食堂へ駆け込んで来た朝也は、息を切らして中を見回した。
倫子は、ちょっと顔をしかめると、
「小池君!」
と、朝也に声をかけた。「こういう場所では静かにふるまってよ」
しかし、朝也の方は、そんな言葉は耳に入らない様子で、
「彼女、来なかった?」
と訊《き》いた。
「彼女?」
「うん、彼女だよ」
「——秀代さんのこと?」
「そうだよ、もちろん」
朝也は肩で息をしている。相当に、あわてて来たらしい。
「だって——小池君、一《いつ》緒《しよ》だったんじゃないの?」
「それが、突然、どこかに行っちゃったんだ!」
「待って」
倫子は席を立った。「お父さん、話を続けてて。構わないから」
中山久仁子が、
「また後でゆっくりお話ししますわ」
と腰《こし》を浮《う》かすのを、
「いえ、いいんです。どうぞ、そのままで——」
と倫子は抑《おさ》えて、それから朝也の腕《うで》を取って、「ちょっと、こっち!」
と、食堂から連れ出した。
「どうしたんだい?」
「それはこっちのセリフでしょ。何があったの?」
「それが、さっぱり分らないんだ」
と、朝也は、また息をついて、首を振《ふ》った。「ともかく、庭へ出よう」
倫子は、朝也について、庭へ出て行った。
もうお昼だ。——陽《ひ》は高く、快い天気だった。
「僕《ぼく》はあの子と庭へ出て来た。三十分くらい前かな」
と、朝也は言った。「別に僕が誘《さそ》ったってわけじゃない。よく憶《おぼ》えてないけど——たぶん、彼女《かのじよ》の方が、庭へ出てみたい、と言ったんじゃないかな」
「それで?」
「この芝《しば》生《ふ》をぶらついて、そのまま、林の中へ入って行った。二人で、だ」
倫子と朝也は、一緒に林の中へ入った。
もちろん、密林というわけじゃないから、中も充《じゆう》分《ぶん》に明るい。ただ、少し空気はひんやりとしていたが……。
「ここを歩いたの?」
と、倫子は訊《き》いた。
「この辺、だよ。でも、どの木の間だったか、なんて分らない」
「それはそうね」
「——五、六分歩いたかな。そう。その辺りで一休みした」
と、朝也は、少し木々の合間に開けた、草地を指さした。
「まだ、五、六分も歩いてないわよ」
「今は、急いで来たじゃないか。彼女とはのんびり歩いてたんだ」
朝也は、足を止めた。「そう。——たぶん間《ま》違《ちが》いなく、ここだ」
「それで?」
「ここに腰をおろした。それから、少し話をした。彼女が、立ち上って、伸《の》びをしたんだ」
朝也は、ゆっくりと、周囲を見回した。「で——それから、彼女は、何かを見付けたようだった」
「見付けた?」
「うん。そんな感じだった。あれっという顔をして、木々の間に入って行った」
「どこの?」
「その辺だと思う。——ほら、少し木が重なり合ってて、茂《しげ》みになってるだろ」
「うん」
「その辺に、姿を消した。——と、思うんだけど」
「思う、って、何よ? 見てなかったの?」
「僕は、逆の方を向いて座ってたのさ」
と、朝也は肩をすくめた。「だから、彼女の姿を、ずっと目で追ってたわけじゃなかった」
「じゃ、どうして、そこへ行ったと分ったの?」
「音だよ。足音と、その茂みがざわつく音がしたんだ」
「それで?」
「それで……それっきりさ」
と朝也は肩をすくめた。
「どういうこと?」
「彼女は、いなくなっちまったんだ」
倫子は、ポカンとして、
「まさか」
とだけ、言った。
「僕だって、そう思うよ」
と、朝也は、その茂みの方へと歩いて行った。「よく見てくれよ。とても、人が隠《かく》れていられるほどの場所じゃないだろ」
倫子は肯《うなず》いた。
確かに、茂みといっても、小さなものだ。子供だって、しゃがみ込むか、腹《はら》這《ば》いにでもならなくては、とても姿を隠せまい。
その周囲は、他と同じ、林だ。
「ここから、林の奥《おく》の方へ走って行ったんじゃないの?」
と、倫子は言った。
「それなら足音がするよ。でも、何も聞こえなかったんだ」
「そうか」
と、倫子は、名《めい》探《たん》偵《てい》よろしく、考え込んだ。
「ね、小池君、あなたが彼女から目を離《はな》してたのは、どれくらいの間?」
「それなんだ」
と、朝也は困《こん》惑《わく》した様子で、「彼女が茂みの方へ見えなくなって、僕も立ち上った。ズボンのお尻《しり》をはらって、振り向いた。——どんなにたっていても、まず十秒だな」
「で、そのとき、もう——」
「彼女の姿は、消えてたんだ」
倫子は、もう一度周囲の林を眺《なが》め回してみた。
木々の間は、かなり遠くまで見通せる。
足音もたてず、たった十秒の間に、どこまで行けるだろうか?
