それは正に映画の一場面だった。
穏《おだ》やかな春の夜。鳥の声。広々とした庭園。その茂《しげ》みの陰《かげ》の、小さな暗がり。
草の上に座り込《こ》んで、羽《は》佐《ざ》間《ま》倫《みち》子《こ》と、そのボーイフレンド、小《こ》池《いけ》朝《あさ》也《や》は、黙《だま》り込んでいた。
黙り込んでいた、といっても、それはほんの数秒間——一分間だっていいが——のことで、それまでは、二人とも、機《き》関《かん》銃《じゆう》顔負けのスピードで、しゃべりまくっていたのである。
そして、何だか知らないけど、話が途《と》切《ぎ》れ、ふと、二人を沈《ちん》黙《もく》が包んだ。
この「ふと」というところが大事なのである。
あんまりわざとらしくてもいけない。といって、話すことがついになくなって、仕方なく黙っちゃった、という感じでも良くないのだ。——やはり、あくまで、沈黙は「ふと」でなきゃいけない。
ついでにもう一つ、「ふと」が来ないと、事はうまく運ばないのだ。つまり、ふと、二人の視線が出会うのである。
まあ、暗がりの所に座ってるんだから、そんなにはっきり相手の目を見つめられるわけがない、とか、色々細かいことはあるが、ともかく、二人は見つめ合ったのである。
ここからキスまでには、理想的には五秒から七秒くらいがいい。短すぎると、「いつしか二人の唇《くちびる》は——」という感じじゃなくなるし、あんまり長いと、
「顔に何かついてるのかな」
という疑いを心に起こさせてしまう。
羽佐間倫子と小池朝也の場合は、二人の顔が接近し始めるのに五・五秒だった。まずは理想的といっていい。
こうなると、二人の顔の間の距《きよ》離《り》は一キロもないのだから(当り前だ)、ほんの二、三秒で二人の顔は衝《しよう》突《とつ》することになる。
ただし、この場合注意しなくてはいけないのは、お互《たが》い、顔を真《まつ》直《す》ぐのまま近づけると、鼻同士がぶつかってしまうことで、やはり、どちらか一方が少し顔を傾《かたむ》ける必要がある。
あんまり傾けても首の筋《すじ》を違《ちが》えるから、ほどほどでいい。
そして、キスするときは、普《ふ》通《つう》、目を閉《と》じている。別に法律で定められているわけじゃないが、大体そうである。
このタイミングがむずかしい。
最初から二人が目を閉じていたらどうなるか。唇と唇がうまく出会わず、唇と鼻、唇とおでこ、といった組合せになって、具合が悪い。
といって、ギリギリまで目を開けていたら、目の前にグッと相手の目が迫《せま》って来て、恐《きよう》怖《ふ》を覚えることになろう。じっと見ていたら寄り目になって、相手が吹《ふ》き出してしまうとも考えられる。
やはり、徐《じよ》々《じよ》に近づくにつれ、少しずつ瞼《まぶた》を降ろして行く、というのが適当で、それなら、無《ぶ》気《き》味《み》でもないし、唇《くちびる》がとんでもない所に着陸する心配もないわけである。
羽佐間倫子と小池朝也の場合は、その点も理想的だった。
二人の顔は適切な角度に傾いて近づき、瞼は小《こ》刻《きざ》みに震《ふる》えつつ閉《と》じられた。この「小刻みに震えつつ」が、情《じよう》緒《ちよ》があっていいところだ。
カメラのシャッターじゃないのだから、ギュッと閉じるのは味も素《そつ》気《け》もない。
そしてもう二人の唇の間は、ほんの二、三センチ。あと一、二秒の内には、羽佐間倫子のファーストキスは達成されるところだった。
が——その瞬《しゆん》間《かん》、二人の頭上で、馬《ば》鹿《か》でかい声がしたのだ。
「倫子様! お電話でございます!」
「ワッ!」
小池朝也はびっくりして飛び上った。
「全く、もう! 頭に来るんだから!」
倫子は、いまいましげに言った。
「な、何だい、今の声? 君のうち、庭にゴジラでも飼《か》ってるの?」
朝也がキョロキョロと辺りを見回しながら言った。
「違うわよ」
倫子は、ヒョイと立ち上ると、キュロットスカートのお尻《しり》を手ではたいた。「呼出し用のスピーカーがこの真上にあるの」
「ああ、びっくりした!」
朝也は、かなりショックだったらしく、胸を押《おさ》えて、目をパチクリさせている。そこへ、
「お嬢《じよう》様《さま》! お電話です!」
