「いやよ!」
と、倫子の声が、居間から飛び出して来た。「いや! いや! 絶対にいや!」
そして今度は、声じゃなく、倫子本人が、飛び出して来たのである。
広いホールをぶらついていた朝也は、
「おい、どうしたんだ?」
と、倫子の後を追いかけながら、言った。
「冗《じよう》談《だん》じゃないわ!」
と、倫子はカンカンになっている。「私を何だと思ってるの!——いやだわ! 絶対にいや!」
階段を上りかけたところで、やっと追いつく。
「どうしたんだよ、一体?」
「全くもう……」
倫子は、手すりにもたれた。「聞いたでしょ、父のこと」
「再《さい》婚《こん》するんだろ? いいじゃないか」
と、朝也は気軽に言った。「君らしくもないぞ。君のお父さんだって、まだ若いんだ。再婚に反対しちゃ気の毒だよ」
倫子が呆《あき》れたように、
「私がいつ、父の再婚に反対したのよ」
朝也が今度はびっくりした。
「だって、君、今、『いやだ、いやだ』って——」
「再婚のこと、言ってんじゃないのよ。私だって、父には奥《おく》さんが必要だと思ってるわよ!」
「じゃ、何が気に入らないんだ?」
「考えてみてよ! あのね——私に、ハネムーンについて来い、って言うのよ」
倫子は拳《こぶし》を振《ふ》り回した。「冗談じゃないわ! 私を何だと思ってんのかしら?」
朝也は呆《あつ》気《け》に取られて、言葉もない。
「馬《ば》鹿《か》みたいじゃないの。あの二人がベタベタくっついてるのに、私は一人でポケッとして——。大体、夜だって、あっちは二人。こっちは一人よ。馬鹿らしくって!」
朝也は笑い出していた。
「仕方ないじゃないか」
「フン、誰《だれ》が行くもんですか」
倫子は、何やら思い付いたように、「そうだ!」
と、指を鳴らした。
「どうしたの?」
「二人のベッドに、一《いつ》緒《しよ》に寝《ね》かせてくれるなら、一緒に行ってもいい、って言ってやろう!」
「おい——」
倫子はさっさと居間へ戻《もど》って行ってしまった。
朝也は、笑いながら、その後をついて行った。
「三《さん》題《だい》噺《ばなし》、って知ってるか」
と、羽佐間が言った。
「三つ、何か題を出してもらって、それを使って話を作るんでしょ?」
暖《だん》炉《ろ》の前に、倫子は寝そべっていた。
「そうだ」
羽佐間は、ロッキングチェアに、ナイトガウンを着て座っていた。
暖炉といっても、もちろん、今は火が入っていない。
倫子は、セーターとスラックスというスタイルだった。長い髪《かみ》、ちょっと小《こ》柄《がら》ながら、スラリと長い足。いたずらっぽい、大きな瞳《ひとみ》。
羽佐間倫子、十六歳。
羽佐間の、一人《ひとり》娘《むすめ》にして一人っ子である。お父さんと二人の時間も、もうなくなるんだな、と倫子は思った。
「三題噺がどうしたの?」
「これで、何か作れるかな」
と、羽佐間は言った。「三十年。タイム・カプセル。——そして、殺人」
最後の言葉に、倫子はちょっと目を見張った。
「殺人、といったの?」
「そう、殺人だ」
「人殺しのこと?」
「そうだよ」
深夜、もう二時を回っていた。
殺人の話が出るのに、ふさわしい時間ではあったが……。
「ねえ、お父さん、それ、何の意味なの?」
と、倫子は深いカーペットの上に、仰《あお》向《む》けになった。
「三十年前、私は十八歳だった」
「当然ね」
「高校を出るとき、三年生は、何か面白い企《き》画《かく》を立てよう、と話し合った。そして、色々、議論もあったが、結局、タイム・カプセルに、みんなめいめいが思い出の物を入れて、校庭に埋《う》め、三十年たったら、掘《ほ》り出そうということにしたんだ」
「面白い。——で、三十年目が、今年?」
「その通り」
と、羽佐間は肯《うなず》いた。
「掘り出すの?」
「来週だ。——ちゃんと学校にも確かめてある」
「じゃあ、ハネムーンの途中で?」
「立ち寄るつもりだよ」
倫子は、ちょっと眉《まゆ》を寄せた。
「でも——〈三十年〉と〈タイム・カプセル〉は分るけど、もう一つの〈殺人〉っていうのは?」
「それなんだよ」
羽佐間は、ゆっくりと一つ、息をついた。
「——失礼いたします」
振り向くと、メイドの容《よう》子《こ》が、寝ぼけまなこで、パジャマ姿のまま、立っている。
「どうしたんだ?」
「お電——話です」
欠伸《あくび》を間に挟《はさ》んで、容子は言った。
二十四、五の至って丈《じよう》夫《ぶ》そうなメイドである。
「こんな時間に?」
「すみません」
「誰《だれ》だね?」
「言わないんです。ただ、どうしても、三十年前のことで、旦《だん》那《な》様《さま》に話をしたい、と」
三十年前?——倫子と羽佐間は、顔を見合わせた。
「よし、出よう」
羽佐間は立ち上った。
倫子も父について行った。
夜間は、一本の電話しか使わないのだ。
「——もしもし、羽佐間だ」
倫子は、父の表情が、少し固くなるのを見た。
「君は誰《だれ》だ?——おい!——もしもし!」
羽佐間は肩をすくめて、受話器を戻《もど》した。
「何だって?」
と、倫子は好奇心をむき出しにして、訊《き》いた。
「いや——妙《みよう》な電話だ」
なぜか羽佐間は、それ以上、答えなかった。そして、唐《とう》突《とつ》に、
「もう、遅《おそ》い。寝るか」
と言った。
「でも——三十年前がどうとか——」
「いつか話してやるよ」
羽佐間は、ちょっと急いで遮《さえぎ》ると、「じゃ、おやすみ」
と、手を上げた。
父が階段を上って行くのを、倫子はポカンとして見送っていた。
「話しかけておいて、やめるなんて!」
父らしくないことだった。確かに、父らしくない……。
「三十年。タイム・カプセル。殺人、か……」
三十年とタイム・カプセルは、すぐにつながる。でも、殺人というのは……。
絶対に聞き出してやるから!
