春休みの初日——つまり、父と母に泊りに行けとすすめたその翌朝、智子は十時過ぎに目が覚めた。
堀内こずえと、映画にでも行こうかと話していたことを思い出し、パジャマ姿で部屋を出ると、廊下の電話を取った。
「——もしもし、小西ですけど、こずえさん——。あ、なんだ、こずえか」
と、智子は欠伸《あくび》をした。
「今起きたの?」
と、堀内こずえが訊く。
「どうする、今日?」
「うん、ちょっと買物したいんだ。従兄《いとこ》の誕生日で、何かあげるもん、捜したい。付合う?」
「いいよ」
と、智子は肯いて、「じゃ——十二時ぐらい? お昼食べようか、どこかで」
「十一時半なら出られるでしょ」
「そうだね」
智子はおっとり屋であり、いつでも時間に余裕を見てしまうのである。
「ね、智子さ」
と、こずえの声がちょっと低くなった。「三井さん——良子のこと、何か聞いた?」
「何か、って?」
「何だか、今朝電話があって、うちのお父さん、急いで出て行ったんだよね」
堀内こずえの父親はN女子学園の中学で教えている。
「何か言ってた?」
「何も。でも、何だかえらくむつかしい顔してたから」
「そう……」
また良子が何かやったのだろうか。ゆうべの母親の電話の様子からみて、その可能性が高い。
しかし、今は心配していても何かできるというわけではない。——とりあえず、こずえと待ち合せの場所を決め、智子は、シャワーを浴びることにした。
目が覚めてすっきりすると、コーヒーでも飲もうとバスローブ姿で、階段を下りて行く。
「——何だ。今ごろ起きたのか」
居間から父の顔が覗《のぞ》いて、智子は面食らった。
「お父さん! パリへ発ったんじゃなかったの?」
「うむ。少し延ばすことにしたんだ」
と、小西は言った。
「あら、智子」
と、紀子が廊下をやって来る。「今日はお出かけ?」
「うん……。ずいぶん早くチェックアウトして来たのね」
「まだ借りてるのよ、今夜も」
と、紀子は愉《たの》しげに言った。「お父さん、四、五日こっちにいるんですって」
父が苦笑いしている。——大方、母がうるさくせがんだのだろう。
母が上機嫌なのは、そのせいか。智子のアイデアは、予想以上の成果を上げたようだ。
「こずえと出かけるの。買物するんだ。少しおこづかい、くれる?」
「いいわよ。お財布から持ってらっしゃい」
母の気前のいいこと!
智子は笑ってダイニングへ入って行った。
「——それで、おごってくれるわけか」
と、こずえが言った。「珍しいと思った」
「何よ」
と、智子は笑った。
おごるといっても、ハンバーガーの店。でも今は、おにぎりだのチャーハンだの、色んなメニューがある。
それでなければ、競争に勝てないのだろう。
もう休みになった学校も多いらしく、同年代の女の子たちも、ずいぶん見かける。
「じゃ、お父さんもお母さんもご機嫌だね」
と、こずえが言った。
「そうね。夫婦なんて、ちょっと二人だけになってる時間がありゃ、ああして、しっくり行くんだね。その時間もとれない人が多いのかな」
「そんなもんよ」
「分ったようなこと言って!」
と、智子は笑った。「もう一杯シェーク、飲もうかな。こずえ、どうする?」
と、智子は言って——こずえがじっとどこかを見つめている。
「見て」
と、こずえが言った。
店の中のTV。——ニュースの画面には制服姿の、見知った顔が……。
「良子だ」
と、智子は言った。
「——良子さんは昨夜七時ごろ、〈P〉を出てから、足どりがつかめておらず、犯人が良子さんをどこかへ呼び出し、殺害した上で林の中へ捨てた、との可能性が高いと警察では見ています……」
アナウンサーの声は、智子の頭の中で、何度も何度もくり返し流れた。
〈P〉を出て……殺害した……林の中へ捨てた……。
とっくに、TVではニュースが終り、CFになって、見たことのある外国の映画スターが、車に乗って走り回っていたが、智子の目には、まだあのアナウンサーの声が響いていた。
「——智子」
と、こずえが言った。
「うん。帰ろうか」
「買物どころじゃない」
「そうだね」