と、前にも増して凄《すご》い声。
「今、出るわよ!」
と言い返して、倫子は、庭の遊歩道の傍《そば》に置かれた、ソクラテスの胸像の方へと歩いて行った。
「おい、家へ戻《もど》るんだったら、逆じゃないの?」
と、朝也が声をかけると、倫子は振《ふ》り向いて、笑った。
「ここは私の家よ」
そして、ソクラテスの頭をポンと叩《たた》いた。パカッと、頭が開いて、倫子はその中へ手を入れ、電話の受話器を取り出した。
「はい、倫子です」
——初めて、この羽佐間家の広大な屋《や》敷《しき》へ招かれて来た朝也は、ただただ、唖《あ》然《ぜん》とするばかりだった。
さて——ここで時間を十五分ほど逆回ししてみよう。場所はもちろん庭園ではない……。
会議が終ると、誰《だれ》もがホッと息をついた。——いつもの通り、である。
羽佐間グループの四十に上る企《き》業《ぎよう》のトップたちを集めて行うこの会議は、出席者たちの間で、ひそかに、
「羽佐間マラソン」
と、呼ばれていた。
ともかく、開会が午後一時で、閉会は一応五時の予定。
しかし、実際に終るのは、決って夜の九時を過ぎていた。
大体、企業のトップというのは、二十代、三十代の若者ではない。少しくたびれて来た五十代、六十代が中心だ。
その世代にとって、八時間の会議は、一キロのビフテキを無理に食べさせられるようなものだった。
だから、ほとんどのトップたちは、この会議の前日には休みを取って、体調を整えて来ることにしていた。
一番疲《つか》れていない——というより、会議の始まる前より元気そうにすら見えるのは、羽佐間栄《えい》一《いち》郎《ろう》だけだ。
羽佐間栄一郎。——羽佐間グループの頂点に君臨する男である。
四十八歳《さい》の若さ、堂々たる体《たい》躯《く》、ヘリコプターで飛び回る行動力。
日本の経済人としても、異色の存在であった。
「みんなご苦労だった」
と、羽佐間は立ち上って、言った。「来月の会議には、もっと心楽しく席を立つようにしよう」
大会議室から、潮が引くように、人の姿が消え、後には羽佐間栄一郎と、秘書の小《こ》泉《いずみ》光《みつ》江《え》が残った。
「やれやれ……」
羽佐間は腕《うで》を精《せい》一《いつ》杯《ぱい》伸《の》ばして、深《しん》呼《こ》吸《きゆう》をした。「会議ってやつは不健康なもんだな」
小泉光江は肩《かた》をすくめて、
「今度は縄《なわ》とびでもしながらにいたしますか?」
と訊《き》いた。
羽佐間は笑って、
「君は面白い発想をするよ」
「社長ほどでは」
光江は言い返した。
年《ねん》齢《れい》は定かでない。若い、と見られているが、すでに、十年も羽佐間の秘書をつとめていて、その間、一向に老《ふ》けない。
「ロボットじゃないか」
などと噂《うわさ》されたりしていた。
均整の取れた体つきで、いかにもビジネス向きのグレーのスーツ。銀ぶちのメガネ。
美人に違いないのだが、そのメガネを外した顔を見た者はいない、と言われていた。
秘書としての能力は、並《なみ》外《はず》れていた。
羽佐間の、分《ふん》刻《きざ》み、かつ錯《さく》綜《そう》したスケジュールが常に頭に入っていて、間《ま》違《ちが》えたことがない。
博識の人のことを、「ウォーキング・ディクショナリー」というが、それにならえば、さしずめ、小泉光江は、「ウォーキング・コンピューター」というところか。
「お車が玄《げん》関《かん》に参っていると思います」
「うん」
いつもなら、羽佐間は、そのままさっさと会議室を出て行く。しかし、今日は、違っていた。
また、元の椅《い》子《す》に腰《こし》をおろしたのである。
「——コーヒーを持って来てくれ」
「はい」
意外に思っても、口に出さないのが、良い秘書である。
光江は、机の上の電話へ手をのばした。
「二つだ」
と、羽佐間は付け加えた。
「——第一会議室にコーヒーを二つ」
それだけ言って、光江は電話を切った。
羽佐間が愉《ゆ》快《かい》そうに、
「もうちょっと愛想のある頼《たの》み方はできんのか? 『お願いね』とか、『悪いけど』とか——」
「仕事以外のことでなら、ともかく、仕事でむだ口はききたくありません」
と、光江は言って、「——どなたかおいでになるんでしょう?」
と訊《き》いた。
