その校舎は荒《あ》れ果てていた。
使われなくなって、もう二十年もたっているという。——窓ガラスはほとんど残っていないし、あちこち、戸が倒れ、床《ゆか》が抜け、天《てん》井《じよう》は、雨が降る度に洩《も》るのだろう、あちこちにしみが出来ていた。
倫子は、廊《ろう》下《か》を歩いている。
一足毎《ごと》に、床板がキイキイと鳴るので、ギクリとさせられる。力を入れたら、踏み抜いてしまいそうだ。
それにしても、よくこんなになるまで放っておいたものだ、と思った。取り壊《こわ》して建て直すとかする計画は、なかったのだろうか?
ある教室の前で足を止める。
ここだわ。三年一組。——お父さんのいたクラス。
黒い木の札《ふだ》に、白い文字が〈三年一組〉と読み取れる。文字は、思ったほどかすれていなかった。
中を覗《のぞ》き込《こ》む。戸は、外れて、どこかへ行ってしまっていた。
中は空っぽだった。みごとなくらい、何もない。
机や椅《い》子《す》はどうしたのだろう? どこか他《ほか》で使うために持ち去ったのか、それとも、誰《だれ》かが、まきの代りに燃やそうと持って行ってしまったのか……。
ガランとした教室の中へ入る。
湿《しめ》った匂《にお》い。そして、何だか、まだ誰かがここにいるような、そんな気分……。
黒板も、表面が半分ほどもはげ落ちてしまっているが、まだ残った黒い部分には、白《はく》墨《ぼく》の文字が、少し残って見えた。あれは何かしら?
数字。——そう、数字の〈2〉か〈3〉だわ。
数学の授業だったのかもしれない。
二十年前の授業。その文字が残っている。——それを書いた人は、もう死んでしまったかもしれないけど、文字は、残っている。
不思議な感《かん》慨《がい》に襲《おそ》われた。
あの文字は、私より長生きして来たんだわ、と思った。
私が十六歳、それよりずっと長い間、少しずつ少しずつかすれながら、それでも頑《がん》張《ば》って、字の形を留《とど》めて来た。
もちろん、考えようによっては、そんなの当り前で、馬鹿らしいくらい、どうでもいいことなのかもしれない。でも、見方を変えれば、やはり、どこか心を打つものがある。
どんなものだって、そうなんじゃないかしら。感《かん》激《げき》なんてするもんか、と思っていれば何にでも冷たい目を向けることができる。
そんな人には、人生はつまらないものに思えるだろう……。
ほとんど枠《わく》だけが残った窓から、校庭が見えた。——春休みだから、生徒たちの姿もない。
曇《くも》って、生《なま》暖かい風が校庭を渡《わた》っていた。
廊下に足音がした。
「ああ、お母さん」
と、倫子は言った。
光江が入って来た。——今はもう、羽佐間光江である。
「ここだったの。どこへ行ったのかと思ったわ」
「お父さんの母校っていうのを、見ておきたくてね」
と、倫子は言った。「お母さんはどうしてここに?」
「お母さん、っていわれると、何だか照れるわ」
光江は困ったように笑った。
「いやでも慣《な》れていただかないとね」
と、倫子は笑《え》顔《がお》で言った。「お父さんとはうまく行ってる?」
「からかわないでよ」
と、光江は頬《ほお》を染めた。「——あなたがどこへ行ったのかと思って、来てみたのよ」
「さすが母親! よく分るわ」
と、倫子は言った。「でも、いいなあ」
「いい、って、何が?」
「この校舎」
光江は目を丸くして、
「このオンボロの校舎が?」
「ちゃんとしてる時のことよ、もちろん。でも、コンクリートの、味も素《そつ》気《け》もない校舎より、人間味があると思わない?」
「そうね、確かに」
と、光江は肯《うなず》きながら、「いつまでも憶《おぼ》えてるものよ、こういう校舎のことって。たとえば、廊《ろう》下《か》のどこに穴があいてたとか、どこから雨が洩《も》って来たとかね……」
「雨で授業が中断なんて、面白そうね」
と、倫子は笑った。
「ちょっと不思議ね」
と、光江は窓の方へ歩み寄りながら言った。
「え?」
「どうして、この校舎がそのまま残ってるのかしら?」
そう。それは倫子もそう思った。
ともかく、窓から見ると、すぐに目に入るのは、鉄筋四階建の、真新しい校舎で——もちろん、ごく最近建ったものだろう。
この校舎が二十年前に使われなくなったとき、代りの校舎が建ったはずだ。そして今、あの新しい校舎。
その二十年の間、この老《ろう》朽《きゆう》化《か》した校舎が、そのまま放置されていたというのは、奇妙なことだった。
「壊すとたたりでもあるんじゃない?」
と、倫子が言うと、光江は顔をしかめた。
「やめてよ。そういう話、怖《こわ》いんだから」
「へえ。新発見! お母さんはお化けが怖い!」
と、倫子は微《ほほ》笑《え》んで、「じゃ、今度、いっちょ、おどかしてやろ」
「いいわよ。お父さんにしがみつくから」
「あ! 嬉《うれ》しそうに言っちゃって」
と、倫子は光江をにらんで、笑い出した。
「——やあ」
突《とつ》然《ぜん》、教室の入口の所で声がして、倫子と光江は、飛び上りそうになった。
「びっくりさせたかな。これは失礼」
立っていたのは、もう六十にはなっているかと思える、白《しら》髪《が》の男だった。
