「まあ、人殺し?」
と、さすがに冷静さで知られる小泉光江も、ちょっとびっくりした様子で目を見開いた。
「そうなの! 私たちの見ている前で倒れたのよ」
倫子は、未《いま》だ興奮さめやらぬ面持ち。
そりゃそうだろう。人が死ぬ——それも事故とか、病気じゃなくて、「殺される」ところを目の前で見るなんて、めったにあることじゃない。
もっとも、倫子は、怯《おび》えてはいなかった。むしろ喜んでいた——というと聞こえが悪いが、死者へ、適度な哀《あい》悼《とう》の意を表しつつ、
「凄《すご》い話のタネができた=」
と、思っていたのである。
好奇心旺《おう》盛《せい》な世代の中でも、特にその傾《けい》向《こう》の強い倫子としては、無理もない反《はん》応《のう》であった。
「で、社長は?」
と、光江が秘書の顔に戻《もど》る。
「警察の人に話をしてるわ。やっぱり現場に居合わせたわけだものね」
「じゃ、一時半の来客には間に合わないかもしれませんね」
光江は、ちょっと心配そうに、机の上のデジタル時計を見た。
「ねえ、光江さん」
「何でしょう?」
「もう少し、詳《くわ》しい話を聞きたくない?」
光江は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んで、
「仕事時間外に、うかがいます」
倫子はため息をついた。
「そうかなあ……。やっぱり大切なことだと思うんだけど。——その殺された男、お父さんの知り合いだったらしいし……。でも、まあいいけど」
光江が、さすがに眉《まゆ》を寄せて、
「お嬢様、今、何ておっしゃいました?」
「いいの。時間外にお話しするから」
光江は、ヒョイとメガネを外して、
「時間外です」
と言った。
倫子は吹き出してしまった。
「お嬢様、人が死んだというのに、不《ふ》謹《きん》慎《しん》ですよ」
「ごめん。だって……」
と、倫子は笑いを抑《おさ》えながら、「——光江さんって、もしかして、羽佐間家の家風にぴったりの人かもしれないわ」
「どうしてです」
「変り者だ、ってこと」
「そんなことより、さっきのお話です」
倫子は、死んだ男が、倒れる前に、
「羽佐間!——羽佐間か!」
と言ったことを話してやった。
「社長のお知り合い……」
「でも、およそ、そんな風に見えなかったわ。見すぼらしい格《かつ》好《こう》で。きっと、倒《とう》産《さん》した会社の社長さんだったのかもね」
「社長は何かおっしゃっていまして?」
「いいえ。だって、大変な騒ぎで、警官が駆《か》けつけて……。のんびり話なんかしてる雰《ふん》囲《い》気《き》じゃなかったのよ」
「そうですか……」
「きっと、戻《もど》ったら話してくれるでしょ」
と言ったのが合図だったかのように、ドアが開いて、羽佐間が入って来た。
「間に合ったな」
と、時計を見る。
「はい」
光江は、もうメガネをかけていた。
「お父さん、どうだったの?」
と、倫子が父の腕をつかんで訊《き》く。
「うん……。刑《けい》事《じ》に状《じよう》況《きよう》を説明してやったよ」
「そんなの分ってるわよ! あの殺された人のことよ」
羽佐間は困ったように耳をかいていたが、やがてヒョイと肩をすくめると、
「中へ入ろう」
と言った。
社長室へ入ると、羽佐間は、窓辺に歩み寄って、外を眺《なが》めた。
「——知ってる人だったの?」
と、倫子が訊くと、少し間を置いて、羽佐間が肯《うなず》いた。
「昔だ。ずっと昔のことだ……」
「でも、どうして……殺されたのかしら」
「分らん」
羽佐間は首を振った。「誰《だれ》かに鋭《するど》い刃《は》物《もの》で刺《さ》されたらしい。犯人は分らない。——あのとき、店の入口はたてこんでいたからな」
「じゃ、あの中に犯人が?」
「いや……たぶん犯人はあいつの後を尾《つ》けて来ていたんじゃないかな。そして、彼が私に気付いた。——店の中へ入ろうとして、空き待ちの列へ割り込む形になった。もみ合っているとき、素早く刺したんだろう」
