「こら、起きろ!」
と、倫子は小池朝也の肩をつかんで揺《ゆ》さぶった。
「え?——ど、どうした?」
朝也は、ギョッとした様子で、目をパチクリさせると、「も、もう朝飯かい?」
と訊《き》いた。
「何を寝ぼけてんのよ。まだ夜中」
「あーここ、ベッドじゃないのか」
と、朝也は周囲を見回した。
サロンのソファで眠っていたのである。
「ベッドだったら、私がそばにいるわけないでしょ」
と、倫子は言った。「もっと早く起こそうかと思ったんだけど、あんまり無《む》邪《じや》気《き》な顔で寝てるから可《か》哀《わい》そうになってね」
「趣味悪いなあ」
と、朝也は苦笑して、目をこすった。「じゃ、部屋に行って寝るよ。おやすみ」
立ち上った朝也の腕を、倫子はぐっとつかんで、
「だめ! 秀代さん、まだ見付からないのよ」
「そうか。——でも、こっちだって、少し休まなきゃ……」
「あら、そう」
倫子は肩をすくめて、手をはなした。「じゃ、いいわ。私一人で捜《さが》して来る」
「おい、待てよ」
と、朝也はすわって、「こんな夜中に、どこってあてもなしに捜し回って、どうなるんだよ」
「あてがなきゃ、私だって明日にするわよ」
「何だって? それじゃ——」
「ちょっと考えたことがあるの。一緒に来る?」
朝也はため息をついた。
「だったら、最初からそう言えばいいじゃないか。素直じゃないんだから!」
倫子は、クスッと笑って、
「そこが面白いところよ」
「こっちはちっとも面白くないよ」
と、朝也は大《おお》欠伸《あくび》をした。
「警察の人たちも、とうとう諦《あきら》めて引き上げたわ。明日は他《ほか》の場所を捜してみる、って」
「他の場所?」
「つまり——誘《ゆう》拐《かい》されたとか、最悪の場合は殺されてることも考えられるので、そういう場所を、ね」
「でも、あのとき、秀代君に、そんなに遠くへ行く余《よ》裕《ゆう》はなかったよ」
「分ってるわ。でも、実際に林の中で見付からなきゃ、他を捜すしかないじゃないの」
「でも、君は何か心当りがあるんだろ? 言ってやれば良かったのに」
倫子は、ちょっと困ったような顔になった。倫子だって、人《ひと》並《な》みに(?)困ることがあるのだ。
「そうも思ったんだけどね……。ただ、言うと笑われそうで」
「どういう意味?」
「ともかく来てよ」
そう言った倫子、いつ捜して来たのか、ちゃんと懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》を手にしている。
「どこへ行くんだい?」
「あの林の中よ。決ってるじゃないの」
——表は、もう当然のことながら真暗である。都会と違って、どこからも電車やら車の音は聞こえて来ない。
「静かだなあ」
と、こんなときなのに、朝也はのんびりと言っていた。
「本当ね」
と、倫子も答える。「でも、何日かしたらきっと、あの都会の騒《さわ》がしさが、懐《なつか》しくなるわ」
「かもしれないな」
と、朝也は肯《うなず》いた。「——それで、どこを調べるんだ?」
「行き詰《づま》ったときは、原点に戻《もど》れ、よ」
と、倫子は言った。
「原点?」
「秀代さんが姿を消した所へ」
「あんなにしつこく捜したじゃないか」
「でも、もしかしたら、何かつかめるかもしれない。——足元に気を付けて」
もう、林の中へ入ると、ホテルの明りは届かない。懐中電灯で、足下を照らしながら、歩いて行く。
「——どの辺だったかしら?」
「待てよ。何しろ、こんなに暗くちゃ……。歩いた感じじゃ、これくらいの所だと思うけどな」
「じゃ、きっともう少し先だわ。こわごわ歩いてると、長く感じるもんだから」
