警察も倒《とう》産《さん》することってあるのかしら?
——倫子は、その建物の前に立って、そう思った。
いや、一応、ちゃんと警官もいるし、実際に営業(?)しているには違《ちが》いないのだが、ともかく、その建物のボロいこと……。
床《ゆか》でも抜《ぬ》けるんじゃないか、と、ヒヤヒヤしながら、中へ入った。
「——失礼します」
と、羽佐間が名《めい》刺《し》を出し、「署長さんにお目にかかりたい」
「お待ち下さい」
若い警官が、足早に奥へ歩いて行く。
少し中に立っていると、多少、建物のひどさにも慣れて来て、倫子は、むしろ好感を抱《いだ》くようになった。
雰《ふん》囲《い》気《き》が、およそ警察らしくない——というと、よほど倫子がいつもお世話になっているようだが、そうでなくても、いくらかは、「怖《こわ》い」という意識があるのは確かである。
しかし、ここには、もっと気安く立っていられる雰囲気があった。
父も同じ印象を受けたらしい。
「ここの署長は、きっと、しっかりした人だな」
と、肯《うなず》きながら、言った。
「同感」
「お前にも分るか」
「失礼ね。感受性の強い娘《むすめ》をつかまえて」
羽佐間は、ちょっと苦笑した。
「——どうぞおいで下さい」
と、若い警官が戻《もど》って来て、言った。
二人が通されたのは、ただ衝《つい》立《たて》で仕切られただけの「応接間」で、ソファも、色が変って、元が何色だったのか、見当がつかなくなっている。
少し待っていると、女の子がお茶を運んで来る。
「父はすぐ参ります」
と、二《は》十《た》歳《ち》ぐらいのその娘は頭を下げた。
「署長さんのお嬢《じよう》さん?」
羽佐間が、ちょっと目を見開いた。
「はい」
清《せい》楚《そ》な感じの、美しい顔立ちの娘だった。
羽佐間は、ちょっと娘の顔を見ていたが、
「——いや、お茶をどうも」
と、礼を言った。
「いいえ」
その娘が行ってしまうと、倫子は、
「どうしたの?」
と言った。
「いや、誰《だれ》か、知っている人間のことを思い出したんだ」
「今の人を見て?」
「うん。——しかし、誰のことかは、分らない」
「署長さんって、知ってるの?」
「いや、知らんよ。ここへ来たことはあるが、それは、あのホテルを作るときだ。書類上のことで……」
羽佐間は、ゆっくりとお茶を飲んだ。「——旨《うま》い。いいお茶を使っとるな」
「そう?」
倫子には、残念ながら、お茶の味は分らなかった。
足音がして、やや小《こ》柄《がら》な姿が、衝《つい》立《たて》から現われた。
「お待たせしました」
と、髪《かみ》の半ば白くなった、その男は、言った。
「署長の、梅《うめ》川《かわ》です」
羽佐間が唖《あ》然《ぜん》とした。
「——梅川先生! 梅川先生でしょう!」
「よくお分りですな」
と、梅川署長が笑《え》顔《がお》になった。
「いや——驚《おどろ》いた!」
「こっちこそ。こんな有名人においでいただいて、恐《きよう》縮《しゆく》ですな」
「先生……」
「『先生』はやめて下さい」
と、梅川は言った。「もう、この職について、三十年近くになる」
そして、倫子の方を見て、
「こちらは?」
と訊《き》く。
「娘です。倫子といいます」
羽佐間は、まだ半ば呆《ぼう》然《ぜん》としている。「こちらは梅川先生だ。——あのとき、学校にいた……」
「三十年も前の話ですよ」
と、梅川は言った。「ところで、お話というのは?」
「そうだ」
羽佐間は、やっと我に返ったように、「実は女の子が一人、行方不明になりまして」
と言った。
「ほう」
「石山秀代。——同級生だった石山の娘なんです」
「彼が殺されたという記事を見ましたよ」
梅川は肯《うなず》いた。「どういう状況です?」
倫子が、父にかわって、説明した。
梅川は、厳《きび》しい表情で、
「たぶん、林の中で迷ったのだと思いますが——しかし、万が一ということも考えなくてはならない。手の空《す》いている者を、全部行かせましょう」
と言った。
「お願いします」
「ここで待っていて下さい」
梅川が席を外すと、羽佐間は、ホッと息をついた。
「いや、びっくりした! まさか梅川先生が……」
「どういう人だったの?」
と、倫子は訊《き》いた。
「若い教師で、真《ま》面《じ》目《め》な人だった。まだ——たぶん、二十四、五だったんじゃないかな、あのときは」
「どうして署長に?」
「教師を辞《や》めたんだ。それは聞いていたんだが……。まさか警官になったとは」
「変ってるわね」
「いや——」
羽佐間は、ちょっと間を置いて、「梅川先生は彼女を好きだったんだよ」
と言った。
「彼女って……高津智子さんを?」
「そうだ。高津先生の方が年上だったが、誰《だれ》の目にも、梅川先生の気持ははっきり分った」
「じゃ、殺されて、凄《すご》いショックだったんでしょうね」
と言ってから、倫子はハッとした。「それで、警官に——」
「そうだろう。それしか考えられない」
「で、三十年も?」
「おそらく、彼も待っているはずだ」
と、羽佐間は言った。「あのタイム・カプセルが開くのを」
梅川が顔を出した。
「——では出かけましょう。すぐに捜索の態勢に入れますよ」