倫子は決心した。決心したことは、たいてい、やってしまうのである。
「お嬢様、何ですか、これ?」
と、光江が言った。
「え?」
「そのメモ用紙です」
倫子は、つい、無意識に、メモ用紙に、〈三十年、タイム・カプセル、殺人〉と書いていたのだった。
「何でもないわ」
と、倫子は首を振った。「ねえ、光江さん。まだ私のこと、『お嬢様』なの?」
「来週にならないと、あなたの母親じゃありませんもの」
「相変らず、うるさいのね」
と、倫子は笑った。
昼休みの時間になっていた。倫子は今、春休みなので、父の会社へとブラリとやって来たのである。
「お父さん、まだ出て来ないのかなあ」
「お呼びしましょうか」
と、光江がインタホンに手を伸ばす。
「いいわ。別に急ぐわけじゃないから」
倫子は、明るい陽《ひ》射《ざ》しを一《いつ》杯《ぱい》に入れている広い窓へと歩いて行った。
オフィスビルの林が見える。いや、もう、それは森に近いかもしれない。
「——やあ、待たせたな」
と、父が出て来る。「来客だったんだ。昼飯でもどうだ?」
「そのために来たのよ」
羽佐間は笑った。
「ちゃっかりした奴《やつ》だ。——君もどうだ?」
と、光江に声をかける。
「約《やく》束《そく》がございまして」
「ほう。誰《だれ》と?」
「預金通帳です」
と、光江は言って、笑った。「銀行に用がありますの」
「そうか、じゃ、一時半に戻《もど》る」
と、羽佐間は言って、倫子の肩に手をかけた。
「——社長」
と、光江が声をかけた。「一時二十五分にお戻り下さい。来客の約束があります」
——羽佐間と倫子は、ビルの地下の食堂街にあるラーメン屋へ入った。
もちろん、倫子の希望である。
「もっと高い所にすりゃいいじゃないか」
「いいの。ラーメン、食べたかったんだから!」
倫子は澄《す》まして言った。「混《こ》んでるのね」
「安い店は混むさ」
——実際、店の入口には、席の空くのを待つサラリーマンが大勢、固まって立っていた。
「結婚式の方は?」
「準備は、あれがやってる」
「少しは手伝いなさいよ」
「やらせてくれんのだ」
羽佐間は、楽しそうに笑った。
ラーメンが来て、二人は食べ始めた。
「——お父さん」
「うん?」
「凄《すご》く若いよ、このごろ」
「親をからかうな」
と、羽佐間が苦笑した。
羽佐間は、店の入口の方へ顔を向けて座っていた。
表の通路を行く人の顔が見える。
「お父さん、例のタイム・カプセルの話、どうなったの?」
「あれか」
羽佐間は、アッという間にラーメンをきれいに食べると、スープを飲んで、フウッと息をついた。「——今夜でも話してやろう」
「絶対よ。結婚しちゃったら、当分は話してくれそうもないから」
羽佐間は水を一口飲んだ。そして——表の方へ目を向けた。
「あれは……」
「え?」
「いや——何でもない」
と、首を振る。
そのとき、店の入口辺りが騒《さわ》がしくなった。
「おい、何だよ——」
「通してくれ……」
と、男の声がした。
人をかき分けて入って来たのは、浮《ふ》浪《ろう》者《しや》に近い、薄《うす》汚《よご》れた背広姿の男だった。
よろけるような足取りで、倫子たちのテーブルの方へやって来ると、
「羽佐間!」
と、絞《しぼ》り出すような声で言った。「羽佐間か!」
そして、そのまま男は倒《たお》れた。
倫子は息を呑《の》んだ。——男の背中に、ゆっくりと広がって来るしみは、明らかに血だったからだ。