《ちん》静《せい》剤《ざい》で眠《ねむ》っています。まあ、無《ぶ》事《じ》で良かった」
「でも淑子さんがどうしてこの病院を知ってたのかしら」
「それも問題ですが、しかし方法はあります。現《げん》に、二、三の記者がかぎつけて来ていますしね。隠《かく》していても限《げん》度《ど》がある」
「そんなものですか」
「むしろ私が気になるのは、なぜあの女が田村さんを殺そうとしたか、です」
「というと?」
「つまり、偽《にせ》物《もの》であることはもうばれてしまっているわけでしょう。それならば後は逃《に》げるしかないんじゃありませんか」
「田村さんを殺しても、何の利《り》益《えき》もありませんね」
「そうでしょう? 警《けい》官《かん》が張《は》り込《こ》んでいる病院へ、危《き》険《けん》を犯《おか》して忍《しの》び込《こ》むというのは、よほどの恨《うら》みを田村さんに対して抱《いだ》いているとしか思えません」
亜由美は肯《うなず》いた。
「それじゃ——一体どういうことになりますの?」
「分りません。いや、考えはあるのですが、もう一つぴったり来ないんです」
「あ、そうだわ、そう言えば——」
亜由美は、別《べつ》荘《そう》の近くで、淑子の服が見付かったことを話した。
「確《たし》かに彼女《かのじよ》の服ですか?」
と、殿永は言った。
殿永にしては珍《めずら》しく興《こう》奮《ふん》の面持ちである。
「あの邦代って子が言ってたから、確かだと思いますけど」
「そうですか。もしそれが——」
と、殿永は独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。
「田村さんは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》でしょうか」
と、亜由美が言うと、殿永は、ふと我《われ》に返った様子で、
「ここは心配ありません。 警《けい》備《び》も増《ふ》やしたし、 あの女も、 もう無《む》理《り》だと思っているでしょう」
「そうですか」
殿永はちょっと考え込《こ》んでいたが、
「どうです? もう一度、ドライブに付き合いませんか」
と言い出した。
「ええ。でも、どこへ?」
「別《べつ》荘《そう》です。その、出て来た服というのを見ておきたいんですよ」
殿永の目は輝《かがや》いていた。
「よほど何か意味がありそうですね。——もちろんご一《いつ》緒《しよ》しますわ」
と、亜由美は言った。
何となく胸《むね》がときめいて来る。殿永の興《こう》奮《ふん》が伝《でん》染《せん》したのかもしれない。
「では——」
と殿永が言いかけたとき、武居が急いで廊《ろう》下《か》をやって来た。
「一体何があったんです?」
と、武居は問《と》い詰《つ》めるように言って、
「田村君は?」
「無事です。今、眠《ねむ》っていますよ」
「ちゃんと警備してくれなくちゃ困りますよ。信《しん》頼《らい》して預《あず》けてるんですからね」
と厳《きび》しく言ってから、ちょっと落ち着いた様子で、
「いや……ついカッとして。すみません」
「いいえ、当然のことです。何と言われても仕方ありません」
「犯《はん》人《にん》はあの女なんですね?」
「ええ。危《き》機《き》一《いつ》髪《ぱつ》でした」
「執《しゆう》念《ねん》深いなあ。一体何者なんだろう」
と、武居が言った。
「そこですよ」
と殿永が肯《うなず》く。
「——何がです?」
「もしあれが偽《にせ》物《もの》なら、本物の淑子さんはどうしたのか。そして、そんなに良く似《に》た偽物を、どこで見付けて来たのか」
武居は殿永の顔を見つめて、
「それが——何か分ったんですか?」
「これから分るんじゃないかと思うんですよ、武居さん」
と、殿永は言った。
結局、武居も加えて、殿永、亜由美、車を運転して来た有賀の四人で——いや、ドン・ファンも加えて、四人プラス一匹で、再《ふたた》びあの別《べつ》荘《そう》へ向かうことになった。
別荘に着いたのは、もう夜中だった。明りも消えている。
「——起すのも気の毒ね」
と、亜由美が言った。
「忍《しの》び込《こ》んだら、もっとびっくりするぜ」
と、有賀が言った。
武居がチャイムを鳴らすと、しばらくして、
「どなた?」
と、邦代の声がした。
「警《けい》察《さつ》の者だが……」
「邦代さん。私、塚川亜由美よ」
ドン・ファンがワンと吠《ほ》える。
ガチャガチャと音がして、ドアが開いた。
「あの——何か?」
パジャマ姿《すがた》で邦代が立っている。
「あの、淑子さんの服を見せてほしいの」
「こんな夜中に?」
「ごめんなさい。でも、みんなそのために、こうしてやって来たんだから」
「それはいいんですけど……」
