そのホテルは、山の中に、唐《とう》突《とつ》に立っていた。
唐突に、というのは、変な言い方だが、実感としてその通りなのだから、仕方ない。
「どうしてこんな所にこんなのがあるわけ?」
と、車を降りて、倫子は言ったものだ。
至ってさびれた山《やま》間《あい》の町。その外れまで来ると、突然、ヨーロッパの何百年か前に戻《もど》ったような、洋館が現われる。
倫子は、どこかに、〈ここからはドイツです〉という立札でもあるんじゃないかと、キョロキョロ見回したほどだ。
「洒《しや》落《れ》たホテルだね」
と、一緒にやって来た小池朝也も、感心するよりは、呆《ぼう》然《ぜん》としている。
「なかなかいいだろう」
と、父の羽佐間が言う。「できたてのホヤホヤに見えないだろ?」
「できたて?」
倫子は父を見て、「じゃ——このホテル、お父さんが建てたの?」
「そうさ。光江との結婚記念だ。ゆくゆくは、お前に譲《ゆず》ってもいい。ホテルのオーナーでもやるか。どうだね、小池君?」
「は、はい! すてきですね」
朝也は、急に緊張している。
「やめてよ。何も小池君と結婚すると決めたわけじゃないんだから」
倫子はプーッとふくれて、言った。
「何だ、そうなのか?」
羽佐間は意外そうに、「せっかく、二人で同じ部屋にしてやったのに」
「冗《じよう》談《だん》じゃないわ! 別々! 別の部屋にして!」
と、倫子は喚《わめ》いた。「小池君の部屋には、外から鍵《かぎ》がかけられるように」
「おい! もっと人を信用しろよ」
二人のやりとりを聞いていた光江が笑い出してしまった。
「若いっていいわね。——ともかく、中へ入りましょうよ」
ホテルといっても、大きな館《やかた》という造りで、とても新品には見えない。石造りの、落ちついた雰囲気は、古い屋敷をホテルに改《かい》装《そう》した、と言っても通用しそうである。
羽佐間のベンツが停《とま》ると、すぐにホテルの中から、制服のボーイが二人、姿を見せた。
その後から出て来たのは、五十がらみの、太って血色のいい男だった。きれいに禿《は》げた頭が、いかにも栄養満点という感じに光っている。
「社長! お待ちしておりました」
と、なかなか聞かせるテノールである。
「やあ。——紹《しよう》介《かい》しよう。家内の光江と、娘の倫子。友人の小池君だ」
と、羽佐間は言って、「こちらは、このホテルの支配人、入《いり》江《え》君だ」
「よろしくお願いいたします」
入江という男は、いかにも人の好《よ》さそうな微《び》笑《しよう》を浮《う》かべて言った。
「ともかく、部屋へ入ろう」
と、羽佐間が促《うなが》す。
ボーイたちがトランクを手に、ついて来る。
ロビーも、大いに倫子の気に入った。いかにも父らしい、渋《しぶ》い、格調のある造りだ。
「お部屋は二つでしたね」
と入江が言うのを、
「三つにしてくれ」
と、羽佐間が訂《てい》正《せい》している。
倫子と朝也は、何となく目を合わせて、クスッと笑った。
「お二階でございます」
と、部屋へ案内される。
二階までしかないのだが、エレベーターがついている。
——総《すべ》てが、ゆったりした雰囲気である。
「お父さん、こんな所に、こんな凄《すご》いホテル造って、採算とれるの?」
と、倫子が言うと、羽佐間は笑って、
「お前も夢《ゆめ》のないことを言う奴《やつ》だな」
と言った。「ここは私の生れた町だ。——採算などどうでもいいんだよ。いわば、別荘のつもりで建てた。まあ、私の道楽というところだ」
「ぜいたくな道楽ね」
と、倫子は苦笑した。
父には、そういうところがある。それは、倫子もよく分っていた。
ロマンチストなのだ。少年の夢《ゆめ》を、今でも抱《いだ》き続けている。
「——じゃ、七時になったら、ロビーで会おう」
と、羽佐間は言って、光江と二人でスイートルームへ入って行った。
「いいなあ、スイートルームか。ハネムーンにピッタリじゃないか」
と、朝也が言った。
