「ええ?」
結城美沙子は、食事の手を止めて、「内山広三郎が、偽者?」
「大きな声、出さないで」
と、大倉は言った。
「ごめん」
と、美沙子は首をすぼめて、「でも……どういうことなの?」
「いや、例のK会館でのことさ」
大倉は、食事をしながら、あの日、妻の有紀と、内山秀輝が、大倉を内山広三郎に会わせまいとしていたことを話してやった。
「——へえ、不思議ね」
と、美沙子は言って、「それであの刑事が変なことを訊《き》いてたのか」
「どうもおかしい。内山広三郎とそっくりの替え玉を使って、みんなの目をごまかしてたんじゃないか、って気がするんだ」
二人は、割合気楽に入れるレストランで食事をとっていた。
美沙子は、見ていて気持いいほど、よく食べた。
「そっくりの人ねえ……」
と、美沙子は信じられない、といった様子である。
「君、内山広三郎を殴っただろ。どこかおかしいと思わなかったか?」
「よく見なかったわ。タタッと行って、ポカッとやって、サッと引き揚げちゃったもん」
と、美沙子は言った。
「そうか。——しかし、どうもおかしい」
と、大倉は首を振って、「何かを隠してるんだ、誰もが」
「だけど——」
と、美沙子が言った。「いつごろ本物が死んだと思うの?」
「さあ……。よく分らない。この前会ったときは、まだピンピンしてた」
「でしょ? 私だって、この前会ったの、そんなに前じゃないわ」
と、美沙子は、「デザートね」
と、しっかりオーダーしておいて、
「そんな短期間に、よく似た人を、見付けられる? 内山広三郎って、かなりあちこちで顔を知られてるでしょ」
「まあ、そうだね」
「それをごまかそうっていうのは大変よ。一日や二日で、うまくそっくりの人が見付かるかしら?」
大倉は肯《うなず》いて、
「君の言う通りだな。——すると、この裏にあるのは何なんだろう?」
「何か[#「何か」に傍点]あることは確かよね。でも……」
「いや、君には関係ないさ。妙なことを言って悪かったね」
大倉はコーヒーだけ注文した。
「——これから、どうする?」
「今夜のこと? それとも将来のこと?」
大倉は笑って、
「両方だ」
「将来は——年齢《とし》をとって、死ぬ。今夜は……そうね。あなたと寝るのは気がすすまないから」
「どうして?」
「私、面食いで」
「おいおい」
と、大倉は苦笑した。
「ね、内山広三郎の家へ行ってみましょうか」
「何だって?」
「百万くらいで手を切ろうなんて、甘く見るなって、タンカを切りに。——内山に会わせろって喚《わめ》くの。どう思う?」
「しかし君——」
「興味あるわ。本物かどうか確かめるだけでも、面白いじゃない」
と、美沙子が楽しげに言った。
「そうか。——よし、じゃ送って行こう」
「デザート食べてからね」
と、美沙子が言った。
「広い屋敷だ」
と、野口が言った。
「何を言ってるの、いつも出入りしてるくせに」
と、有紀は笑った。「——兄も追っつけ帰るでしょ」
「しかしね……奥さん、どうするんです」
野口が、居間のソファにゆったりと身を沈めた。
「何のこと?」
内山広三郎の屋敷である。——もちろん有紀もここで育ったのだから、勝手に飲物を出して飲むくらいはできる。
「これからです。——内山広三郎さんの後を継ぐのは誰か……」
有紀はチラッと野口を見て、
「あなたには関係ないわ」
「そうはいきませんよ。僕は内山広三郎の秘書だ」
「あなたは内山家の人じゃないのよ。間違えないでね」
と、有紀は少し厳しい口調で言った。
「おやおや。僕は奥さんのために心配してあげてるんですがね」
「ご心配は無用よ。私たちで決めることですからね」
「秀輝さんに、広三郎さんの後が継げますか? まあ無理だ。本人もやる気がないし。そうなると、大倉さん? しかし、あなたとは決定的に溝ができている」
「決めつけないで。——やり直せるかもしれないわ」
「それはどうかな」
と、野口は笑って、「昼間から飲んだくれていてはね」
「夫のことで、あなたにとやかく言われる筋合はないわ」
と、有紀は野口をにらんだ。
「そう怖い顔をしなくてもいいでしょう」
野口の態度は、秘書のものではなくなっていた。「ご主人はあの女と今ごろベッドの中だ。あなただって——」
「主人は主人よ。だからってあなたと寝なきゃいけないわけじゃないでしょ」
「そりゃそうです。しかし——」
「何よ」
野口は、ちょっと笑って、
「僕にあまり冷たくしないほうがいいですよ。一度は寝た仲だ」
有紀はサッと赤くなった。
「放っといて!」
