翌、月曜日は、亜由美も一応[#「一応」に傍点]大学へ行くことになっていた。
読者がお忘れだといけないので、念のため申し上げると、亜由美はこれでも(?)大学生なので、そういつも留置場へ入っているわけじゃないのである。
しかし、昼からの講義なので、起き出して来たのは、朝十時である。
ダイニングキッチンでは、小夜子がもう起きてコーヒーを飲んでいる。
「あ、もう起きたんですか」
「ごめんね、ゆうべは迷惑かけて」
と、小夜子は微笑《ほほえ》んだ。
「そんなこといいんですけど……。どうするんですか、今日?」
「うん」
と、小夜子は肯《うなず》いて、「ゆうべ、ゆっくり考えたの。——もしあの女と隆さんの間に本当に何かあったとしても、私も非難できる立場じゃないわ。それなら、彼の言うことを信じておこうって。今日からハネムーンだし、その間、いくらでも話し合う機会はあるでしょ」
小夜子の表情は、どこかふっ切れたようで、爽《さわ》やかだった。
亜由美はホッとして、
「そうですよ。もう夫婦なんですから」
と言った。
「あんたは一向に、そういう話がないのね」
突然母の清美が入って来て言った。
「お母さんは関係ないでしょ!」
と、亜由美がにらむ。
小夜子がそれを見て笑い出した。
「——あ、そうそう」
と、清美がテーブルを片付けながら、「あの刑事さんから電話があったわよ」
「殿永さん? 何だって?」
「さあ、聞いてないけど、用件は」
「じゃ、電話してみる」
「わざわざかけなくとも」
「だって、気になるもの」
「今、かかってるんだから、出れば、それですむのに、何でかけるの?」
「早くそう言ってよ!」
むだと知りつつ、母に文句を言って、電話へと駆けつける。
「——やあ、まだいたんですね」
と、殿永が言った。
「今起きたところで——。何かあったんですか?」
「そっちへ、前田小夜子さんから何か連絡は?」
「小夜子さん? うちにいます」
「何ですって?」
「ゆうべ来て……。泊ったんです、ここに。今から、ホテルへ戻るって言ってますけど」
「そうですか。いや、ともかく居場所が分って良かった」
と、殿永が息をついた。「まだお宅にいるように、伝えて下さい」
「どうしてですか?」
「女が殺されたのです」
多少、ぼんやりしていた頭が、一度にすっきりしてしまった。
「女って——結城美沙子ですか」
と、訊く。
「いや、彼女のことはこっちも用心していたのですが……」
と、殿永が言いかけてためらい、「——昨日、久井隆を刺そうとした女、あの女が殺されたんです」
「何ですって?」
「ホテルの久井隆の部屋で。——死体は首を絞められていました」
「じゃあ……。まさか……」
「久井隆は行方が分らないんです」
亜由美は、小夜子に何と言おうかと、途方にくれて、電話を切った。
「——もう行かなきゃ」
と、小夜子が明るく言って、廊下へ出て来た。
「ホテルへ電話しないと。あの人、心配してるわ」
小夜子は、亜由美の表情に気付いて、
「どうかした? 顔色、良くないわよ」
「ここです」
と、殿永が言った。
亜由美は、これまでもあれこれ巻き込まれているから、死体を見るのも初めてではない。
しかし、事件に首をつっこむのは好きでも、死体を見るのは、どうにも好きになれなかった……。
バスルームは広かった。
ハネムーン用の、セミスイートルームである。バスルームもそのせいで広くとってあるのだろう。
女は、バスタブの中に、裸で、体をねじるようにして倒れていた。首には、細い紐《ひも》が深く巻きついて、顔は見るに堪《た》えない恐怖の表情を浮かべていた。
「紐は、このバスタブについている、洗濯物を干すための紐を切ったものですね」
と、殿永が言った。
「確かにあの女ですね」
と、亜由美も、さっと見分けた。
「ハンドバッグの中身から、身もとが分りました」
と、ベッドルームの方へ戻りながら、殿永が言った。「小田久仁子という名前です」
「小田久仁子……」
「ええ。——OLですね。どういうことなのか、これから当ってみますが」
亜由美も、気が重かった。
「で——久井さんは?」
「まだ行方が分りません」
と、殿永は首を振った。
「どう思います?」
亜由美の問いに、殿永はすぐには答えなかった。
「——お分りでしょう、大方のところは」
「そうですね」
亜由美は気が進まないながらも、口を開いて、「小田久仁子が久井さんの本当の恋人だったとしたら……。久井さんは、小夜子さんが出て行ってしまって、心配してたでしょうし、腹を立ててたでしょう、小田久仁子に。そして、小田久仁子がこの部屋へやって来る……」
「いやがらせ、というわけですかね」
「久井さんは、怒りを隠して、もう一度、彼女と寝ようと誘う。——小田久仁子がバスルームで体を洗っているところを、絞め殺す……」
「もう邪魔はさせない、ってわけですな」
