「全く」
と、羽佐間が苦り切った顔で言った。「お前の無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》にも困ったもんだ」
もちろん、倫子のことを言ったのである。
倫子としても、色々言いたいことはあったのだが結局は黙っていることにした。
父の言うことも、もっともだと思っていたからである。それにもう一つ、朝也が、どこかへ行ってしまっていたことが、気になっているのだ。
喧《けん》嘩《か》ばかりしてはいるが、一応ボーイフレンドから、やや恋人の域に近づいているという、微《び》妙《みよう》な関係だったのだから。
いくら朝也が方向音《おん》痴《ち》でも、あの林の中を逃げて、方角が分らなくなるとは思えない。木々の間を通して、ホテルの明りが、見えていたのだ。
倫子は、ホテルのサロンにいた。
一《いつ》睡《すい》もしていないが、眠《ねむ》くはなかった。——もうすぐ夜が明ける時刻だ。
「傷の具合は?」
と、羽佐間が、言った。
倫子は、初めて、梅川署長がサロンへ入って来たことに気付いた。物静かな男なのである。
「今、医者が診《み》ていますよ」
と、梅川は言った。
「大きな病院へ収容した方がいいようならば——」
「いや、今は動かせないようです。ともかく、出血がひどい」
梅川は首を振った。「ホテルとしてはご迷《めい》惑《わく》でしょうが」
「いやいや、とんでもない」
と、羽佐間は首を振った。「こちらは一《いつ》向《こう》に構いませんよ。何しろ——」
と、倫子の方へ目をやって、
「あいつも関《かかわ》り合っているんですからね」
倫子は、ふくれっつらになった。
何も私があの人を撃ったわけじゃないじゃないの!
「ところで……」
梅川は、倫子と向い合ったソファに、腰《こし》をおろした。「落ちていた拳《けん》銃《じゆう》からは、二発発射されていた。君の話では、林の中で、銃声は一度しか聞こえなかったんだね?」
「ええ」
と、倫子は肯《うなず》いた。「でも、あの滝田って人も、あの銃で撃たれたわけでしょ?」
「そうらしい。いや、調べれば、あの拳銃から出た弾《た》丸《ま》かどうか分るがね」
「あの人はそう言っていました」
倫子も、朝也と二人で、滝田の死体を運ばされるはめになったいきさつは、もう説明していた。
「もう一度、確かめておきたいんだが」と、梅川は言った。
「——失礼します」
と、光江が入って来る。「紅茶をお持ちしました」
「やあ、奥さん、これは申し訳ない」
梅川は微《ほほ》笑《え》んだ。「とんでもない時間に起こされて、お疲《つか》れでしょうに」
「いいえ。この人の秘書をしていたときよりは、ずっと楽ですわ」
光江の言葉に、羽佐間は苦笑した。
「何だ、俺《おれ》がよっぽどこき使ってたように聞こえるじゃないか」
「少なくとも、いただいてたお給料の三倍は仕事をさせられました」
光江が平然と言ったので、梅川も羽佐間も笑った。
これで、大分、その場のムードがほぐれて来て、倫子はホッとした。
光江はみんなに紅茶を注いだ。——倫子もその熱さが快く胸に広がって行くと、それまで我知らず身を固くしていたのだと気付いた。
「——さて、それじゃ、事件の話に戻《もど》ろう」
梅川が、息をついて、言った。「君と小池君は、滝田さんの死体をのせた手押し車を押して、先に歩いていた。中山久仁子は、その後から、あの拳銃を手について来た。そうだね?」
「そうです」
「君らは左右へ分れて逃げた。——そのとき、彼女は、撃たなかった」
「ええ」
「銃声がしたのは、どれぐらいたってからだった?」
——倫子は考え込んだ。
ともかく、タイムを計っていたわけではないのだ。あの暗い林の中を逃げて、もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》、と思って……。
「二、三分たっていたように思いましたけど」
と、倫子は言った。「でも、きっと実際は一分かそこらだったんじゃないでしょうか」
「おいおい、倫子、あんまりいい加減なことを——」
と言いかける羽佐間を、梅川は止めて、
「いや、それが正確ですよ。あんなとき、時間の感覚は狂《くる》うものです」
そうなのだ。しかし……。
倫子は、ふと、眉《まゆ》を寄せた。
「銃声がして、君は戻って行った……」
「ええ。方向ははっきりしなかったけど、大体のカンで」
「しかし、カンは正しかったわけだ。滝田の死体があったんだからね」
「ええ」
「妙なことがある」
と、梅川は言った。「中山久仁子は、君の話によると、自分の拳けん銃《じゆう》で撃たれたことになるんだ」
「そうですね」
「もし、うまく彼女の意識が戻《もど》れば、真相を話してくれるかもしれないが……」
と、梅川は考えながら言った。
倫子は思っていた。——他《ほか》にもある。おかしなことが。
梅川は、それに気付いていないのだろうか?
