サロンでコーヒーを味わった後、羽佐間は光江を促して、立ち上った。
「じゃ、先に休むよ」
と、倫《みち》子《こ》と朝也に声をかける。
「どうぞ。私はどうせ夜行性だから」
「コウモリだね」
と、朝也が言った。
「それを言うなら、吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》と言ってよ。ずっとカッコいいじゃない」
「もう少しロマンチックなこと、言えないのかい?」
「いいじゃないの。そっちの方は、お父さんとお母さんが引き受けてくれるわ」
「親をからかうもんじゃない」
と、羽佐間は笑って、光江と一緒にサロンから出て行った。
入れ代りに、石山秀代が入って来る。羽佐間へ、
「ありがとうございました」
と、丁《てい》寧《ねい》に頭を下げていた。
「秀代さん」
と、倫子は声をかけた。「ここへお座りなさいよ」
「いえ、私——」
「遠慮しないで。どうせここは父のホテルなんだから」
倫子は、秀代にコーヒーを取ってやった。
秀代は、
「どうもすみません」
と、頭を下げている。
よく恐《きよう》縮《しゆく》する子である。——性格なのかもしれない。
「私に弟か妹ができるかしらね」
と、倫子は、朝也の方に向いて、言った。
「できたら、どう思う?」
「楽しいじゃない。にぎやかになるし。——将来のための、練習にもなるわ」
「練習?」
「子育ての、よ」
「まず夫捜《さが》しが先決だろ」
「差し当り、ろくなのがいないもんですからね」
と、倫子は言い返した。
「あら」
と、秀代は言った。「あの人は、どなたですか?」
秀代が見ているのは、高津智子の肖像画だった。
「知ってるの?」
と、倫子が訊《き》いた。
「顔を見たことがあって。——それも、たぶん、父のアルバムか何かで見たような気がします」
「そうでしょうね」
倫子は、高津智子のことを、分っている点だけ——つまり、三十年前、ちょうど、タイム・カプセルが埋められたときに殺されたのだと説明した。
「そうですか」
と、秀代は、改めて肖像画をじっと見つめていた。「——でも——」
「え?」
「いえ——何でもありません」
秀代は首を振った。
何か言いたげだったが、思い直して、口をつぐんだ様子だ。
倫子は、ちょっと気になった。
大体、倫子は言いたいことを、こらえていることのできない性格だ。いや、むしろ、言いたくないことまで言ってしまう方かもしれない。
「——ねえ、秀代さん」
と、倫子は言った。
「はい」
「ちょっと訊《き》きたいんだけど……。もし、返事をしたくなければ、いいのよ」
「何ですか?」
「あなたとお父さん……。どうして、あんな苦しい生活をしていたの? 父とか、色々、お友だちを頼《たよ》って、仕事ぐらい、見付けられたでしょうに」
秀代は、ちょっと目を伏せた。
悪いことを訊いたかな、と倫子は思った。
「まあ、色々あるよな」
と、朝也が、取りなすように言った。
「いえ、いいんです」
秀代が顔を上げる。「父は、誰《だれ》かから、いつも逃げていたんです」
「逃げて?」
倫子と朝也は顔を見合わせた。
「——それはどういう意味?」
「よく分りません」
と秀代は首を振った。「でも、ともかく、いつも追われていたのは事実なんです」
「じゃ、あなたにも、それが誰なのかは言わなかったの?」
「はい」
「——お母さんは?」
「死にました。——いえ、そう聞かされています」
と、秀代は言い直した。
「じゃ、本当のところは分らないの?」
「物心ついたころには、もう私は父と二人でした。父から、母は私を生んだときに死んだと聞かされていました」
倫子は、少し間を置いて、
「でも、あなたは信じてないのね」
と言った。
「どう考えていいのか、分らないんです」
秀代は首を振った。「父は、仕事を転々としていました。一つの所に、一年いることはまれでした」
「どうして、そんなに仕事を変ったの?」
「正確なところは分りません。でも——たぶん、誰か、父を追っている人が、近付いて来ると、父は仕事を移ったんだと思います」
「じゃ、その『誰《だれ》か』は、そんなに長い間、ずっとあなたたちを追い続けてるわけ?」
「だと思います」
「その事情とか、お父さんは話したこと、ないの?」
「ありません」
「訊《き》いたことも?」
「訊いたことは、何度もあります」
「でも、返事はしてくれなかった」
「ええ。ただ——」
「ただ?」
「この何か月か、なぜか父は仕事につかず、ほとんど毎日、寝る所も変えていたんです。——私、たまりかねて、父に訊きました。『何か、追われるような悪いことをしたのか』って」
「それで?」
「父は、じっと私を見て、『父さんを信じてくれ』と言いました。『何も悪いことはしていない』って」
「よほどの事情があったのね」
「たぶん……。そして、『もうすぐ、何もかもかたがつく』と言いました」
「もうすぐ? それはどういう意味なのかしら?」
「たぶん、このタイム・カプセルのことじゃなかったかと思うんです」
なるほど。倫子は肯《うなず》いた。——秀代の言う通りだろう。
「でも、そんなに長い間、逃げ回ってるって、大変なことね」
「よほどのことがあったんだと思います」
と、秀代は肯いて、言った。
タイム・カプセル。
どうやら、それはただ単に、「思い出の品」をしまい込《こ》んでいるだけではないらしい。
何か、もっともっと恐《おそ》ろしいもの——何かの秘密を、納めているのだ。
倫子は、ふと、視線を移した。
入って来たのは、あのピアニストだった。白いドレスのままだ。
倫子は、ちょっと当《とう》惑《わく》した。——ピアニストが、ほとんど迷うことなく、あの肖像画のすぐ前の椅《い》子《す》に腰をおろしたからである。
「——どうしたんだい?」
と、朝也が訊《き》いた。
「ううん、別に……」
と倫子は首を振った。
気のせいだろうか? あのピアニストは、わざわざ、あの絵が正面に見える席に座ったようだった。
いや、もちろん、偶《ぐう》然《ぜん》ということもありうる。
しかし、普通なら、サロンへ入って来て、まず、中を見回し、どこへ座るか、考えるだろう。
ところが、今、彼女は、全く迷いもためらいもしなかった。
真《まつ》直《す》ぐに、あの席へ行ったのだ。
なぜだろうか?