と、殿永が肯く。「それが普通の解釈ということになるでしょう」
「ワン」
びっくりして、亜由美は部屋の入口へ目をやった。
ドン・ファンが入って来て、その後からは、小夜子が姿を見せた。青ざめた顔で、
「今、聞いてました」
と言った。「嘘《うそ》です。彼は、人を殺せるような人じゃありません」
「小夜子さん」
と、殿永は言った。「我々も、久井隆さんが犯人だとは思いたくない。しかし、姿をくらましているのは、何といっても不利でしてね」
「でも……こんな所で殺せば、捕まるに決ってるじゃありませんか」
「確かに」
と、殿永は肯いて、「しかし、現実の殺人犯は、そう理屈通りに動くわけじゃないのです。後で死体をどこかへ運ぶつもりで殺しておいて、いざとなると、自分のやったことのショックで呆然《ぼうぜん》自失。どこかへフラフラと出て行ってしまうことも、充分にありえます」
「じゃ、彼もそうしたと——」
「警察の一般的な見解は、そうならざるを得ないだろう、ということです」
しばし、重苦しい沈黙がつづいた。
「ともかく——」
と、小夜子は、気をとり直したように、「私、彼を信じています」
「結構」
と、殿永が微笑んで、「真相がはっきりするまで、信じていて下さい。その方がいい」
亜由美は小夜子の肩へ手をかけて、
「大丈夫ですよ。私たちで、本当の犯人を見付けてみせましょ」
「ありがとう」
小夜子が、亜由美の手を握った……。
「——何ごとだい?」
と、声がした。
入口の警官が何をしていたのか——。そこには、久井隆当人が立っていたのである。
「隆さん……」
「小夜子! どこへ行ってたんだ?」
久井は、小夜子の方へ駆け寄って来ると、しっかりと抱きしめた。「一晩中、捜してたんだ!——良かった」
あんまり良くもないのである。
「失礼」
と、殿永が声をかけると、
「やあ、刑事さんですね。何してるんです、こんな所で?」
と、久井が不思議そうに訊いた……。
「ハネムーン、キャンセル?」
と、神田聡子が訊いた。
「当り前よ。それどころじゃないでしょ」
と、亜由美は苦笑いした。「新郎は警察で取り調べ、新婦は泣いて暮してるってんじゃね」
大学の帰り道。
一応大学生である(しつこいか?)亜由美は、講義に出ての帰り、聡子と一緒に駅への道を歩いていた。
小田久仁子の死体が見付かって三日たっていた。
その間、殿永はもちろんあちこち歩き回って——いくつかの事実を探り当てていた。
小田久仁子に「恋人」がいたことは確かで、OL仲間にも、よく、
「今夜はデートよ」
なんて話していたらしい。
しかし、それが久井のことかどうか、その確証は得られなかったのである。
いずれにしても、久井としては不利な立場で、逮捕も時間の問題かと見られていた。
「でも、いくつか分んないところがあるのよね」
と、亜由美が言った。
「たとえば?」
「小夜子さんは、ホテルを出るとき、書き置きを残して来た。それは間違いないって言ってるの。でも、久井さんは見てない、と言ってる。もし、見てれば、私の所にいると分ってたわけだから、心配して捜し回ったりしないでしょ」
「その手紙、あったの?」
「見付からない」
と、亜由美は首を振る。「それと、もし久井さんがいない間に、誰かが小田久仁子を中へ入れて、殺したとしたら……。その人間はなぜ部屋へ入れたのか、ってことよ」
「あ、そうか。当然自動ロックだもんね」
「開くはずがないわよね。——そう考えると、やっぱり久井さんがやったことなのか……」
「小夜子さん、可哀そうね」
「うん……。うちにいるの、実をいうと」
「亜由美んとこに?」
「そう。——ご両親の所にいたら、もし事件がマスコミで話題になったとき、やかましいだろうし、本人も傷つくでしょ」
「そうか……。じゃ、亜由美の部屋で?」
「ドン・ファンがお相手してるわ」
と、亜由美は言った。「こんなときには役に立つ。何しろ面食いだからね」
「あの犬も、結構役に立ってんじゃないの。ま、背が低いからドアは開けらんないけどさ」
と、聡子が言うと、
「ドン・ファンがドア開けて入って来たら、気味悪いよ」
と、亜由美は笑った。
「今ごろ、クシャミしてるかな」
と、聡子は言って——。「亜由美、どうかした?」
亜由美が足を止めて、目はあらぬ方を見つめていたのである。
「亜由美! しっかりして! まだ死んじゃだめよ!」
と、聡子が腕をつかんで揺さぶる。
「失礼ね。誰が死ぬのよ」
「だって、急に馬鹿みたいな顔するから」
「悪かったわね」
と、口を尖《とが》らし、「あのね、ホテルに行こう」
「どこへ?」
と、聡子は面食らって言った。「男でも待ってるの?」
「男がいなきゃ、ホテル行っちゃいけないの?」
「そうじゃないけど」
「ピンと来たの。——ドアの話でね」
と、亜由美は得意げに言ったのだった……。