倫《みち》子《こ》は、別に独身主義者ではない。
大体、十六歳で「独身主義」もないものだが。
結《けつ》婚《こん》というやつ、相手さえいれば一度くらいはしてみてもいい、とは思っている。それも恋《れん》愛《あい》にはこだわらない。
別にお見合で結婚したって、そう抵《てい》抗《こう》はないし、それにお見合というのも、「くじ引き」みたいなもので(本来は大分違《ちが》うが)、結構面白そうだ、と思っている。
たとえ、恋《こい》人《びと》がいて、その男性と結婚することが決っていたとしても、一度はお見合というやつをやってやろう、と考えていた。
しかし、それはあくまで、人間が相手のお見合であって、今の状《じよう》況《きよう》のように、拳《けん》銃《じゆう》の銃口とお見合するというのは、あまり好みではなかった。
拳銃を構えている中山久仁子。ベッドには、滝田の死体。
たとえ、当人の言うように、中山久仁子が滝田を撃《う》ったのではないにせよ、やはり倫子としては、あまりリラックスできる状況とは言えなかった。
中山久仁子は、初めの内こそピリピリしていたが、十分もたつとすっかり落ちつきを取り戻《もど》した様子で、
「ああ、そうだわ」
と、倫子へ、「せっかくコーヒーを持って来てくれたんだから、いただくわ。注《つ》いでくれない?」
と言った。
拳銃の注釈つきで言われたら、もちろん、いやとは言えない。倫子は急いでポットのコーヒーをカップへ注いだ。
「手も震《ふる》えてないわね」
と、中山久仁子は、感心したように言った。「いい度胸してるわ」
「ちょっと鈍《にぶ》いんです」
と、倫子は素直に言った。
「あなたのお父さんは、なかなか大人物ですものね。あなたも、その血を受けついでるんでしょ」
「恐《おそ》れ入ります」
倫子は、穏《おだ》やかに礼を言って、「あの……」
「なあに?」
「あなたが撃ったんじゃないんですね」
「そうよ。——あなた、私の言うことを、信じないの?」
中山久仁子が、ちょっとムッとした様子で言ったので、倫子はあわてて、
「いえ信じます!」
と手を振《ふ》った。「ただ——もし良かったら、どうしてこうなったのか、それをうかがいたかったんです」
中山久仁子は、ちょっと肩《かた》をすくめた。
「私、犯人じゃないんだから、知らないわよ」
それは確かに理《り》屈《くつ》である。
「でも……」
「この男の人がここにいるのは、私も承知の上よ」
「というと——」
「泊《と》めてくれ、って頼《たの》まれたの」
「滝田さんにですか?」
「この人、滝田っていうの?」
逆に訊《き》かれて、倫子はびっくりした。
「名前も知らなかったんですか?」
「聞かなかったわ」
「あまり細かいことにはこだわらないんですね」
男が裸《はだか》でベッドにいる、というのが、「細かいこと」と言えるかどうかは、やや疑問もあった。
「そういうことね」
中山久仁子は、右手に拳《けん》銃《じゆう》を構えたまま、左手で、ゆっくりとコーヒーカップを取り上げ、飲んだ。
「頼まれたというのは……」
「町で、私、食事してたの。——こう見えても、ごく当り前のラーメンが大好きでね」
「へえ」
人は見かけによらないもんだ、と倫子は思った。
「町の小さな、あんまりきれいとは言えないラーメン屋さんに入ってたの。——この人、そこでチャーハンを食べてたのよ」
「はあ」
「そして、食べながら、私のことをチラチラ見てたわ。私がラーメンを食べ終えるのを、待っていたように、テーブルへやって来たの。そして、このホテルに泊ってるんだろう、って……」
「どうして知ってたんでしょう?」
「さあ、分らないわ。ともかく、そうだ、って答えると、自分も泊りたいけど、部屋がどうしても取れない、って」
中山久仁子は、ちょっと笑って、「いや、実は金があまりないんで、泊れないんだ、って白状したわ」
それはそうかもしれないわ、と、倫子は思った。大体、滝田は、金があるようには見えなかった。
「正直にお金がない、って言ったときの表情がね、何となく人なつっこくて、楽しくなったの。それで、ここへ泊める気になったのよ」
へえ。音楽なんかやってる人は、やはり、常人よりは衝《しよう》 動《どう》的なところがあるのだろうか?
だって、どう見たって——この滝田と中山久仁子なんて、およそアンバランスな組合せの典型なのである。
「でも、ホテルへ入るときに目につくと困ると思ったから、フロントの人に、ちょっと頼みごとをして、急いで中へ入れたの」
「じゃ、さっき戻《もど》られたときですか?」
「ええ、そうよ」
——そんな余《よ》裕《ゆう》があったろうか?
