「——小池君、まだ髪が濡《ぬ》れてるわ」
と、光江が言った。「風《か》邪《ぜ》、引くんじゃない?」
「風邪ぐらい、引いて当然よ」
倫子は、ステーキをナイフで切りながら、言った。「女の子の入浴してるのを覗《のぞ》いたりするからいけないの」
「いや、大丈夫です」
朝也は、照れくさそうに言った。
「倫子もよくない。鍵《かぎ》をかけ忘れたのは自分のせいだぞ」
と、羽佐間が笑いながら言った。
「だって、当然、自動ロックだと思ったんだもん」
「私はあれが嫌《きら》いなのだ。何だか、刑《けい》務《む》所《しよ》の独《どく》房《ぼう》へでも入れられるようでな。だから、鍵は、ちゃんと自分でかけるようにしてあるのだ」
「開いてるからって、黙って入っていい、ってもんじゃないわ」
「声はかけたよ」
と、朝也が抗《こう》議《ぎ》する。
「聞こえなかったわ」
「だからって、頭からいきなり水をぶっかけることはなかったじゃないか」
「水ぐらいで、死にゃしないわよ」
倫子はまるで動じない。
「ごめんなさいね、小池君」
と、代りに光江が謝っている。
「いいのよ」
「あなたが『いいのよ』ってことないでしょう」
「恋《こい》する人に水をかけられるのも、恋の楽しみの内よ」
「勝手なこと言って」
光江も仕方なしに笑っている。
——いいレストランだった。
もちろん、客の数が限られているから、そう広くはない。
でもテーブルなどの間《かん》隔《かく》がゆったりと取ってあって、居心地のいい食堂だ。
「味も悪くないわね」
と、倫子が、分ったようなことを言う。
「東京の一流レストランから引き抜いたんだぞ」
と、羽佐間が言った。「その内、東京から、ここの食事のために、わざわざ客がやって来るさ」
「あなたのやることなら、そこまで行くかもしれないわね」
と、光江が言った。
「そうでなきゃ、ホテルをここに建てた意味がないよ」
ピアノの音がした。
レコードではない。——倫子は振り向いた。
奥に、グランドピアノが据《す》えてある。そこで鍵《けん》盤《ばん》に向っているのは、白いドレスの若い女だった。
白いドレス。長い髪……。
「——お父さん」
「うむ? 何だ?」
「あのピアノをひいてる人、お父さん、知ってるの?」
「いいや。それは入江の仕事だよ。しかしなかなか巧《うま》いじゃないか」
「うん……」
「どうかしたのか?」
「別に。何となく訊《き》いてみただけ」
と、倫子は首を振った。
入江がやって来て、
「お味の方はいかがでございますか」
と訊《き》いた。
——果して、あれが、さっき芝生にいた女だろうか?
見たところは、あんな風だったが、どんなドレスだったか、はっきりと見分けられたわけではない。
たまたま、同じようなドレスを着ていたとも考えられる。
入江が羽佐間としゃべっている。倫子は、ピアニストの方を振り返った。
ピアニストの目が、倫子たちの方を見ていた。倫子と目が合う。
向うが、ハッと目をそらした。和音が、少し狂《くる》った。
こっちを見ていた。あのピアニスト。
若い女だ。——二十二、三というところか。美人だが、ちょっときつい顔立ちである。
ピアノはかなり上手なようだが、ほとんど顔の表情は変えずにひいている。
「——あのピアニストは、なかなかいいじゃないか」
と、羽佐間が入江に言った。「どこで見付けたんだ?」
「ちょっと妙な話でして」
と、入江が微《ほほ》笑《え》んだ。
「ほう?」
「三日ほどここへ泊《とま》られて、町へ出られたとき、財布をなくしてしまわれたんです。で、こちらは、後でお送りいただけば結構です、と申し上げたのですが、それでは申し訳ないとおっしゃって。——で、ここでピアノをひかせてくれ、ということになりまして」
「じゃ、ホテル代の分を?」
「はい。もう一週間ほど、こうして毎日——」
「なるほど。面白い人だな」
——嘘《うそ》だわ、きっと。
倫子は思った。それはここにいるための口実だ。
女の直感は、よく当るのである。
「失礼します」
と、フロントの係がやって来た。「羽佐間様にお目にかかりたい、と——」
「誰《だれ》だね?」
「若い女の方です。石山様という」
「まあ、きっと秀代さんだわ」
と、倫子は言った。
羽佐間と倫子が二人でフロントの所へ行くと、やはり石山秀代が、相変らず、どことなく見すぼらしい格好で立っている。
「秀代さん。どうしてここへ?」
「——すみません、こんな所にまで押《お》しかけて来て」
と、秀代は頭を下げた。「父の葬儀のことは、何から何までやっていただいて、本当にありがとうございました」
「いや、あんなことしかできなくて残念だった。——ここへは何の用で?」
「私、やっぱり父の代りに、そのタイム・カプセルというのを、この目で見ようと思ったんです」
と、秀代は言った。「お願いです。ここに置いていただけませんか。あの——泊るほどのお金はないんですけど、皿洗いでも何でもやりますから」
羽佐間は微笑んで、秀代の肩に手をかけた。
「友人の娘に、そんなことをさせるもんか。——どうだ、倫子、お前の部屋で一緒に寝たら」
「それ賛成! 小池君が忍び込んで来ても安全だわ」
と、倫子が言った。
そのとき、レストランの中で、朝也は、派手にクシャミをしていた。
レストランやロビーの他《ほか》に、のんびりと寛《くつろ》げるサロンがあるのが、いかにも羽佐間好みである。
「——いいコーヒーね」
と、光江が肯《うなず》きながら言った。
「フランスのサン・リボだよ。入れ方にコツがいるが、こくがあるだろう」
倫子にはよく分らない。ガブガブ飲めるアメリカンの方がいいけど、なんて考えているのである。
「あの肖像は誰《だれ》の?」
と、倫子は言った。
暖炉の上に、大きな、女性の半身像を描いた油絵がかけてある。
三十になるやならずという印象の、ふっくらした、美しい女性だ。
地味で、清《せい》楚《そ》な雰囲気、服装も、ごく当り前のスーツらしい。まるで学校の先生みたいだ……。
「分った」
と、倫子は言った。「高津智子さんでしょう」
羽佐間は、ちょっとびっくりしたように、倫子を見た。
「よく分ったな! そう。あれが高津先生だ」
「あの方が……」
と、光江が、改めて絵を眺《なが》めた。
「生前に描いたものではない。亡くなった後、写真をもとに、先生の教え子だった画家が描いたのだ。——人間性が、良く出ているよ」
——倫子は、じっとその絵の顔を眺めて、ふと、誰かと似ている、と思った。
誰《だれ》だろう?
いくら考えても、分らない。しかし、確かに、誰かに似ているのだ……。