「ひどい!」
と声を上げたのは、秀代だった。
もっとも、声が出ただけ、落ちついていたのかもしれない。
他《ほか》の誰《だれ》もが、声もなかった。倫子と朝也、それに羽佐間と光江である。
あのサロンに、みんなはいた。
もちろん、こんな時間だから、サロンが開いているわけではない。
誰もが呆《ぼう》然《ぜん》として、それを見つめていた。——高津智子の肖像画を。
肖像画は、刃物で大きく切り裂かれていたのである。
「——何てことだ」
羽佐間が呟《つぶや》くように言った。
表面は穏やかだが、かなりショックを受けていることが、倫子にはよく分った。少し、声が震《ふる》えている。
「誰がこんなことを……」
と、光江が言った。
羽佐間が入江の方を向いて、
「いつ気付いたね?」
と訊《き》いた。
「今です。そろそろ休もうかと思いまして、一応、中をぐるっと見回っていたのです。それが習慣でして」
「それでこの部屋に入ったとき——」
「はい。もうこんな風で」
「誰か、逃げる者とか、廊下をうろついてた人間はいなかったかね?」
入江は首を振って、
「特に気付きませんでした」
と言った。
「ひどいことになった」
羽佐間は、絵の方へ、歩み寄った。「——降ろしたまえ。このままかけておくわけにはいかない」
「はい。直ちに」
入江は椅《い》子《す》を運んで行って、自ら、絵をおろした。朝也が駆《か》け寄って、手伝う。
「どういうことなのかしら?」
と、倫子は父に言った。
「分らん」
羽佐間は首を振って、「あの人を憎《にく》んでいる人間がいたとは思えんが……。しかし、殺した人間がいたわけだからな」
「何か関係がある?」
訊《き》くだけむだというものだった。
単なるいたずらの範《はん》囲《い》を越《こ》えた、明らかに悪意のあるやり方だ。
「ナイフのようなもので、やったんでしょうね」
と、朝也が言った。「そう簡単に、このキャンバスが切れることはありませんよ」
入江はため息をついて、
「私の不注意で、申し訳ありません」
と、頭を下げた。
「いや、君のせいじゃない」
羽佐間は入江の肩を軽く叩《たた》いた。「しかし、ここに絵が急になくなると、やはり寂《さび》しい。何か、他の絵で、当面は間に合わせておいてくれ」
「かしこまりました」
と、入江が頭を下げた。
「あら——」
倫子のそばで、秀代が声を出した。
「どうしたの?」
「誰かがドアの外に——」
「え?」
倫子は、急いでドアの方へ行ってみた。
しかし、外にも、人影はない。
「誰もいないわよ」
「そうですか。気のせいかしら」
と、秀代は首をかしげた。「でも、何だか白いものがチラッと見えたような気がしたんです」
白いもの?——倫子は、白いドレスの、あのピアニストを、思い出していた。
「さあ、もう今日は休もう」
と、羽佐間がみんなを促した。「朝になってしまう」
——部屋へ戻《もど》って、ベッドに入ったものの、倫子はなかなか寝つけなかった。
「倫子さん」
と、秀代が言った。
「ん? 何なの?」
「小池さんと婚《こん》約《やく》してるんですか?」
倫子は、ちょっと面食らった。
「小池君?——まさか! まだそんな年齢じゃないわよ。それに、ただのお友だちでしかないし」
「そうですか」
「でも、どうして?」
「いえ——別に。おやすみなさい」
「おやすみ……」
倫子は、もしかして、秀代さん、小池君に気があるのかしら、と思った。
悪くないわね。
倫子は、一人でそっと笑った。
夜中の騒ぎのせいか、倫子が起き出したのは、もう昼近くだった。
「——おはよう」
と、食堂へ入って行くと、やはり起きたばかりらしい、父と光江がテーブルについていた。
「みんなお寝《ね》坊《ぼう》さんね」
と、光江が言った。
「私は一人で寝坊。そちらはお二人で寝坊。ちょっと事情が違《ちが》いますよ」
羽佐間が笑って、
「口ばかり達者になって。——さあ、何か食べたらどうだ。午後は、どこかへドライブにでも行こう」
「いいわね」
と、倫子は言った。
父が笑って平静なのは、本音なのか、それとも、装《よそお》っているのだろうか?
「秀代さん、どこにいるのかしら?」
コーヒーを飲みながら、倫子は言った。
「さっき、小池君と二人で、庭へ出て行ったぞ」
「小池君と?」
「うかうかしてると、取られちまうぞ」
「構わないわ。何なら、のし紙つけて、進《しん》呈《てい》してもいいわよ」
「無理してるんじゃないのか?」
と、羽佐間は笑った。
そこへ、
「失礼します」
と、声をかけて来たのは、あのピアニストだった。
もちろん、今は普通のワンピース姿である。
「何か?」
「羽佐間さんでいらっしゃいますね」
「そうです」
「中《なか》山《やま》久《く》仁《に》子《こ》と申します」
「ピアノを聞かせていただきましたよ。まあどうぞ」
羽佐間にすすめられるままに、中山久仁子は、空いた椅《い》子《す》に腰をかけた。
「もう、お支払いの分は充分に働いていただいたようですな」
「恐れ入ります」
「しかし、どうして、ここにいらしたんです? あれだけの腕をお持ちなのに」
「このホテルが、とても居心地がいいものですから」
「それは嬉《うれ》しいですね」
と、羽佐間は微《ほほ》笑《え》んだ。
「実は、一つお願いがあるのですけれど」
「何でしょうか?」
「サロンに飾《かざ》ってある、女の方の肖像画のことです」
倫子は、トーストにバターを塗《ぬ》っていた手を止めた。
「——あの絵がどうかしましたか」
「とてもいい絵ですわ。いつもあの絵を眺《なが》めていると、心が休まるのです」
「なるほど」
「あの絵を、譲っていただけませんでしょうか?」
倫子と光江が、ちょっと顔を見合わせた。
「——もちろん、代金はお払いします。私も多少の貯《たくわ》えはありますから。どうぞ、値をおっしゃって下さい」
「いや、実はですね——」
と、羽佐間が言いかけたとき、食堂へ駆《か》け込《こ》んで来た者があった。
朝也である。