「いいですか。確かに、僕はこの一族の人間じゃない。しかし、その秘密の部分には、深く係わって来た人間です。僕を怒らせないほうが利口だと思いますがね」
有紀はじっと野口を見て、
「私をおどすつもり?」
「とんでもない。力を合せた方が得だと言ってるんです」
「必要ないわ。出て行って!」
と、有紀は叫ぶように言った。「今日限りクビよ!」
「あなたに僕をクビにする権限はない」
と、野口は涼しい顔で言った。「僕がマスコミにこのネタを売り込んだら? 高く売れますよ」
有紀は、ゆっくりと息をついた。
「——分ったわ。どうしろって言うの?」
「それで結構。——僕は欲のない男ですからね。然《しか》るべきポストと、あなた[#「あなた」に傍点]。その二つさえあれば、それ以上は何も言いません」
有紀は、ちょっと眉《まゆ》を上げて、
「ポストは私じゃあげられないわ」
「分ってますとも。秀輝さんに話していただければ」
「兄に?」
「お兄さんが後を継ぐしかない。そうでしょう? しかし、どうせお兄さんは社長の椅子《いす》に座っているだけだ。——それをかげから操るのは面白いですよ」
野口の目は、不気味な光を放っていた。
「あなたが……?」
「僕と奥さんで。——どうです」
有紀は、立ち上ってテーブルにもたれると、肯いて、
「面白いわね」
と言った。
「そうでしょう」
野口が近付いて来る。「僕とあなたが組めば思いのままだ。——こんな面白いことはありませんよ」
「そうね……」
「どうです?」
野口の腕が、有紀の腰を抱く。そして引き寄せると、
「ご主人なんか、放っておきなさい」
「そうね。——放っとけばいいわね」
「そうですとも……」
野口が、有紀を抱き寄せると——有紀の手がつかんでいた、唐時代の大きな陶器の人形が、野口の頭に砕けた。
「——おい」
と、居間の入口に、いつの間にやら内山秀輝が立っていた。「高いんだぞ、その人形は!」
「兄さんが買ったわけじゃないでしょ」
有紀は、大の字になって倒れている野口を、見下ろした。——身動きする気配はない。
「——死んだのか?」
と、秀輝がこわごわ近寄る。
「知らないわ。見てよ」
「いやだよ、俺は」
「臆病《おくびよう》なんだから!」
有紀はかがみ込んで、野口の手首を取った。「——大丈夫。生きてるわ」
「しかし、ふざけた奴だ」
「怒ることだけ一人前ね」
と、有紀は言った。「どうする?」
「さあ……」
と、秀輝は頭をかく。
何ごとも自分で決められない男なのだ。——有紀は苛々《いらいら》した。
そのとき、玄関のチャイムが鳴りひびいて、二人はギクリとした。
「誰だ?」
「玄関よ。門じゃないわ。——うちの人かしら」
有紀は、野口をチラッと見下ろして、「ともかく、どこか隣の部屋へでも放り込んどいて!」
と言うと、居間を出て行った。
「何ですって?」
と、有紀が言った。
「まあ、お前にしてみりゃ、信じられない、と言うところだろう。しかし、広三郎さんとこの人とは一年近く、関係があったんだ。こういうことになっても、おかしくない」
「私も、つい最近なんですよ、気付いたのは」
と、結城美沙子が言った。「どうも体の調子がおかしいので、お医者さんへ行って……。そしたら、おめでたですって」
有紀は、チラッと夫のほうへ目をやって、
「それを信じろって言うの?」
と、言った。「もし本当に子供ができてたとしても、父の子だとどうして分る?」
「間違いありません。内山さん以外の人とはこの一年、ずっと寝てないんですもの」
「あなたとも?」
と、有紀が夫を見る。
「今日も何もなかった。本当だ」
「そう。偶然ね。私もよ」
有紀は、甲高い声で笑った。
「ともかく」
と、美沙子が言った。「内山さんに会わせて下さい」
「会ってどうするの?」
「知ってもらいたいんです。このことを」
「お金? お金なら出すわ」
「いいえ」
と、美沙子は真直ぐに有紀を見つめて、「お金じゃないんです。ともかく、ご本人の口から、どうしてほしいか、聞きたいんです」
有紀と美沙子が、互いに一歩も譲らない様子で、じっと見つめ合う。
——有紀が立ち上った。
「待ってて」
有紀は、客間を出ると、二階へ上って行った。
奥の部屋のドア。鍵《かぎ》をとり出して開けると——明りを点《つ》ける。
「お父さん[#「お父さん」に傍点]」
と、有紀は言った。「困ったことになったわよ」
そして有紀は、ふと、クロゼットのほうで物音がしているのを聞きつけ、眉をひそめた。
「ネズミでもないだろうけど……」
と、歩いて行くと、ちょっとためらってからパッと扉を開ける。