「そうか。きっとそうね」
倫子は肯《うなず》いて、「その人、お父さんに会いに来たの?」
「分らんな。たまたま通りかかって、私を見かけたのかもしれん」
「でも、それはおかしいわ。犯人は、その人がお父さんに会うのを止《と》めようとして、刺したんじゃないの?」
羽佐間は、ちょっと苦笑して、倫子を眺《なが》めた。
「お前は、そういうことになると、よく頭が回るな」
「お父さんの娘だもん」
と、倫子はやり返した。「——死んだ人、何ていうの?」
「石《いし》山《やま》、という男だ」
「どういう知り合い?」
羽佐間は、ちょっと間を置いてから、
「三十年前、タイム・カプセルに思い出の品を入れた仲間だよ」
と言った。
「社長」
インタホンから、光江の声がした。「M工業の大《おお》田《た》様がおみえです」
「警官がいるから、何かと思ったよ」
と、小池朝也が言った。
「正にあの場所で刺されたのよ」
と、倫子が得意気に言う。
正確には、倫子が得意に思う理由はないのだが、そこはただ、「知っている」ことが、特権の一つになる、若者の発想というべきだった。
二人は、あのラーメン屋を、通路を挟んで斜《なな》め前に見る喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入っていた。
倫子が春休みなので、当然朝也の方も春休みで、時間を持て余していた。倫子から、電話一本かかると、いとも気軽にやって来たというわけである。
「君が食い逃《に》げでもして、警官が来てるのかと思った」
「失礼ね!」
倫子は朝也の足をテーブルの下でけとばした。朝也が悲鳴を上げる。
「あ、ごめんなさい」
と、女の子の声がした。
「え?」
朝也と倫子が顔を上げると、年齢はたぶん二人と同じくらいの、何だか垢《あか》抜《ぬ》けしない少女が立っていて、
「すみません、人を捜《さが》してたんで、つい——」
と頭を下げる。「そんなに痛かったですか?」
どうやら、これは、朝也の悲鳴を、自分が足を踏《ふ》みつけたせいだと思っているらしい。
「いいえ、大したことないわよ」
と、倫子が手を振って、「気にしないで」
「すみません、本当に」
と、なおもしつこく頭を下げる。
何だか見すぼらしい身なりの少女である。セーターは、肘《ひじ》が抜けそうだし、スカートもしわくちゃ。靴《くつ》に至っては、かかとがすり減《へ》って、スリッパみたいになってしまっている。
しかも、髪など、ろくに手入れもしていないのだろう、いっそうやつれた印象を与《あた》えていた。
「すみません、どうも——」
と謝《あやま》りながら、二人のテーブルを離《はな》れた。
そして、カウンターの方へ行くと、
「あの、人を呼び出してもらえるんでしょうか?」
と、レジの娘に訊《き》く。
「店の中なら、自分で捜《さが》してよ」
と、ふてくされた顔のレジ係は面《めん》倒《どう》くさそうに言った。
「いいえ、この地下全体の呼び出しなんですけど」
少女の方は、よほど気が気でない様子。
「そんなの分んないわね。管理室にでも訊いてよ」
「それ——どこでしょうか?」
「捜したら? 大して広いわけじゃないんだから」
——聞いていた倫子が頭へ来た。
「ちょっと、あんた!」
と、レジへツカツカと歩み寄ると、キッと係の娘をにらみつけた。
「な、何よ、あんた」
「客がものを訊《たず》ねてるときに、その態度は何よ! 給料もらってるなら、それだけのことしなさいよ!」
倫子の剣《けん》幕《まく》に相手は恐れをなしたようだったが、少女の方は、オロオロするばかりで、
「あの——いいんです、私——自分で捜《さが》しますから」
と、ボソボソ呟《つぶや》くように言った。
「私、ついてってあげる」
と、倫子は少女の腕を取って、「小池君! 払《はら》っといて。——さ、こんな店、出よう」
と、通路へ出たものの、倫子とて、どっちへ行けばいいのやら分らない。