「ええ? スイートって、『甘い』のスイートじゃないのよ。『続き部屋』って意味なんだから」
「何だ、そうか。てっきり新婚向きだから、スイートなのかと思った」
と、朝也は頭をかいた。
「考えすぎよ」
と、倫子は、朝也の鼻をつついてやった。「はい、あなたはここ。私は隣」
「こっちへ来たって構わないよ」
「ご遠《えん》慮《りよ》申し上げます」
と、倫子は笑って、ドアを開け、「じゃ、後でね」
と手を振って見せた。
——ツインルームなので、結構広い。
ベッドも、セミダブルぐらいのが二つ入っている。
一人で寝るにゃもったいないかな、なんて倫子は考えていた。
七時に夕食、といっても、もう六時を少し回っている。のんびりしてはいられない。
手早く、荷物を出して、納めるべき所へ納めると、窓の方へと歩いて行った。
もう外は暗い。——庭なのか、それとも裏手の自然の林なのか、黒い木立ちの影が、ぼんやりと見分けられた。
少し見ていると、目が慣れて来る。——木立ちまでには少し距離があって、その間はたぶん芝《しば》生《ふ》になっているらしい。
明日は散歩でもしてみよう。
それにしても——奇《き》妙《みよう》な旅である。
三十年前のタイム・カプセルが、四日後に掘り出される。
それは、ただ、「三十年前の物」を取り出すのではなく、「三十年前の過去」を掘り出すことなのだ。
高津智子。——女教師が、三十年前に殺された。
その鍵《かぎ》が、タイム・カプセルの中にある。
いや、それは確実ではない。しかし、可能性があるのだ。
父の話からは、その程度のことしか分らないが、おそらく、父が、話すべきときだと判断したら、何もかも打ち明けてくれるだろう……。
倫子は、ふと、父がこのホテルを建てたのも、そのタイム・カプセルのためかもしれない、と思った。
別に根《こん》拠《きよ》があるわけでもないのだが、直感的にそう思ったのである。
もちろん、間違っているかもしれない。しかし……。
突然、目の下の芝生にさっと光が広がった。
下の部屋の窓が開いて、その光が芝生を照らし出したのである。
すると——今まで、ただの暗がりに過ぎなかった、木立ちの間に、人の姿が浮かび上った。
女だ。白いドレスを着ている。
どんな女なのか、そこまでは、倫子の目では確かめられなかった。
ただ、女は、急に光が当って、びっくりしたように、身を引いた。
そして、木立ちの間へとドレスの裾《すそ》をひるがえしながら、駆《か》け込んで行った。長い黒い髪が、白のドレスの背に踊《おど》った。
不意に、窓が閉《しま》ったのか、芝生も木立ちも、暗い影に閉《と》ざされてしまった。
——あれは誰《だれ》かしら?
ホテルの客だろうか? それにしても、あんなドレスで……。
何だか不つりあいである。
それに、あんな所で何をしていたのだろう?
散歩するような時間でもない。
それに、木立ちの奥へ逃げて行ったのも、妙である。
あれは幻《まぼろし》だったのかしら? 倫子は首をひねった。
カーテンを閉めると、肩をすくめ、
「さあ、さっぱりして来よう」
と呟《つぶや》いた。
夕食のときは、少しいい服も着たい。
ちょっとシャワーなど浴びて、身だしなみを整えて……。
倫子はバスルームのドアを開けた。設備は申し分なく近代的である。
浴《よく》槽《そう》にお湯を入れ、服を脱《ぬ》ぐ。
「アチチ……」
と、目を白黒させながら、浴槽に身を沈《しず》めた。
倫子は、お風《ふ》呂《ろ》が大好きである。
もしこの世の終りが来るのなら、湯舟につかって迎《むか》えたい、とさえ思っている。
「そうね。私がホテルを建てるなら、まず温泉のある所だな」
と、呟いて、大きく息を吐《は》き出す。「——ああ、天国!」
目を閉じて、お湯が筋肉をほぐしてくれるに任せていると、ついウトウトと眠《ねむ》気《け》すらさして来るようで……。
「おい、大丈夫?」
と、朝也の声がした。
目を開くと、バスルームのドアが開いて、朝也の顔がヒョイと覗《のぞ》いた。