と、邦代はためらっていたが、やがてヒョイと肩《かた》をすくめて、「どうぞ。今、帰らせますから」
「誰《だれ》を?」
と、亜由美が訊《き》く。
「ちょっとした知り合いです」
と言って、邦代は、「ねえ、ちょっと! お客さんだから今夜は帰って」
と、奥《おく》の方へ声をかけた。
おずおずと出て来たのは、若《わか》い男で、
「今《こん》晩《ばん》は」
ピョコンと頭を下げると、逃《に》げるように出て行く。
「あの人は?」
「デパートの配達の人なんです。ちょっと気が合ったもんですから、つい話し込《こ》んじゃって」
邦代は澄《す》まし顔で言った。亜由美は苦《く》笑《しよう》した。
「——淑子さんの服を見せてくれる?」
「ええ。居《い》間《ま》に置いたままです」
邦代が居間のドアを開けて、明りを点《つ》ける。——服の山が、ソファの上に築《きず》かれていた。
「これは間《ま》違《ちが》いなく淑子さんのものなんだね?」
殿永が服を一つ一つ取り上げながら言った。
「ええ、たぶん……」
邦代の答は、やや曖《あい》昧《まい》だった。
「たぶん? はっきりしないのかい?」
「実は、ちょっと妙《みよう》なことがあるんです」
と邦代は言った。
「言ってみてくれないか」
「その服なんです。赤いやつ。——それです。これ、私が特《とく》に気に入ってたんです。お嬢《じよう》様《さま》が、服が合わないので、一度、『これをいただいていいですか』って訊いたことがありました」
「淑子さんは何と?」
「着られるなら構《かま》わないっておっしゃいました。で、そのときに、私、これを着てみたんです」
「それで?」
「丈《たけ》が長すぎたんで、少しつめなきゃな、って思ったんです。ともかくその場は、この服を洋服ダンスに戻《もど》しておきました」
邦代は、赤い服を手に取ると、自分の体に当てて、
「でも——見て下さい」
「長くないじゃないの、別に」
と、亜由美は言った。
「そうなんです。でも、前に合わせたときには長かったんですよ」
「どういうことだい?」
と、武居が眉《まゆ》を寄《よ》せて、「つまり、縮《ちぢ》んじまったってことか」
「そんなはずありません。だって、こんなワンピースを、クリーニングに出さないで、自分で洗《あら》うなんてこと、ありませんもの」
「クリーニングには出さなかったのね?」
と亜由美は訊《き》いた。
「出しません」
「じゃ、きっとここで洗ったんだろう」
と武居が言った。
「洗えば分かりますよ」
と、亜由美は言った。「これは洗っていません」
「ということは……」
有賀がキョトンとして、「この服が縮んだんじゃなくて、彼女の背《せ》がのびたってこと?」
「そんな短い期間に、そんなことあるわけないでしょ」
と、亜由美は言った。
「じゃ、一体——」
「つまり、それは違《ヽ》う《ヽ》服《ヽ》なのよ」
しばらく、誰《だれ》も口をきかなかった。
「私もそう思いました」
と、邦代が言った。「これは、前に私が着たのとは違《ちが》う服ですわ」
「すると、どういうことになるんだ?」
と有賀が頭をひねった。
「こ《ヽ》の《ヽ》服《ヽ》な《ヽ》ら《ヽ》、淑子さんに合ったんじゃないかな」
と殿永は言った。「つまり、淑子さんが服が合わなかったのは、淑子さんが別人だったからでなく、服《ヽ》の《ヽ》方《ヽ》が《ヽ》別物になっていたからだった、としたら?」
「まさか!」
と武居が言った。「だって、これが、そもそもの淑子さんの服だってことがどうして分るんです?」
「これは淑子さんの服ですわ」
と亜由美は言って、服の一つを取り上げると、ドン・ファンの方へ投げてやった。
ドン・ファンはその匂《にお》いをかいでは、ワンワンと吠《ほ》えた。
「分ったわ、この別《べつ》荘《そう》へ最初に来たとき、ドン・ファンが林の中へ走って行ってしまったわけが。——これが埋《う》めてあることを、知っていたのよ」
「つまり、淑子さんが帰国したとき、服は全部、別物と入れ替《か》えられていた。同じ品で、サイズが少し違《ちが》うものを、揃《そろ》えておいたのです」
と殿永は言った。
「どうして、そんな厄《やつ》介《かい》なことを?」
と、有賀が言った。
「淑子さんが偽《にせ》物《もの》だと思い込《こ》ませるためですよ」
「ということは……」
亜由美はゆっくりと言った。「あ《ヽ》の《ヽ》淑子さんは、本《ヽ》物《ヽ》だったんですね!」
「そもそも、婚《こん》約《やく》者《しや》や親にも見分けのつかないような似《に》た女《じよ》性《せい》がそうざらにいるはずがありません。つまりこの事《じ》件《けん》は、本物の淑子さんを、偽物で、かつ本物を殺してすり替《かわ》ったのだと見せかけるように仕組まれたのです」
殿永の言葉に、みんなが顔を見合わせた……。