——倫子の言葉は正しかった。
「ここだ」
と、朝也は足を止めた。「間《ま》違《ちが》いないよ。ここだ」
「じゃ、秀代さんが見えなくなったのは——」
「そっちの——照らしてみてくれよ。——そうだ。あの茂みの辺りだよ」
「調べてみましょう」
と、倫子は歩き出した。
「どこを?」
「あの茂み、そのものよ。——周囲は散々捜したけど……」
「あんな小さな茂み、人が隠れられっこないじゃないか」
「そう?」
二人は、その茂みの所までやって来た。
倫子は、
「これ、持ってて」
と、懐中電灯を朝也に渡《わた》すと、その小さな茂みの方へかがみ込《こ》んだ。そして、茂みの中へ手を突《つ》っ込んで、何やら探《さぐ》っている。
「何をしてるんだ?」
と、朝也は言った。
「待って。——ほら! おかしいわ」
「何が?」
「ここへ手を入れてごらんなさい」
朝也は、何だか訳の分らない様子で、言われるままに、その茂みの奥を手で探った。
「——何もないぜ」
「地面を触《さわ》ってごらんなさい」
「地面って……。あれ?」
朝也は顔をしかめた。「変だな。下は土じゃない。何だか——鉄の格《こう》子《し》みたいになってる」
「鉄の蓋《ふた》なのよ」
倫子の言葉に、朝也は唖《あ》然《ぜん》としたように、
「つまり——下に穴があるのか!」
「そうよ。それなら、秀代さんが急に見えなくなったのも分るでしょう」
「驚いたな!」
と、朝也はため息をついた。「どうして分ったんだい?」
「ピアノでね」
「ピアノ?」
「そう。ピアノのツルツルの表面に、自分の顔が逆さに映ってて、それを見て、もしかしたら、って思ったの」
「どういう論理なのか、よく分んないけど、ともかく大したもんだね」
「ありがとう。じゃ、調べてみましょうよ」
「そうだな。——よし。開けられるかどうか、やってみるよ」
朝也は、すっかり目も覚めて、指をポキポキ鳴らすと、茂みの奥へ手を入れ、手探りで格子らしきものをつかんだ。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
「引張るぞ。——エイッ!」
と、力を込《こ》める。
「だめ?」
「いや、少しは手《て》応《ごた》えがあって……。もう一度だ」
こういうときは、たいてい三度目にパッと開くものだが、ここでは二度目に開いてしまって、朝也は、みごとに引っくり返った。
「小池君! 大丈夫?」
「——うん、何とかね」
朝也は起き上って、頭を振った。
「まるで、カムフラージュしたようね」
「きっとそうだよ。こんなにうまく草が生えたりしないさ」
下水道の蓋《ふた》のように、四角い格子の隙《すき》間《ま》に、土が詰っていて、草が植えてあるらしい。——外れた跡には、ポッカリと、五十センチ四方くらいの穴が開いていた。
「——ここから姿を消したのか」
と、朝也は覗《のぞ》き込んだ。「何も見えない」
「照らしてみましょう」
——懐中電灯の光を当てると、下へ降りて行く縦穴で、周囲はきちんと石を積んで、固めてある。そして、細い鉄のはしごがついていた。
「下は見えないわ。少なくとも三メートルくらいはありそうよ」
「こんな所に地下道があるのかな?」
「分らないわ。どうする? 入ってみましょうか?」
さすがに無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》な倫子も、ためらっていた。
「誰《だれ》かに知らせようよ。僕らだけじゃ危険すぎる」
朝也が、まともな意見を述べる。
「そうねえ……」
倫子としては、多少未練もあった。
こんな冒《ぼう》険《けん》に、いつも憧《あこが》れていたのだ!