秀代の、「追われつづけた話」、そしてあのピアニストの、肖像を見る席……。
——何かあるのだ、という思いで、倫子の好奇心は赤熱していた。
「——どうしたの?」
という声で、倫子は目を覚ました。
いや、きっと眠《ねむ》っていなかったのだろう。一《いつ》旦《たん》眠ってしまえば、人の話し声くらいで、目の覚める倫子ではない。
半《なか》ば、眠っていて、頭の中であれこれ空想する。その時間が、倫子は大好きなのである。
それにしても、今の声は……。
暗がりの中に起き上って、あっと思い出した。——石山秀代が一緒にいたのだ。
「お父さん——どうしたの」
また声がした。
寝言を言ってるんだ。——秀代が寝返りを打つ。
心配そうな声である。不安が、秀代を苦しめている。
倫子は、ベッドから、そっと出て、秀代の顔を覗《のぞ》き込んだ。
息づかいが早い。——汗《あせ》が額に光っている。
熱でもあるのかしら。
ちょっとためらったが、倫子は、そっと秀代の額に手を当てた。
熱はないみたいだけど……。
突然、秀代が目を見開いて、
「キャッ!」
と声を上げてはね起きた。
これには倫子の方もびっくりして、声を上げそうになった。
「——大丈夫?」
「あ——すみません」
秀代は肩で息をしていた。
「ずいぶんうなされてたみたい」
秀代は、頭を振って、
「変ですね。父はもう死んでしまったのに、父が殺される夢を見るんです」
「殺される?」
「ええ。——二人で逃げてると、いつも誰《だれ》とも知れない影が追いかけて来て……。その内、父が、私に逃げろと言うんです。そして——父がその影に立ち向って——倒れるんです」
秀代は、そっと額の汗を拭《ぬぐ》った。「汗をかいちゃった……」
「シャワーでも浴びたら? さっぱりするわよ」
「ええ。——じゃ、そうします」
秀代はベッドから出て、バスルームへ入って行った。
倫子は、枕《まくら》もとの明りを点《つ》けた。
午前二時だ。
喉《のど》が乾《かわ》いたな、と思った。——秀代も、シャワーを浴びたら、何か冷たいものがほしいかもしれない。
倫子は、パジャマの上にガウンをはおってフロントに電話を入れてみた。
こんな時間なのに、すぐ受話器が上った。
「すみませんけど、何か冷たいものをいただけます?」
「かしこまりました。何がよろしいでしょうか?」
さすがに父の造ったホテルである。
「そうね。冷たい紅茶でも——」
「かしこまりました」
都心のホテルだって、この時間ではなかなかこうはいかないものだ。
明りを点けて、ソファに座っていると、秀代が体にバスタオルを巻きつけて出て来た。
「あら。——明りが点いてると思わなかったんで」
と、顔を赤らめる。
「いいじゃないの。でも、もうすぐ飲みものが来るわ」
「じゃ、服を着ます」
秀代はあわてて、バスルームへ戻《もど》って行った。
「結構大人だなあ」
と、倫子は呟《つぶや》いた。
弱々しく見える秀代だが、バスタオル一つになっていると、なかなか女らしい体つきなのだ。——ちょっと、倫子は、差をつけられた感じだった。
ドアをノックする音。
「はい」
と、倫子は返事をした。
「お飲物をお持ちしました」
あら、あの声は……。
倫子がドアを開けると、朝也が盆《ぼん》を手に立っている。
「小池君! いつからここで働いてるの?」
「よせやい。ちょうどこの前で、運んで来る人に出会ったんだ」
「何やってるの、こんな時間に?」
「君に追い出されたおかげで、一人で退《たい》屈《くつ》なのさ」
「じゃ、一緒にお茶でも飲む?」
「いいね!」
と、朝也がニヤリとした。
そのとき、支配人の入江が廊《ろう》下《か》を走って来るのが、倫子の目に入った。
何だか、ひどくあわてている。
「どうしたのかしら?」
見ていると、入江は羽佐間の部屋のドアを叩《たた》いていた。
「こんな時間に。——何かあったんだわ、きっと」
と、倫子は言った。