「ともかく、ホテルが客を拒《こば》むわけにはいかん。何か問題のある客ならともかく、ホテルにふさわしい客となればな」
と、羽佐間は言った。
「お父さんったら」
と、倫子は笑って言った。「さっきまでは顔が引きつってたわよ」
いや、全くの話……。大騒ぎだったのである。
ホテルは満室となり、レストランも、時間予約にしないと、客をこなし切れない。
しかも、羽佐間の旧友たちということで、挨《あい》拶《さつ》や昔話もくり返された。
「——ああ、くたびれた」
と、ボーイが一人、やって来た。
このボーイ、朝也である。人手が足りないので、駆《か》り出されたのだ。
「ご苦労さま。さあ、食事にしましょ」
光江が盆《ぼん》を運んで来た。
——人気のなくなった食堂。
羽佐間親子と朝也の四人で、やっと夕食を取るところである。もう夜の十一時だった。
「小池君、なかなか似合うわよ」
と、倫子がからかった。
「これで、いざとなったら就職できる自信がついたよ」
「——しかし、参ったな」
と、羽佐間が、ゆっくりと息をついた。
「でも、結局、二十人は集まったわけでしょ、お友だち」
「二十一人だ」
「凄《すご》いわね。三十年前のことなのに。——いくら案内状もらったって、来られる人なんて限られてるでしょうにね」
と、光江が首を振った。
「高津先生のことを、みんな忘れられないのかな」
と、朝也が、グラタンをいきなり食べて、熱さに目を白黒させる。
「でも、高津先生のために来たわけじゃないんでしょ?」
と、倫子が父の顔を見る。
「それは何とも言えんな。——口には出さないが、あの事件のことをよく憶《おぼ》えてる奴《やつ》もいるはずだ」
「時ならぬ同窓会ね」
と、光江が言った。「コーヒーをもらいましょうか」
「ああ、お腹《なか》空《す》いて死にそう!」
と、倫子は言った。
「半分も食べてるくせに」
「もうやっと普《ふ》通《つう》の空腹状態に戻ったのよ」
と、倫子が言い返した。
「——あ、そういえば」
と、光江が言った。「あのピアニストの方、見ませんでしたね」
倫子と朝也は顔を見合わせた。
「そういえば……。全然気付かなかったけど」
「食堂へ来てたかな」
朝也は、ちょっと考えて、「——だめだ。全然思い出せないや」
「私も見かけた憶《おぼ》えがないな」
「でも、私たち昼間会ったのよ。ね、小池君?」
「うん。でも、あれっきりだな」
「また、行方不明? いやだわ」
「部屋にいるかどうか、キーを見れば分るさ」
羽佐間は立ち上ると、フロントの方へと出て行った。
「——大変だったけど、みんな、よくやったわね」
と、倫子が言った。「ちゃんと手落ちなく、こなしてたじゃないの」
「その辺はね」
と、光江が微笑んで、「人員もゆとりがあるし、経験者を集めてるから。——新人やアルバイトばかりだったら、収拾がつかなかったでしょうね」
「お父さんらしいわ」
「あの人は、一流志向が強いから」
——羽佐間はすぐに戻《もど》って来た。
「出たきりのようだな。キーがフロントにある」
「そう。こんな時間まで、どこにいるのかしら?」
「分らんな。——十二時過ぎても戻らないようなら、梅川さんへ連《れん》絡《らく》しておこう」
倫子は、ふと思い付いて、
「そうだ。滝田先生って、どこに泊ってるのかしら? ここにはいないんでしょ?」
「たぶん、知り合いの家じゃないかな。大分長くここにいたわけだから」
「先生で、他《ほか》にやって来た人は?」
「今のところ、いないと思うな。亡くなった人もいるだろうし……」
そのとき、人の気配がして、みんな、食堂の入口を振り返った。
あのピアニスト、中山久仁子が立っていた。
「——やあ、これはどうも」
羽佐間は立ち上って、「ちょっと今、心配していたんですよ」
「ええ」
と、中山久仁子は肯《うなず》いて、「フロントで聞きました。それで、ちょっとお寄りしましたの」
「お食事は?」
「済ませましたわ。——部屋の方へコーヒーを持って来ていただけます?」
「もちろんですよ」
「ちょっとお風《ふ》呂《ろ》に入ります。三十分ほどして、持って来ていただければ」
「分りました」
「おやすみなさい」
と、中山久仁子は会《え》釈《しやく》して、出て行った。
「——心配することもなかったね」
と、朝也が言った。
「だけど……」
と、倫子がためらいがちに、「何だか妙だわ」
「何が?」
「夕食を済ませて来ましたって……。でも、どこで? あの町に、あの人の入るようなお店ってある?」
「どんなものが好物か分らないぜ」
「こんな時間まで開いてる店はないだろうな」
と、羽佐間が言った。「散歩したくなる晩でもない」
「ねえ、おかしいわよ」
「しかし、客にも色々いるからな。まあ、こっちが口を出すことではない」
羽佐間に言われて、倫子は渋《しぶ》々《しぶ》口をつぐんだが……。
「——そうだわ」
と、指を鳴らした。
「何だよ? 君は大体、ろくなことを思い付かないからな」
「失礼ねえ!」
と、倫子は朝也をにらみつけた。
——三十分たって、言われた通り、ボーイがコーヒーを中山久仁子の部屋へと運んで行った。
ただ、このボーイ、ちょっと制服が合わないようで……。
当然だった。倫子なのである。
「大丈夫か?」
と心配する朝也を尻《しり》目《め》に、さっさと余った制服を着込んで、コーヒーを運んで行く。
三十分ったって、女の入浴は多少長くなるのが普通である。うまく行けば、部屋の中や、持物を調べられるかもしれない。
いや、もちろん捜査令状はないのだから、見とがめられたらおしまいである。
倫子とて、そこまで危ないことは——やる気だった!