大体、女の子にしては、ちょっと変っているのである。
しかし、この真夜中に、たった一人で、いや、朝也と二人ででも、こんな穴の中へと入って行くのは、さすがに怖《こわ》かった。
倫子は、やや閉所 恐《きよう》怖《ふ》症《しよう》の気味があるのである。
「分ったわ」
倫子は決心して、肯《うなず》いた。「ともかく、一《いつ》旦《たん》ホテルに戻《もど》ろう」
「そうしよう。警察がちゃんと調べてくれるさ」
「でも——」
「何だい?」
「そのときは、私も一緒に中へ入るわ」
朝也が呆《あき》れたように目を丸くした。
二人が林を出ると、ホテルの方から誰かがやって来た。
「——お父さん!」
「何をしてたんだ」
と、羽佐間の声は少しきつかった。「姿が見えないというんで、ホテル中捜してたんだぞ」
「ごめん。ちょっと二人で——」
「何も林の中まで行くことはないじゃないか」
「え?」
「ちゃんと部屋を使え。怒《おこ》りゃせん」
倫子と朝也は顔を見合わせた。
「——違うんです!」
と、朝也があわてて首を振った。
「違う? すると二人で、林の奥へ行って、トランプでもやってたというのかね?」
「お父さんったら! 私たち、大発見したのよ」
倫子が、あの縦穴のことを話すと、羽佐間もさすがに目を丸くした。
「そいつは大変だ! よし、すぐに警察へ知らせよう」
ホテルの方へ戻《もど》りかけて、羽佐間は足を止め、「君らはもう寝るんだ。分ったね」
と言った。
朝也と倫子がサロンに入って行くと光江がナイトガウン姿で起きていた。
「まあ、どこにいたの!」
「ごめんなさい、心配かけて。でもね——」
「何も外へ行かなくたって。風《か》邪《ぜ》引いたらどうするの?」
——倫子は、理解ある両親を持つのも、疲れるもんだわ、と思った……。
「——こんな時間に、悪かったですね」
と羽佐間が言うと、署長の梅川は、ちょっと笑って、
「これが仕事ですよ」
と言った。「ともかく、こっちが見付けられなかったのは、何ともお恥《は》ずかしい次第です」
林の奥に、光が溢《あふ》れている。
羽佐間の通報で、警官たちがやって来たのだった。
梅川署長は、前夜の捜索にもずっと付き合っていて、かなり疲れているはずだったが、こうして、ほとんど遅れずに、駆《か》けつけて来ていた。
「では行ってみましょう」
と、羽佐間が歩き出す。
ドタドタと足音がして、追って来たのは——もちろん倫子である。
「倫子、もう寝ろと言ったじゃないか」
と、羽佐間が言った。
「いやよ。自分の見付けたものは、最後まで見届ける」
羽佐間はため息をついて、
「頑《がん》固《こ》な奴《やつ》でして」
と言った。
「いや、しっかりしたお嬢さんで結構じゃありませんか」
と、梅川は楽しげに言った。
「小池君はどうした?」
「あの人は素直だから眠ってるわ」
羽佐間は苦笑した。
あの、倫子が発見した穴は、今、いくつもの強いライトで照らし出されていた。警官が十人近くも立っている。
「署長、入ってみますか」
「ああ、もちろん構わん。ただ、一応用心しろよ。中がどうなっているか分らんのだからな」
「はい」
若い警官が一人、帽子を取って、穴の中へと降り始める。
「中を照らせ」
と、梅川が言った。
ライトの一つが、穴のふちまで寄せられて、光を穴の中へと向ける。
倫子は、緊張の面持ちで立っていた。——しばらく待ったが、中からは、何の声もなかった。
「——どうしたのかしら」
と、父の顔を見る。
「さあね。分らんな。——しかし、こんな所にどうして穴が……」
羽佐間は、不《ふ》審《しん》げに呟《つぶや》いた。
穴から、警官がヒョイと頭を出した。
「どうした?」
と梅川が声をかける。
「底まで三メートルほどです。そこから、横穴が続いているんです」
「横穴だって?」
羽佐間が前へ出た。「かなりありそうですか?」
「まだ入っていないんですが——見た感じでは、大分奥へ続いているようです」
これには倫子もびっくりした。
そんなに大がかりなものとは、思ってもいなかったのである。
「よし」
と、梅川が言った。「私が入ってみよう。他《ほか》に二人、ついて来てくれ」
倫子は無意識の内に、
「私も行きます!」
と進み出ていた。