もう朝なのかしら、と倫子は思った。
いや、思った、というより、ぼんやりと感じたのである。
なぜといって……周囲はいやに暗くて、そのどこかから、白い光がかすかに忍《しの》び込《こ》んでいて、その様子はちょうど、朝の光が、重いカーテンの間から洩《も》れ入っているのと似ていたのだ。
でもおかしい。いくら寝起きが悪いったって、こんなに頭が重く、全身がけだるくて、身動きもできないなんて……。
それに——いやに寒いわ。そう。まるで、体がびっしょりと濡《ぬ》れてるみたいに。
濡れて?
倫子は、ハッとした。——思い出した。
そうだった。水に押し流された。
いや、本当はどうだったのか分らない。ともかく、水が、まるで鉄の塊か何かみたいに、凄《すご》い勢いでぶつかって来たんだ。
そして、岩にしがみつこうとする倫子の力なんて、本当に、蚊がとまってたみたいなもので……。アッという間に、水に呑《の》み込まれていた。
そして……。そして?
もう、その後は、何も憶《おぼ》えていない。何か——体ごとミキサーの中にでも放り込まれたように、振り回され、どこかに手や足を叩《たた》きつけられ——そして、気を失ったらしい。
でも、ここはどこだろう? 死の世界にしちゃ、リアルだわ。
倫子は呑《のん》気《き》なことを考えていた。
もちろん、倫子だって、死んだことはないから、ここが死後の世界ではないとは言い切れないのだが、それにしても、こんなに現実感覚が残っているのでは、ちょっと興《きよう》醒《ざ》めだ。
生きてるんだわ、と、倫子は思った。助かったんだ。
しかし、嬉《うれ》しいという意識はまだなくて、ただ、体が冷えて寒いとか、あちこちが痛いという不快感だけが先に立つ。
ここはどこだろう?
目を二、三度、閉じては開けてみると、大分視界がスッキリと見えて来た。でも、結局大したものは見えなかったのだ。
どうやら、倫子は、どこか、洞窟みたいな所に寝ていたらしい。
そして、どこか岩の裂《さ》け目から、わずかに外の光が射《さ》し込んでいるのだ。
光が見えるところをみると、どうやら、まだ陽《ひ》は沈《しず》んでいない。——ホテルへ戻《もど》らなきゃ、と思った。
どれくらい時間がたったのか分らないけど、私まで行方不明になったら、それこそ、お父さんが心配しておかしくなっちゃうかもしれない。
そう。どうやら命は助かったようだから、何とかしてここを出て……。
倫子は、起き上ろうとして、膝《ひざ》や足首に焼けるような痛みを覚えて、思わず、
「アッ!」
と声を上げた。
声を出したら、同時にひどくむせて、咳《せき》込《こ》んだ。水を飲んでいたのかもしれない。
そこへ、突然、
「おい、大丈夫か?」
と声がしたので、倫子は、また、
「キャアッ!」
と悲鳴を上げてしまった。
「僕だよ!」
と、駆けつけて、倫子のそばにかがみ込んだのは——。
「小池君!」
倫子は、思わず胸を押えて、息を吐《は》き出した。「ああ、びっくりした!」
「気が付いて良かった! 死んじまうんじゃないかと思って、気が気じゃなかったんだ」
「ちっともいい気分じゃないわ」
と、倫子はしかめっつらで言った。
「仕方ないさ、こんな所じゃね」
と、朝也は言った。
「ここ——どこ?」
と、倫子は上体を起こし、改めて、周囲を眺《なが》め回しながら訊《き》いた。
「山の中だよ。ほら穴みたいなもんらしい」
「らしい、って……」
「僕も良く知らないんだ。気が付いたらここにいた。君と同じさ」
「小池君、どうしてたの?」
「分らないよ。ともかく、君と二手に分れて逃げ出したろ」
「そこまでは分ってるけど」
「そしたら、少し行って、木の根っこにつまずいちまったんだ。そして、いやというほど頭を木の幹にぶつけた」
「ドジねえ、全く」
「そう言うなよ。まだコブができてんだ。それで目の前に火花が散って——」
「で、気が付いたら、ここ?」
「いいや。いくら何でも、そんなに長く、気絶しちゃいない。それに、そのときは、追いかけられてるって気もあったせいか、完全に意識を失ってたわけじゃないんだ。やたら痛かったけどね」
「じゃあ——」
「また殴《なぐ》られたのさ」
「誰《だれ》に?」
「分らない」
と、朝也は首を振った。「足音がした、と思ったらゴツン!——で、完全に意識不明」
「それでここに?」