どうも気になるのである。あの女。
用もなくなったのに、なぜここに泊っているのだろう?
今度の一件に、何か関《かかわ》りがあるに違いない、と倫子はにらんでいた。
そう。それに中山久仁子は、行方不明になった石山秀代のハンカチを拾っている。
あの件の説明も、警察に訊《き》いてもらわなくちゃ。
「——ここだわ」
と、倫子は、ドアの前で足を止めると、「エヘン」
と咳《せき》払《ばら》いをした。
ドアをノックして、
「コーヒーをお持ち——」
と言いかけて言葉を切ったのは、叩《たた》いた勢いで、ドアがスッと内側へ開いたからだ。
いや、倫子は別に超《ちよう》能《のう》力《りよく》の持主ではない。ドアの方が、少し開いていたのだ。
中は明るかった。
「失礼……します」
入ってみると、中山久仁子の姿は見えない。——いや、ベッドが盛《も》り上っている。
寝ちゃったのかしら? でも、ドアを開けたままなんて……。
「あの——コーヒーです。お待ち遠さま」
ホテルのボーイにしちゃ、妙なセリフである。「コーヒーのご用は……あの……」
ベッドの方へと近づいて行く。
そして、ヒョイと覗《のぞ》いてみると——。
女ではない。ということは男だった。
そして——白目をむき、苦《く》悶《もん》の表情のまま、息絶えているのだ!
「あ……あ……」
さすがに倫子もショックで体が震えた。しかし、なぜかコーヒーの盆を、傍《そば》のテーブルに置く余裕はあった。
どうしよう?——そうだ、電話!
電話へ手を伸ばすと、いやでも死人の顔が目に入った。
この男は——。倫子はハッとした。
滝田だ! あの高津智子に思いを寄せていた数学の教師である。
どうしてこんな所で?
肩先が見えているが、むき出しのままだった。どうやら裸《はだか》で寝ているらしい。
ともかく電話だ。
受話器を取り上げたとき、
「——動かないで」
と声がした。
振り向いて、またギョッとした。
中山久仁子が、拳《けん》銃《じゆう》を持って、立っていたのだ。
「受話器を置いて」
中山久仁子は、確かに風呂に入ってはいたらしい。バスタオルを体に巻きつけただけという格好だったのである。
「早く置いて」
仕方ない。倫子も、冒険は好きだが、撃《う》たれるのは好きじゃなかった。
「まあ、あなたは……」
と、中山久仁子は倫子だと気付いたらしい。
「あの——アルバイトで」
と、倫子は言った。
「そう」
中山久仁子は、見たところ落ちついているが、実際はかなり動《どう》揺《よう》しているようだった。
「あの——この人は?」
「死んでるのよ。私が殺したわけじゃない。本当よ! でもね、この拳《けん》銃《じゆう》でやられてるの。私がやったと思われても仕方ないわね」
「だけど——」
「この拳銃だって、もちろん違《い》法《ほう》だし」
中山久仁子は、ゆっくりと倫子の方へやって来た。「——あなたにしゃべられると、困ることになるわ」
「私、口が固いので有名なんです」
「手伝ってもらうわよ」
「手伝う?」
「これをどこかへ運ぶの」
「これ……って?」
「死体に決ってるでしょ」
倫子はゴクリとツバをのみ込んだ。
「私、あんまり力がないんですけど……」
「やってもらうわよ」
銃《じゆう》口《こう》がぐいと近づくと、倫子はあわてて、
「やります!」
と言った。
「それでいいわ。——ドアを閉めて。チェーンをかけて。——そこの椅《い》子《す》に座るのよ」
倫子が言われた通りにすると、中山久仁子はすぐ手の届く所に拳銃を置いて、服を着始めた。
「男のボーイだったら、ちょっと困ったことになったわね」
と、中山久仁子は、引きつったような笑顔になる。「バーは一時まで開いてたわね」
「ええ……」
「じゃ、二時まで待ちましょう。それから、二人でこれを運び出すの」
「でも——どこへですか?」
「それはこれから考えるわ」
中山久仁子は、拳銃を手に、椅子に腰をおろした。