「訊《き》いて来てあげるわ。待ってて」
と、少女を残し、隣のソバ屋へ入って行った。
「すみません。あの、ちょっとうかがいますが——」
と、レジのおばさんへ声をかけた。
そこへ、
「おい、倫子!」
と、朝也の声が追いかけて来た。「大変だ!」
振り向いて、倫子は目を丸くした。あの少女が、ぐったりと床に倒れていたのである。
「——お腹《なか》、空《す》いてたのね」
と、倫子は言った。
しかし、これは言うまでもないセリフであった。少女の前には、チャーハンの皿《さら》二枚とラーメンのカップが二つ、空になって、重ねられていたのである。
もう一枚の皿は、ギョーザだった。
「どうも、ご心配かけて済みません」
少女は頭を下げた。
ここは倫子の父の会社、その応接室の一つである。
倒れた少女を、倫子と朝也が二人してかつぎ込《こ》み、医者を呼んだら、
「こりゃ、腹が減って目を回したんだな」
と言われた。
そこで、出前を頼んだのだが……。
昼飯を抜《ぬ》いて来たという朝也の分も一緒に取ったのに、少女は全部平らげてしまった。朝也も、空腹なのを忘れて呆《ぼう》然《ぜん》としている。
「いいのよ、ここ、父の会社だから、経費で落としちゃうわ」
と、倫子は言った。「一体、何日食べてなかったの?」
「丸三日です」
朝也が目を丸くして、
「俺《おれ》なら死んでる」
と言った。
「ねえ」
と、倫子は身を乗り出して、「誰《だれ》かを捜《さが》してたんじゃないの?」
「あ! いけない!」
少女は口に手を当てた。「食べるのに夢中で……。父と待ち合わせてたんです。あの地下街で。でも、いつまでたっても、やってこないので、気になって」
「そうだったの。じゃ、もう一度行ってみる?」
「ええ。私、もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですから。本当にすみませんでした」
と、少女が立ち上る。
「いいわよ。一緒に行ってあげる」
倫子たちは、少女と一緒に廊《ろう》下《か》へ出た。「——私、羽佐間倫子、こっちは小池朝也君よ」
「どうも。私、石山秀《ひで》代《よ》です」
と少女は言った。「——羽佐間さん、ですか?」
「石山さん?」
二人は顔を見合わせた。——石山といえば、確か、さっき、自分の目の前で殺された……。でも、まさか……。
「羽佐間さんって、父がよく知ってる方にいらっしゃるんですけど——でも——」
石山秀代は言いかけて、ためらった。
「石山さん……。じゃ、もしかして、あなたのお父さん、私の父の所へ来るつもりだったの?」
「そうだと思います、はっきり聞いてはいないんですけど」
「あのね——」
どう話したものか、倫子が困っていると、
「おい、どうした」
と、羽佐間がやって来た。「どこへ行ったかと思ったぞ」
「お父さん。あの——こちらは——」
「羽佐間さんですか」
と、石山秀代は、ホッとした表情になった。「石山秀代といいます。父をご存知だと思いますが」
羽佐間は、ちょっと目を見開いて、秀代を見ていたが、すぐに状《じよう》況《きよう》を察したようだった。
「石山君の娘さんか!」
「あの、父がお邪魔していませんでしょうか?」
羽佐間は、ちょっと考えてから、
「こちらへ来なさい。話したいことがある」
と、秀代の肩に手をかけ、応接室の方へと連れて行った。
倫子と朝也は顔を見合わせた。
「ああいうことって、言いにくいな」
と、朝也が言った。
「うん……」
こういうことは、やはり父のような、経験をつんだ大人にしかできないんだ、と倫子は思った。
足音がして、振り向くと、光江がやって来るところだった。
「お嬢様、社長、こちらへみえませんでした?」
「応接室にいるわよ」
「まあ、お客様ですか」
「いえ、それがね——」
と、倫子が説明しかけると、応接室のドアが開いて、羽佐間が飛び出して来た。
「おい! 医者だ! 気を失っちまった」
やっぱり、お父さんでもだめなことはだめなんだ、と倫子は思った……。