そう言った表情は、いかにも信《しん》頼《らい》できる人《ひと》柄《がら》を、感じさせた。
「——ああ、くたびれた」
朝也が、ソファにぐったりと座り込《こ》んだ。
「もう夜よ、すっかり」
と、倫子は言ったが、それは言わずもがなで——窓の外は、暗くなっていた。
「どこへ行っちまったんだろう、彼女?」
朝也も、今まで、警官やホテルの従業員と共に、捜索に加わっていたのである。
「嫌《いや》ねえ、本当に」
倫子は、そう疲《つか》れていなかった。
もっぱら、ホテルの食堂で、連《れん》絡《らく》係《がかり》と、外から一休みしに戻《もど》った者へ、お茶を出していたのである。
「行方不明になるってのは、自分からいなくなるか、誘《ゆう》拐《かい》されるか、事故にあうか。——その三つに一つだよ」
と、朝也は言った。
「分ってるわよ」
「彼女の場合は、どれだと思う?」
倫子は、黙《だま》って首を振った。
——ホテルのサロンである。
切り裂《さ》かれた絵のかわりに、今は、平凡な風景画が壁《かべ》にかけられている。
「やっぱり、合わないね」
と、倫子が言った。
「何が?」
「あの絵よ」
「——絵なんて、どうだっていいよ」
朝也はため息をついた。
「そんなことないわ」
倫子は、絵の方へ歩み寄った。「——きっと、秀代さんの失《しつ》踪《そう》も、三十年前の、あの事件に関係があるのよ」
「例の殺人事件?」
「そう。それから、タイム・カプセル……」
倫子は振り向いて、「凄《すご》いことだと思わない? 三十年もの間、男たちを、じっとつなぎ止めていたなんて」
「うん……」
「三十年よ。三年だって、恋《こい》人《びと》を忘れるには充分だわ」
「君は冷たいからな」
「何よ」
倫子は、朝也をにらんだ。「——ともかく、その人のために、教師を辞《や》めて、警官になっちゃった人までいたんだから」
「うん、それは凄い」
「ね? そこまでさせた、高津智子って人、私、興味があるの」
倫子は、風景画を見上げた。「決して、男の気をひくような女性じゃなかったわ。むしろ孤《こ》高《こう》の存在で……。でも、だからこそ、あんなに熱く、憧《あこが》れを抱いたんでしょうね、みんな」
「でもさ——」
「なあに?」
「彼女の絵を切り裂いた奴《やつ》もいるよ」
そう。そうなのだ。
誰《だれ》かが、彼女を憎《にく》んでいた。——なぜだろう?
「ねえ、小池君、どうかしら。もし、あの絵を切り裂いたのが、憎しみからでなく、もっと他《ほか》の理由からだったら?——ねえ?」
倫子は朝也を見て、「呆《あき》れた」
と呟《つぶや》いた。
朝也は、ソファで居《い》眠《ねむ》りをしていたのだ。疲れたのだろう。
倫子は、窓に寄って、表を見た。
暗くなった林の中を、光がいくつも、動き回っている。
まだ捜索は続いているのだ。——あの、梅川という署長の誠実さには、倫子も感心してしまった。
部下の警官たちも、不平一つ言わず、熱心に捜してくれている。
でも、本当に、秀代はどこへ行ったのだろう?
ふと、倫子は振り向いた。
ピアノの音。——ピアノを弾《ひ》いている。
あのピアニスト、中山久仁子だろう。
倫子の知らない、どことなく寂《さび》しいメロディだった。
こんなときにピアノをひくというのも、何だか妙なものだが、しかし、それが、真《しん》剣《けん》にひかれているので、却《かえ》って、腹立たしくはならないのである。
倫子は、食堂へ入って行った。
中山久仁子が、一人でピアノをひいていた。——他に、誰の姿もない。
倫子が歩み寄って行くと、中山久仁子は、手を止めた。
「何だか、一日に一度はピアノに触《ふ》れないと落ちつかないの」
と、中山久仁子は言った。
倫子は、ピアノに軽くもたれて、
「どうして、あの絵が欲しかったんですか?」
「あの絵?——ああ、切り裂かれたとか。ひどいことをするわね」
「なぜ、あの絵がほしかったんですか?」
と、倫子はくり返した。
「ほしかったから。——それだけよ」
「あの女の人を、知ってたんですか」
中山久仁子は、ちょっと倫子を見た。
「いいえ」
「じゃ、ただ、いい絵だな、と思って——」
「いい絵、ね。でも、好きじゃないわ」
意外な言葉だった。
「じゃ、なぜほしかったんですか?」
と、倫子は訊《き》いた。
「逆のものに魅《ひ》かれることって、あるでしょう?」
「ええ」
「あの絵の女性の持ってる、危険なものに、魅《み》力《りよく》を感じたの」
「危険なもの?」
「ええ。一種神聖な美しさ。——でも、女性が神になると、怖いわ。男を縛《しば》りつけて、放さない……」
そんな見方があったのか、と倫子は思った。
そう。——たとえば、あの梅川にしても、本来なら、生《しよう》涯《がい》教師でいたのだろうが、高津智子のために、それを変《へん》更《こう》してしまった。
ある意味では、梅川は一生を、あの女性に捧《ささ》げた、と言ってもいいのだ。
倫子は、きれいに、磨《みが》き上げられた、ピアノの表面を見下ろした。
自分の顔が、もちろん逆さに映っている。
そうだわ。——もしかすると。
ある考えが、倫子の頭に浮かんだ。