見た所、そう怪《あや》しい風でもない。きちんと背広を着込んでいるし、ネクタイも曲っていなかった。
でも、変だわ、と倫子は思った。
普通に歩いて来たのなら、足音がしたはずだ。気付かないはずがない。
いつの間にかそこに立っていたというのは——おそらく、忍《しの》び足でやって来たのではないか。
「私は滝《たき》田《た》という者です」
と、その男は言った。「あなた方は——」
「羽佐間と申します」
と、光江が言った。「学校の方でいらっしゃいますか」
「羽佐間。——もしかすると、羽佐間栄一郎君の?」
「家内です。こちらは娘の倫子です」
「やあ! そうでしたか」
とその男は顔をほころばせた。
笑うと、人なつっこい感じだ。それは逆に言えば、ひどく緊《きん》張《ちよう》していたのだということでもある。
「羽佐間君を、私は教えていたのですよ」
「まあ、それじゃ、先生でいらっしゃるんですか」
「彼《かれ》が高三で——そう、この教室にいたとき、私は数学を教えていました」
倫子は、滝田という男に、やや疑わしげな視線を投げた。大体数学が苦手なので、あんなもの(!)がよくできるのは、普通の人間じゃない、と思っているのである。
「今もこちらの学校に?」
と光江が訊《き》いた。
「いや、あちこち、転々としましてね、今は東京の私立高にいます」
「じゃ、こちらへ……」
「羽佐間君も同じでしょう」
と、滝田はニヤリとした。「タイム・カプセルですよ」
「じゃ、わざわざそのためにいらしたんですか」
「そうです」
滝田は黒板の方へ歩いて行った。「——ここに教《きよう》壇《だん》があった。あのころの生徒は、みんな個性的で面白かったですよ」
妙《みよう》だな、と倫子は思った。
ただ、当時の数学の教師だったというだけで、わざわざこんな所へやって来るだろうか?
「先生も——」
と、倫子は言った。「タイム・カプセルに何か入れたんですか?」
「いや、そうじゃありませんよ」
滝田は首を振った。「案内状が来なければ、きっと思い出しもしなかったでしょうな」
「案内状?」
「そう。——『三十年前、タイム・カプセルを埋めたことを、憶《おぼ》えていらっしゃると思います』という書き出しでね。それを読んだら、ああ、と思い出した」
「それでおいでになったんですね」
滝田は、なぜかちょっとためらってから、
「その通り」
と、肯《うなず》いて見せた。
廊下をやって来る足音がした。——父だ、と分った。
「やっぱりここか」
羽佐間の顔が覗《のぞ》いた。「床が腐《くさ》っている所もあるから気を付けないと——」
と言いかけて、滝田に気付き、言葉を切った。
「久しぶりだね」
と、滝田が言った。
「滝田先生!——これは驚《おどろ》いた」
羽佐間は懐《なつか》しげに滝田の方へ歩み寄った。
「君はすっかり大物になったな」
と、滝田は言って、羽佐間と握《あく》手《しゆ》をした。
「どんなに出世しても、先生は先生、生徒は生徒ですよ」
羽佐間は笑顔で言った。
「他にも来るのかな」
「ええ、たぶん七、八人は集まるでしょう」
「そんなものか。——みんな、それぞれ自分の生活があるからな」
「もう生きていない者も三人います」
「三人? まだ四十——八だろう」
「ええ。ガンで死んだのが一人、交通事故で一人。それから……殺された者が一人」
「殺された? 誰だね、それは?」
「石山です」
「石山。——そうか、憶《おぼ》えているよ」
滝田は、軽く肯《うなず》きながら、「気の毒に。一体何があったんだ?」
「つい先週のことですよ」
「先週」
「今度のタイム・カプセルと関係があるんじゃないかと思うんですが」
「三十年前だよ!」
と、滝田は目を見張った。
「そうです。しかし、事件は解決していません」
羽佐間は、空っぽの教室の中を、ゆっくりと歩きながら言った。
「だが、三十年といえば……もう、殺人も時効になっている」
「それはそうです。でも、時効になって罪に問われなくても、犯人だと分れば、社会的に葬《ほうむ》られる恐れがあります」
「うむ。——君ぐらいの年齢だと、もうかなりの地位にいる者もあるからな」
「ですから、石山も、それと何か絡《から》んで、殺されたのじゃないかと思うんです」
滝田は、両手を後ろに組んで、
「つまり——あのタイム・カプセルに、犯人を示す証《しよう》拠《こ》が入っている、というのかね?」
「確信があるわけではありません」
と、羽佐間は言った。「しかし、私にはそうとしか思えません。もっとも、そのときは思いも及《およ》ばなかったのですが」
「そのときなら、すぐに掘り出せたろうがな」
「残念ながら、個人的な確信では、そんな大仕事を警察に頼むわけにもいきませんしね」
「——三十年か」
滝田は、教室の中央へ歩いて行くと、教壇のあった方を振り向いた。「まるで昨日《きのう》のことのようだ」
「私も、はっきり憶《おぼ》えていますよ」
羽佐間は肯《うなず》きつつ、やはり同じ方向へ目をやった。「あそこに、血に染《そま》って倒れていた高《たか》津《つ》智《とも》子《こ》先生の姿を……」
倫子と光江は、ふと、寒気を覚えながら、羽佐間の視線を追って、今は何もない、汚《よご》れた床へと目を向けた。