「うん。どれくらい前かなあ、気が付いたのは。——三、四時間か、五、六時間か。ともかく、もう光が射《さ》してたよ」
「ここから出ましょうよ、ともかく」
と、倫子は言った。
「呑《のん》気《き》だなあ、君は」
と、朝也は苦笑いした。「出られりゃ、僕だって出てるさ」
「あ、そうか」
倫子は、ゆっくりと息をついた。
「ここは、どこかからつながってる地下道の一部だったみたいだよ。人工のトンネルって感じなんだ」
「トンネル?」
言われてみれば、倫子が寝ている所も、いやに平らだ。
「じゃ、ホテルのそばの地下道みたいな?」
「広い部屋というか……出来損いの部屋みたいなもんらしい。途《と》中《ちゆう》まで作って放ってあるってとこかな」
「じゃ、どこかへつながってるんじゃないの?」
「僕も調べたよ。でも、重い石が積み重なって、完全に道を塞《ふさ》いでるんだ」
「何なのかしら、一体?」
「うん……」
朝也は、ちょっと間を置いて、「これ、きっと、戦争中に作られた、防《ぼう》空《くう》壕《ごう》みたいなもんじゃないかな」
「防空壕ね。——その出来損い?」
「うん、きっとそうだよ。ホテルのそばのあのトンネルもそんなもんじゃないか」
これは妥《だ》当《とう》な説だな、と倫子は思った。
「ねえ、小池君」
と、倫子は、ふと気付いて、「私、それじゃ、どこからここへ入ったの?」
と訊《き》いた。
「あの光の入ってる隙《すき》間《ま》さ」
と、朝也が指さす。
「あんなに細い隙間? 私、そんなにスマートだったかしら?」
「そうじゃないよ。あそこが重い蓋《ふた》みたいになってるんだ。空気を少し入れるためじゃないかな、ああしてあるのは」
「じゃ、誰《だれ》かがあの蓋をどけて?」
「そう。君を投げ込んだのさ」
体中が痛いわけだ。倫子は、朝也をにらんで、
「下で受け止めてくれりゃいいのに!」
「無茶言うなよ。アッという間だったんだ」
「その人間の顔を見た?」
「いや、全然。突然光が射《さ》して、目がくらんじまったからね」
「そうか……。ともかく、快適な状況とは言えないわね」
「同感だな」
と、朝也は言って、「——でも、君、どうしてそんなにズブ濡れになったんだい?」
倫子は、誰か女の後をつけて山に入ったこと、渓流で、急に水かさがふえて、呑み込まれたことを説明した。
「そうか。それは、もっと上流のダムの放流だよ」
「ダム? ここにダムがあるの?」
「小さいらしいけどね。君のお父さんに聞いたよ」
「私、聞いてないわ」
と、倫子はむくれた。
「でも、よく助かったなあ。きっと、君をそこへ投げ込んだ奴《やつ》が、君を助け上げたんだ」
「矛《む》盾《じゆん》したことをするのね。でも、ともかく——」
と、倫子は朝也を見た。
「何だい?」
「あなたが私を助けたんじゃないことは確かね」
「もう一つ確かなことがある」
「何よ?」
「それだけ憎《にく》まれ口がきけりゃ、もう大丈夫だってことさ」
「失礼ね!」
倫子はプッとふくれた。それから、二人は何となく笑い出した。
大分、これで気が楽になったようだ。
「寒いだろ」
と、朝也は昨夜から着込んだままのボーイの制服の上《うわ》衣《ぎ》を脱いで、倫子の体にかけてやった。
「小池君、風《か》邪《ぜ》ひくよ」
「僕は濡れちゃいないもの」
「ありがとう。それじゃ……」
倫子も、いつになく、しおらしいというか、優しい気持になっていた。
ごく自然に、倫子を、朝也が抱きかかえるような格好になった。
「寒いかい?」
「うん、少し……」
二人がギュッと体を寄せ合う。
「冷たいな」
「あなたも濡れちゃうわよ」
「いいよ。二人の体温で、そのうち乾《かわ》くさ」
倫子が、朝也の方へ顔を向けた。
「もう少し……体温を上げる?」
——二人の唇《くちびる》が、しばし仲良くなった。
言葉を発しているとケンカになりがちであるが、「無言の対話」の際には、さすがにケンカもしないようだった。
「非ロマンチックな状況ね」
と、倫子はちょっと笑って言った。
「こだわらないんだ、僕は」
「そう?」
もう一度、二人の唇が相寄った。
「——ねえ」
と、間を置いて、倫子が言った。
「何だい?」
「誰《だれ》が中山久仁子を撃ったんだと思う?」
「ロマンチックじゃないなあ、君も」
と言って、「中山久仁子が撃たれたのかい?」
