それでも、やはり疲れていたのか、倫子はいつしか眠りに落ちて、目を覚ましたのは、もう十時を回ってからだった。
食堂へ降りて行くと、光江が、ちょうど出て来たところで、
「あら、起きたの? ちょっと見に行こうと思ってたのよ」
と、言った。「今まで、大混雑だったの。やっと、皆さん、朝食を終ったところ。——何か食べるでしょう?」
「パンとコーヒーでいい」
と、倫子は言った。「小池君は?」
「まだのようよ」
と、光江は言って、倫子の肩を、軽く抱《だ》いた。「元気出して。今、警察の人たちが、林の中を捜してるわ」
「私は大丈夫」
と、倫子は微《ほほ》笑《え》んで見せた。「——お父さんは?」
「お出かけよ。たぶん、学校へ行ったんじゃない?」
「じゃ、お客さんたちも、みんな?」
「ええ。あの人が引き連れてね」
光江も、朝から何も口にしていないというので、二人して、ガランとした食堂のテーブルについた。
——倫子は、ゆっくりと、アメリカンコーヒーを飲んだ。少しずつ、体が目覚めて来る感じだ。
「中山久仁子はどう?」
と、倫子は訊《き》いた。
「今朝、またお医者さんがみえたけど、相変らずのようよ」
「でも、生きてるのね……」
「命は取り止めるようよ」
「良かった」
倫子は、明るい戸外へと目を向けた。
「あの人も、朝はコーヒー一杯」
と、光江は笑って、「昨日の現場に、鑑《かん》識《しき》の人が入ったり、一人一人のお客さんの相手をしたり。忙《いそが》しそうだったわ」
「忙しいのが楽しいんだもの」
と、倫子は言った。「何か、新しい手がかりでもあったのかな」
「さあ。——梅川さんも、さっきみえてたけど。二発の銃《じゆう》弾《だん》は、同じ銃のものだと分った、とか」
それは、最初から分っていたことだ。
倫子はがっかりした。——小池君はどこへ行ったんだろう?
それに、石山秀代も、行方不明のままだ。
しかし、いくら心配していても、お腹《なか》は空《す》く。
倫子は、フランスパンとコーヒーで朝食を済ませた。
「——外へ出てみる」
と、席を立つと、光江がちょっと心配そうに、
「また、どこかへ行っちゃわないでね」
と言った。
「大丈夫。お巡《まわ》りさんも、大勢いるじゃないの」
と笑って見せ、倫子は食堂を出た。
林の方へと足を向けると、ちょうど、こっちへやって来る梅川が見えた。
「やあ。少し眠ったかね?」
と、梅川は手を上げた。
「ええ。——何か手がかりは?」
梅川は首を振った。
「何もない。どうも分らんなあ。——どうして急に、こんなに色々なことが起るんだろうね?」
倫子にだって、もちろん分らない。しかし、この状態が、まともでないことは、分っているのだ。
「捜しに行くかね?」
と、梅川が訊《き》いた。
「ええ、一応」
「用心して。単独で行動しない方がいいよ」
「ありがとう」
倫子は、軽く会釈して、林の方へと歩いて行った。
警官の姿が、そこここに見える。
もちろん、梅川の命令ではあるにせよ、よく働く。倫子は感服していた。
「やあ、心配ですね」
と、もう顔を憶《おぼ》えてしまった警官が、倫子に気付いて、言った。
「どうも」
と、倫子は言って、「あのトンネルの中は?」
「調べましたよ。でも、手がかりらしいものは何も」
「そうですか……」
倫子は、一人で、林の中を歩いて行った。
石山秀代が、姿を消した辺りへ来る。——あの、地下道へ降りる入口が、開いている。
倫子は、一人で、中へ入って行った。
横穴を、辿《たど》って歩いて行く。——前に通っているので、暗くても、そう不安はなかったのである。
出口の近くまで来て、外の明るさが足下を照らすようになると、倫子は少しホッとして、足を止めた。
正直なところ、一人になりたかったのである。
父が——もし、父が、中山久仁子を撃ったのだとしたら、それはなぜだろう?