それに、朝也の話も嘘《うそ》とは思えなかった。大体、そんなことで嘘をつく理由が、朝也にはない。
「捜《さが》したの?」
「もちろんだよ」
と、朝也は肯《うなず》いた。「名前も、大声で呼んでみたし、ずっと奥まで行ってみた。でも、どこにも見えない。それで、もしや、と思って、ホテルの方へ戻《もど》って行ったんだ」
倫子も戸《と》惑《まど》っていた。
はっきり目的の分ったことへと突《とつ》進《しん》するのは得意なのだが、どうにもわけの分らない状《じよう》況《きよう》という奴《やつ》が、一番の苦手なのである。
「でも、ともかく、何かの拍子で、気付かなかったってこともあるわ」
と、自分へ言い聞かせるように言う。「一応、もう一度捜してみましょう」
「うん。じゃ、手分けして捜そう。君、あっちを見てくれ」
「了解」
二人は、左右へ分れて、歩き出した。
「秀代さん! —— 秀代さん! いたら、返事して!」
と、倫子は呼びかけながら歩いた。
しかし、結局、三十分近く、林の中をうろうろと歩き回って、何も手がかりはなかった。
元の草地へ戻って、倫子は座り込んだ。
少しすると、朝也もやって来る。
「——何かあった?」
むだを承知で、倫子は訊《き》いた。
「全然。そっちも?」
「ありゃ、言うわよ、訊かれなくたって」
二人は、少し間を置いて、顔を見合わせた。
「どうなってるの?」
倫子は、ため息とともに言った。「これだけ捜《さが》して、ホテルに戻《もど》ったら、部屋で寝《ね》てたなんてことになったら、小池君、あなたを二階の窓から放り出してやるからね!」
「そうなったら、自分で飛び降りるよ」
と、朝也は言った。
「——妙《みよう》な話だ」
羽佐間は、眉《まゆ》を寄せて、言った。
「そう。妙だわ」
倫子は父の前に立っていた。
結局、倫子は朝也を二階から放り出しはしなかったのである。つまり、石山秀代は行《ゆく》方《え》をくらましてしまっていたのだった。
「どうしたらいいのかしら」
と、光江がそばで、心配そうに言った。
羽佐間と光江が泊《とま》っているスイートルームである。
「ともかく、石山の娘だ。放ってはおけないよ」
と、羽佐間は言った。
「でも、どこを捜すの?」
と、倫子は訊いた。
「林の中でいなくなったんだろう」
と、羽佐間は立ち上って、「それなら林の中を捜すしかない」
「でも、私たちが、散々捜したわ」
「あなた」
と、光江が言った。「警察へ届けたら?」
「それはできん」
羽佐間が、はね返すように答えた。
「どうして?」
羽佐間は、問われて、少し迷った。
「いや——届けていけないことはない。しかし、果してそんな話を信じてくれるかどうか……」
「やってみなきゃ、分らないじゃないの」
「そうだな」
羽佐間は、なおも少し考えていたが、「——よし。ここは入江に任せて、私は警察へ行って話してみよう」
と言った。
——倫子は、父の態度に、どことなく、すっきりしないものを感じた。
光江が、警察のことを言ったとき、ほとんど考えもせずに否定した。
なぜだろう?
その後の、「信じてくれるかどうか」は、言いわけめいて聞こえた。
何か、警察へ届けたくない理由があるのかもしれない……。
羽佐間は、入江を呼んで、事情を説明した。
「では、すぐに人手を集めて、捜《そう》索《さく》させましょう」
入江と羽佐間が、話をしながら、一緒に一階へ降りて行く。その後から、倫子と朝也。少し遅《おく》れて、光江……。
「君はどうするんだ?」
と、朝也が言った。
「父について行くわ」
倫子は、迷うことなく言った。「小池君はここに残って。捜索のとき、必要だわ」
「分ったよ」
——ホテルを出ようとするところへ、
「あの——」
と、声をかけて来たのは、ピアニストの、中山久仁子だった。「いなくなった方、見付かりまして?」
「いや、これからまた捜してみます」
と、羽佐間が言った。
「そうですか。私も、何かお手伝いできることがあれば、いたしますわ」
「お気持だけで充分です。ありがとう」
羽佐間は微《ほほ》笑《え》んだ。
——車で、警察署へと向う途《と》中《ちゆう》、倫子は言った。
「ねえ、お父さん」
「何だ?」
「あの絵のことを、ピアニストの女性に話したの?」
羽佐間はチラッと倫子を見た。
「どうして?」
「興味があったの」
「——説明したよ。ありのままをな」
「どんな様子だった、彼女?」
羽佐間は肩《かた》をすくめた。
「びっくりしてたが、それは当り前だろう」
「そう……」
倫子は、ちょっと不満だった。
あのピアニストが、もっとドラマチックな反応を見せたのではないか、とひそかに期待していたのだ。