「あ、そうか。知らないんだったね」
倫子は、あの後の出来事を説明してやった。
「自分の持ってた拳《けん》銃《じゆう》でやられるなんて、変だなあ」
「そうでしょ? だから——気になるのよ」
倫子の口《く》調《ちよう》は、ぐっと沈み込んだ。
「どういうことだい?」
「つまりね……」
倫子は、父親が、中山久仁子を撃ったのではないかという疑念を、朝也に話して聞かせた。
「君のお父さんが?」
朝也は、まさか、という口調で言ったが、少し考えて、
「——でも、あり得ないことじゃないな」
と肯いた。
「そう思うの、私も」
「君のお父さんも、例の高津智子を愛してた一人なんだろ?」
「そこなのよ」
倫子は、ため息をついた。「いくら懐《なつか》しい恋人でも、もうその人は死んでしまって、三十年もたっているっていうのに、わざわざこんな所にホテルまで建てるなんて……」
「ちょっとまともじゃないね」
「でしょう? そりゃ、父は頑《がん》固《こ》だし、変り者ってところもあるけど、あんなホテルを一つ、採算を度外視して建てるなんてことをするのは、どうも父らしくないと思うの」
「つまり——」
「父には確かにロマンチストってところがあるけど、何といっても事業家よ。およそ商売にならないことを、ただ思い出のためにするのは、不自然だって気がするのよ」
「もしかすると、この辺を一大観光地にするつもりなのかもしれないぜ」
「まさか」
倫子は笑って、「この事件は一体どうなってるんだろ?」
と首を振った。
「そうだなあ。——そもそもが、あの地下街での殺人から始まってるわけだ」
「石山さんが殺されたことね」
「犯人は間《ま》違《ちが》いなく、あそこにいた。つまり——」
「石山さんが、父に会いに来たのを、知っていた、ってことだわ」
「どうして知ったんだろう?」
「そうね」
倫子も、その点は、考えたことがなかった。大体、考えることより駆け回る方が得意という、ミステリーに不向きの(?)名《めい》探《たん》偵《てい》なのである。
「君のお父さんは、石山が会いに来るのを、知らなかったんだろ?」
「たぶんね。知ってれば、私と食事に出ないと思うわ。それに、あのとき、あのラーメン屋へ入ろうって言ったのは、私の方なんだもの」
「そうすると、石山の方が君のお父さんを捜していたことになる。犯人は、あの人目の多い場所で石山を刺したんだから、よほど必要に迫《せま》られたんだ」
「危険だものね」
「もちろんだよ。誰《だれ》が見ているか分らない。とっさの決断だったんだ、きっと」
「石山さんの後をずっとつけていて、あの人が父を見付けたのに気付いた……」
「よほど、君のお父さんに会わせたくなかったんだな」
「どうしてかしら?」
倫子は首をかしげた。「ただ久しぶりに会ったというだけなら……。三十年前のタイム・カプセルのことを思い出したくないというのなら、殺すほどのこともないでしょうね」
「つまり、石山は、何かを知ってたんだよ。そして君のお父さんに伝えようとした」
「それで殺された。——そうね。そうとしか考えられない」
「でも、彼女は何も聞いてなかったみたいだな」
「彼女って?」
「石山秀代さ、もちろん」
「ああ、そうか」
倫子は頭を振った。まだ少しぼけてるのかな……。でも——そう言えば——。
「秀代さんのことを、私たちどれくらい知ってる?」
と、倫子は思い付いて言った。
「どういう意味だい?」
「私たち、あの親子が一緒のところを見たわけじゃないわ。そうでしょ?」
「うん……」
「あの人が石山さんの娘《むすめ》だって証《しよう》拠《こ》は、彼女自身の話以外何もないのよ」
朝也は目を丸くして、
「じゃ、彼女が嘘《うそ》をついてる、って言うのかい?」
「そうじゃないわ。でも、本当だって証拠はないのよ。私たちも、あの人の身《み》許《もと》を確かめたわけじゃないんだし」
「うん……。まあ、そりゃそうだけどね」
「突然姿を消したのも、妙じゃない? もちろん、連れ去られたっていう可能性もあるけど」
「分らないなあ」
朝也は、ため息をついた。「それを言えば、中山久仁子も一体何者なのか分らない」
「そう。なぜ拳《けん》銃《じゆう》なんて持ってたのか、ね」
「分らないことばっかりだ!」
朝也は、立ち上って、腰をウーンと伸《の》ばした。