その答えは、そもそも中山久仁子が、一体何者かという点にかかっている。
何もないわけはない。あの、タイム・カプセルと、つながりがあるはずだ。
それはともかく、考えてみれば、この件に関して、父の周囲で、妙なことばかりが起っている。
石山が刺《さ》されたのも、父の目の前といってもいい場所だったし、滝田は父のホテルの中で殺されている。
そして、中山久仁子も……。
大体、父の、タイム・カプセルへの思い入れは、ちょっとまともではない。このホテルにしてからが、そうだ。
ただ故郷だからといって、およそ採算のとれない所に、ホテルなんか建てるだろうか? 実業家らしくない発想だ。
もしかしたら、父は、明日のためだけに、あのホテルを建てたのかもしれない。
案内状を出したのも父かも。——あれだけの人間を集めるために、ホテルを準備したとしたら……。
もちろん、普通に考えれば、とんでもないことだが、あの父なら、やりかねない。
それを言えば、梅川だって、まともとは言えない。
三十年前の殺人をきっかけにして、教師から警官に転じた。——ちょっと、できることではない。
そして殺された石山は、なぜか、逃げ回って暮《くら》していた。
総《すべ》ては、三十年前の、「高津智子殺し」から、始まっている。
高津智子……。
大変な女性だ。これだけの男たちの心を、三十年もつなぎ止めていたというのだから……。
ある意味では、恐ろしい、とも言える。
現実にどんな女性だったのか。倫子には知りようもないが、その素顔は、父たちが憧《あこが》れていたような女性ではなかったのかもしれない。
少なくとも、殺されたという点を見れば、彼女の方にも、何かそれだけの理由が……。
——突然、トンネルの出口に、誰《だれ》かが立った。
向うもまさか、倫子がそんな所にいるとは思わなかったらしい。ハッとして、立ちすくんだ。
倫子からは、外の明るさを背にして、顔はかげって、見えなかった。女性だということは分ったが。
その女性は、クルリと背を向け、駆け出して行った。
「——待って!」
倫子は、やっと我に返って、叫《さけ》んだ。
誰だろう?
ともかく、向うが逃げ出したのは、何か理由があるはずだ。
倫子はトンネルを出た。木々の間を走って行く、女の後ろ姿が見えた。
倫子は、それを追って走り出した。
どこへ向っているのか、まるで分らない。下手をすると、行方不明が一人ふえるかな、と思ったが、そんなことを気にしてはいられなかった。
ともかく、向うは、かなりよく地形を知っているらしかった。見失わないよう、ついて行くのが精一杯だ。
山の中へ入って行く。もちろん、道はない。木の間を右へ左へと、縫って行くだけだった。
かなり身の軽い相手と見えた。倫子だって、若さと体力では自信があるのだが、それでもついて行くのは楽じゃない。
大分、息切れがして来た。
もうだめだ! そう思ったとき、どうやら向うも、大分へばったらしい。
足を止め、振り向いたようだ。反射的に、倫子は木の幹の陰に身を寄せて、隠れた。
向うが、うまくまいたと思ってくれれば、後をつけるのも楽になる。
そっと顔を覗《のぞ》かせると、相手は、ゆっくりしたペースで、歩き出した。倫子は、ホッとした。
さて——どこへ行くのだろう?
少し距《きよ》離《り》を置いて、倫子は、尾《び》行《こう》をつづけた。
気を付けて、と言った光江の言葉が、チラリと頭をかすめたが、諦《あきら》める気にはなれなかった。せっかくの手がかりなのだ!
相手は、岩の間を下って、今度は、谷らしい場所へと降りて行く。
離《はな》れているので、顔はやはり見えなかった。
それに、自分の足下にも、気を付けないと、滑《すべ》りそうになるのだった。
一体どっちの方へ向っているのか、見当もつかない。
渓《けい》流《りゆう》へ出た。大きな岩が突《つ》き出ていて、その女の姿は、岩の向うへと消えた。
倫子は、同じルートを辿《たど》って、その大きな岩の上に上った。
そして、向う側へ降りたが……。倫子は戸《と》惑《まど》った。
女の姿が、消えていたのである。——そこは、少し広くなった河原で、見通しは悪くない。
それでいて、どこにも、女の姿は見えないのである。
河原に降りて、倫子はキョロキョロと周囲を見回した。
「あの音は?」
と、呟《つぶや》いたのは、何だか、ゴーッという低い唸《うな》り声のような音が、近づいて来たからだった。
音、というか、響《ひび》き、というか……。
地《じ》震《しん》? いや、そうではない。
倫子は、目を見張った。
浅い渓流へ、上流から、一気に水の壁《かべ》が押し寄せて来た。
岩に砕《くだ》けた水が、大きくはね上り、凄《すご》い勢いで流れて来る。
倫子は、高い場所へ向って駆け出した。しかし、足の下は、岩だらけだ。
とても間に合わない。——一か八かだ!
倫子は、今、乗り越えた大きな岩によじ登った。岩の上に伏《ふ》せて、両手で、力一杯、岩をつかむ。
水の塊《かたまり》が、倫子にぶつかって来た……。