「誰《だれ》か来る、と言ったか?」
「ですが、コーヒーを二つ——」
「君の分だ」
今度は光江もちょっとびっくりした様子だった。羽佐間は、自分のファイルを閉じて、
「これを後でキャビネに戻しておいてくれ」
と、光江に渡《わた》した。
「はい」
光江はファイルを受け取って、「社長」
「何だ?」
「コーヒーを取っていただいたのはありがたいんですが、経費にしておいてよろしいんでしょうか?」
「ああ、構わん」
羽佐間が、ちょっとびっくりしたように、「いくらでもあるまいが」
「ですが、一円でも不正は不正です」
羽佐間は声を上げて笑った。——光江は戸《と》惑《まど》いを見せた。
十年間、羽佐間の秘書をしていて、こんな笑い声を聞いたことがなかったのだ。
ドアが開いて、コーヒーが運ばれて来た。「ああ、ここに置いてくれ。ご苦労さん」
運んで来た女子社員へ、羽佐間は言った。「それから、あと十五分、この会議室に人を入れないでくれ。重要な打ち合せ中だ」
「かしこまりました」
羽佐間は、光江と二人になると、
「座れ」
と言った。
「はい」
「——そんな遠くじゃ顔も見えん。この隣《となり》の椅《い》子《す》に座れ」
光江は言われた通りにした。
「さあ、コーヒーが冷《さ》めない内に飲もう」
と、羽佐間はカップを引き寄せた。「ミルクと砂糖は入れるのか?」
「ミルクだけです」
「そうか」
羽佐間は、光江のカップにミルクを入れてやった。「やっと君のことが一つだけ分ったぞ」
「社長……」
これはどうやら、ただごとではないと察したのか、光江は椅《い》子《す》に座り直した。
「来週の予定を、全部、キャンセルしておいてくれ」
「——はい」
光江は肯《うなず》いた。
「休みを取る」
これこそ、決め手のパンチだった!
光江は唖《あ》然《ぜん》とした。——十年間、羽佐間は休むことを知らない男だったのだ。
ただ、七年前、妻を亡くしたときだけ、一日、会社を休んだ。その他《ほか》は、日曜日以外、休まない。
いや、日曜日だって、休んでいるのは半分ぐらいだったろう。
その羽佐間が、「休みを取る!」
「来週、ずっとでしょうか?」
「そうだ」
「かしこまりました。連《れん》絡《らく》しておきます」
やっと、光江の表情が、元に戻《もど》った。
「君も、この十年、よく働いたな」
「恐《おそ》れ入ります」
「一《いつ》緒《しよ》に休みを取ったらどうだ」
光江は、少し表情をこわばらせた。
「社長」
「何だ?」
「それは、クビだ、ということでしょうか?」
「君は面白い辞書を使ってるらしいな。休みイコール、クビなのか」
「ですが——」
「しかし、この場合は当っている」
羽佐間は穏やかに言った。
「——分りました」
光江は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。「長い間、お世話になりまして——」
「これからの方が長い」
「は?」
「君は私と結《けつ》婚《こん》するんだ」
光江は、二、三度瞬《まばた》きをした。
「——ご冗《じよう》談《だん》を」
「真《しん》剣《けん》だ」
「ですが——」
「いやか?」
「社長——」
「今は一人の男だ。社長は、よせ」
羽佐間は真剣な表情だった。
「はい」
微《び》妙《みよう》に違う『はい』だった。
「メガネを取ってみてくれんか」
光江は、じっと羽佐間を見ていたが、やがて、ゆっくりと手を上げて、メガネを外した。
羽佐間は、ホッとしたように微《ほほ》笑《え》んだ。
「君が承知してくれて、嬉《うれ》しい」
「社長——」
「社長はよせ」
「申し訳ありません。でも、私は——」
「君がメガネを取った! 夫以外の人間に、そんなことをするか?」
光江は、少し顔を伏《ふ》せ加減にして、
「いいえ」
と、小さな声で言った。「ですが——私のことを、何もご存知ありません」
「女だ、ってことさえ知ってりゃ充《じゆう》分《ぶん》だ」
羽佐間はそう言って、「女なんだろうな?」
と訊《き》いた。
光江が笑い出した。羽佐間も笑った。
そして笑いが途《と》切《ぎ》れたとき、ここにも、あの「ふと」が訪れたのである。
この「ふと」の後、二人の唇《くちびる》は近寄った。そして、ここには何の邪魔も入らなかったのである……。