「——拳銃を持ってたなんて」
と、光江が言った。「あの人、どういう人なんでしょう?」
「そこですな」
梅川は肯《うなず》いた。「実は、中山久仁子がこのホテルの宿《しゆく》泊《はく》カードに記入した、住所や名前が、果して本当のものかどうか、今、当ってもらっているのです」
「いつ、返事が?」
と、羽佐間が訊《き》く。
「分り次第、そう時間はかからずに届くだろうと思います」
梅川は、紅茶を飲み干して、立ち上った。
「どうも、ごちそうさまでした。一《いつ》旦《たん》、戻って少し寝ることにします。皆《みな》さんも休まれた方がいい」
「けが人の方は?」
「警官が二人、ついています」
と、梅川は言った。「一人は部屋の中に。もう一人は廊下ですが、廊下に立つ者は私服にしろと言ってあります。他《ほか》の宿泊客に、目ざわりにならないように」
「気をつかっていただいて、どうも」
と、羽佐間は礼を言った。
「いやいや。——十時ごろ、滝田さんの殺された現場へ、人を寄こしますので、よろしく」
「分りました」
梅川は、サロンを出ようとして、倫子の方を振り向いた。
「小池君のことも心配だね。明るくなったら、すぐに捜《さが》させるよ」
「すみません」
ほんの、ちょっとの間だったが、倫子は、朝也のことを忘れていたのに気付いて、ギクリとした。他のことに気を取られていたのだ……。
「送りましょう」
と、羽佐間が、ドアを開ける。
「や、どうも」
梅川は、サロンを出ながら、言った。「いよいよ、明日ですな……」
ドアが閉ってから、倫子は、梅川の言っているのが、あのタイム・カプセルのことだと気付いた。
「——大変なことになったわ」
光江が、ため息をついて、腰をおろした。
「殺人。行方不明。—— まだ、何か起きるのかしら?」
「まだ一日あるわ」
と、倫子が言った。
「縁《えん》起《ぎ》でもないこと、言わないで」
と、光江が顔をしかめる。
「変だなあ……」
と、倫子は言った。
「小池君なら、きっと大丈夫よ。あの人、ツイてるタイプだわ」
「ツイてるタイプ?」
「ええ」
と、光江は肯《うなず》いて、「世の中には、ツイてる人とツイてない人がいるのよ。何をやっても、努力する割に失敗ばかりする人もいれば、あまり苦労しないで、何とか切り抜けちゃう人もいるの。——小池君は、後の方のタイプだわ」
「へえ。お母さんの人生哲《てつ》学《がく》、初めて聞いたわ」
「ただの経験よ」
と、光江は、ちょっと照れたように、言った。
「でもね、私が変だ、って言ってるのは、小池君のことじゃないの」
「じゃあ、何なの?」
「うん……」
倫子はためらっていた。
そこへ、羽佐間が戻って来た。
「おい、少し眠れ。ともかく、このホテルは客で一《いつ》杯《ぱい》だ。朝も騒《さわ》がしくて起こされるかもしれんぞ」
「分った」
と、倫子は立ち上った。「おやすみ、お父さん」
いやに素直に、さっさとサロンを出て行く倫子を、却《かえ》って不安げに、羽佐間と光江は見送っていた……。
もちろん、倫子はベッドに入った。
しかし、眠れたわけではない。——外は少し明るくなりかけていたが、そのせいで眠れないのではなかった。
ふと、気付いたことがある。それが気になって、眠れないのだった。
梅川は、何も気付かなかったのだろうか? それとも、気付いていないふりをしているのか。
それは、「時間」のことだ。
梅川に訊《き》かれて、初めて倫子は、その点に気付いた。
中山久仁子の前から、朝也と二人で同時に逃げて、そして一分くらいして銃声がした。——それから、倫子は、戻って行った。
そして、父に会ったのだ。
銃声から、父に会うまで、何分かかったろう? 五分? いや、そんなにたっていない。
おそらく、ほんの二、三分に違いないのだ。——たった二、三分で、銃声を聞いた父が、あそこまで来られるだろうか?
たとえ、何かの理由で、眠っていなかったとしても、林の中での銃声を、すぐに、それと聞き分けられるだろうか?
何の音かといぶかって、起き出し、明りを手に外へ出る。そして、たまたま、中山久仁子が倒れている、その場所へやって来たのだ……。
こんなことって、あるだろうか? しかも、その間、二、三分。
いや、もし五分あったとしても、とても考えられない。
そうなると……。倫子としては、辛《つら》い立場だったが、理屈からいって、認めないわけにいかない。
父は、中山久仁子のいる所を知っていたのだ。いや、おそらく、久仁子が、倫子たちに滝田の死体を運ばせているのを、見ていたのではないか。
そして、後をつけて来た。
そう考えなければ、なぜ父があそこにいたのか、説明ができない。
倫子は、寝返りを打った。
本当に怖《こわ》いことから、そうすれば目をそむけていられるような気がしたのである。
でも、それは無理だった。当然のことながら……。
「まさか!」
と、倫子は呟《つぶや》いた。「そんなこと、あってたまるもんですか!」
否定したいと思えば思うほど、その恐ろしい考えは、ふくれ上って来て、倫子の頭を一杯にした。
そう。——どうやったって、その思いを、心の中から追い出すことはできない。
それならそれで、それを、真正面から見《み》据《す》えるしかないかもしれない。
父が、中山久仁子を撃ったのかもしれない、という考えを……。