倫子は、ちょっと疑問に思ったが、あえて口には出さなかった。
「それで、この人が先にお風《ふ》呂《ろ》へ入って、それから入れ替りに私が……。ところがね、私がお風呂へ入りかけたとき、ドアをノックする音がしたの。あなたのようにね」
「誰《だれ》が?」
「分らないわ」
と、中山久仁子は首を振って、「ともかく『どなた?』と訊《き》くと、『ルームサービスです』と言ったわ」
「そう言ったんですか? それ、どんな声でした?」
「分らないの」
「でも、聞いたんでしょう?」
「ちょうどお風呂に入るところだったのよ。もう服も脱《ぬ》ぎかけてて。だから、浴室のドア越《ご》しに、この人へ『受け取っておいて』と言ったの」
「それで?」
と、倫子は、すっかり真《しん》剣《けん》になって、訊いた。
「そして、私はお風呂へ入ったわ。シャワーを出して浴びてたの。——そう、ほんの二、三分だったかしら。部屋の中で、バン、と大きな音がして……」
「銃声——」
「でしょうね。でも、シャワーを浴びてる最中で、それほどはっきり聞こえたわけじゃないのよ」
浴室のドアが閉っていて、シャワーを浴びていたのなら、確かに、聞こえなくてもおかしくない。
「でも、気になったから、一応シャワーを止めて、『どうかしたの?』って、声をかけたわ」
中山久仁子は、軽く首を振った。「——でも、返事はなかった。そして、ドアが閉る音が、かすかに、だけど、聞こえたようだったわ」
「誰《だれ》かが出て行った、というわけですね」
「そうでしょうね。——ともかく、私は気になって、急いでバスタオルで体を拭《ふ》いて、浴室を出たの……」
中山久仁子は、ちょっと言葉を切った。
「そのときは、もう、この状態だったんですか?」
と、倫子は訊《き》いた。
「いいえ。——ベッドで死んでいたけど、毛布はかかっていなかったわ」
「じゃ、あなたが、この毛布を?」
「ええ」
倫子は、少し間を置いて、
「——でも、どうしてそのときに、人を呼ばなかったんですか?」
と言った。
「簡単よ」
中山久仁子は、あっさりと言った。「この拳《けん》銃《じゆう》が、私のだったから」
つまり、中山久仁子の説明を信じるとすれば、滝田を殺した犯人は、この部屋へ入って来て、彼女の拳銃を使って、滝田を殺したということになる。
室内の銃声が、廊《ろう》下《か》には洩《も》れなかったのだろうか?
いや、それは充《じゆう》分《ぶん》に考えられる。
ともかく、このホテルの造りはしっかりしているのだ。
それに、多少の音が廊《ろう》下《か》に洩れても、その音が、他の部屋にまで聞こえるとは、考えられない。
「だけど」
と、倫子は、至極当然の質問をすることにした。「どうして、拳銃なんか——」
「持ってたのかってこと? それは言えないわ」
と、首を振る。
無理に訊く気もなかった。訊く方が遠《えん》慮《りよ》しなきゃいけない状況なのだから。
「でも——死体をどこへやるんですか、一体?」
倫子は話を変えた。
「考えてるわよ」
中山久仁子は、ちょっと苛《いら》立《だ》つように言った。
「別に——せっついてるわけじゃないんですけど」
と、倫子は、あわてて言った。
中山久仁子は、チラリと時計に目をやった。
「待ってると、時間って長いものね」
死体を前にしているにしては、呑《のん》気《き》である。
バーが一時に閉る。——しかし、ピッタリ一時で出る客ばかりではない。
だから二時になったら、この滝田の死体を運び出そうというのだ。
まだそれには三十分以上あった……。
「あなたって可《か》愛《わい》いわ」
中山久仁子が、突《とつ》然《ぜん》、そんなことを言い出したので、倫子は、びっくりした。
「はあ?」
「あの男の子——小池君っていったっけ?」
「ええ」
「恋人?」
「——そんなとこです。正確にはボーイフレンドと恋人の中間ぐらい」
なぜか倫子も、わざわざ真剣に答えていた。
「もう、一《いつ》緒《しよ》に寝《ね》た?」
倫子は、ちょっとムッとしたが、
「いいえ」
と、素直に返事をした。
「あら、割と真《ま》面《じ》目《め》なのね」
と、向うは妙《みよう》なことに感心している。
「そうでしょうか」
「私はあなたの年《ねん》齢《れい》のときは、もう男の子と一緒に住んでたわ」
と、中山久仁子は、静かに言った。
「一緒に、ですか」
訊《き》き返して、倫子は、中山久仁子が、「一緒に」というところに、かすかに力を入れて言ったような気がして、おや、と思っていた……。
おそらく、この女性は、たまたまこのホテルに泊って、この事件にぶつかったのではあるまい。
大体、普《ふ》通《つう》、ピアニストが銃を持って歩いたりはしないだろう。ピアニストでなくたってそうだ。
つまり、この女は、目的があって、ここに泊っているのだ。
——どんな? それは倫子にも見当がつかなかった。
そのとき、ドアをノックする音がして、二人は、同じようにギョッとした。
中山久仁子は、緊《きん》張《ちよう》した面持ちで、
「動かないで」
と言うと、大きな声で、「どなた?」
と、声をかけた。
「ルームサービスの者です。よろしければ、盆《ぼん》を下げさせていただきます」
朝也だ!
倫子は、ホッとした。
「あなたの恋人のようね」
中山久仁子にも、分ったらしい。「じゃ、出てちょうだい」
「私が、ですか?」
「そう。あなた一人じゃ、この死体運ぶの大変でしょ?」
——そうか。
小池君にも手伝わせようというわけなのだ。
「さあ、立って」
と、促《うなが》され、倫子は渋《しぶ》々《しぶ》立ち上った。
「中へ入れるのよ。妙なまねはしないでちょうだいね」
中山久仁子は、そう言って、ドアの陰《かげ》に、身を寄せた。
もう一度、ノックの音。倫子はドアを開けた。
「あれ?」
朝也は、倫子を見て、ちょっとびっくりしたようだ。
「何よ」
「いや——ちっとも戻《もど》らないからさ。見に来たんだ」
「あのね——」
「いないの? あの女性……」
と、朝也が入って来る。
そして、倫子の顔を不思議そうに見て、
「どうしたんだい? 片目をパチパチやって。ゴミでも入った?」
と言った。