二人は自分たちの盆を返しに行って、店を出ると、地下鉄の駅へと歩いて行った。
ずっと無言で——ホームへ出て、やっと、
「私、行ってみる」
と、智子は言った。
「どこへ?」
「良子のとこ。前はよく遊びに行った」
「でも……とり込んでるよ」
こずえは、智子ほど良子と親しかったわけではない。しかし、智子はゆうべの出来事が、自分と全く無関係とは思えなかったのだ。
「ともかく行ってみる。——確か途中でのり換えられるから」
「分った」
「こずえ、帰って。私、一人で行く」
「その方がいい?」
「うん」
「じゃ、そうするよ」
こずえも、智子が何か特別に理由があって良子の家に行こうとしていることが分ったらしい。
電車が来る。——地下鉄の中は、もちろんやかましくて、あまり話のできる場所ではないが、いずれにしても、二人は黙ったまま口を開かなかった……。
「まあ、智子ちゃん……」
思いがけず、良子の母親が出て来た。
きっと両親は警察に行っているのだろうと思っていたのだ。
「あの……TVで見て」
「ええ……。こんなことになって……」
母親も、ショックでまだ涙も出ないようだった。「あの——ともかく、上って」
「いいんですか」
靴が玄関に何足か並んでいるのを見ても、誰のものか、考えなかった。
居間へ入ると、ずっと前にここへ来たときのことを思い出した。
「——この子が、ゆうべ〈P〉にいたと教えてくれたんです」
と、良子の母親が言った。「智子ちゃん。警察の方なの」
二人の、がっしりした体格の背広姿の男が、値ぶみするように、こっちを見ていた。
智子は、突然悪夢が現実になったような錯覚に陥った。
「少し話を聞かせてくれるかな」
と、頭の薄くなった、年長の方の刑事が言って、智子は、自分でも知らない内に、ソファに座っていた。
名前、住所、良子との係わり。少しずつしゃべって行く内に、智子も落ちついて来た。
この刑事たちは、良子が殺された事件を調べているのだ。自分とは関係ない。そうだ。
——大丈夫。何でもないのだ。
「ゆうべ、良子さんが〈P〉にいると、どうして知ってたんだね?」
と、その刑事が言った。
「あの……本人から聞いたんです。卒業式の後で」
「卒業式の後か。どんな話をしてたんだね?」
智子は、少し深く息をついて、
「大学は別々になるんだね、と話してて……。それで——」
「それで?」
「夕方六時ごろ〈P〉にいるから、良かったらおいで、と言われたんです」
「でも、行かなかった」
「はい」
「どうして?」
「家族で夕食をとることになったからです。もし、良子が待ってると悪いと思って、レストランから電話したんですけど、良子は出た後で……」
「なるほど」
刑事は、智子の食事したレストランの名前と場所を控えた。——別に、それを問い合せるというわけではなく、でたらめでない、という心証さえ得られればいいのだろう。
「——いや、その店にかかった電話が誰からだったのか、問題になっていたんだ。これで分ったよ」
と、肯《うなず》く。
「あの……犯人の手がかりは?」
と、智子は訊《き》いた。
「男だということ以外はね、まだ……」
「男……」
「乱暴してから絞め殺しているんだ」
智子は、息をのんだ。——良子! 良子! 何てひどいことに……。
「まあ、この良子って子も、高校のころから悪い仲間と付き合い出して、マリファナとかやっていたらしいね。そんな連中と付合ってると、ろくなことはない」
と、その刑事は言った。
その突き放した言い方に、智子は怒りを覚えた。
「良子は、とてもすてきな子だったんです。頭も良くて、優しかったし。——良子に何かあっても、良子だけのせいじゃありません! そんなはず、ありません……」
智子の目から大粒の涙がこぼれた。
必死で泣くまいとすればするほど、良子のあのやさしい笑顔が浮んで来て、涙が止らなくなるのである。
——しばらく泣いて、やっと涙を抑えると、
「すみません……」
と、ハンカチで目を拭いながら言った。
「いや、君の気持はよく分る」
と、その刑事は言った。「こっちの言い方も悪かった。すまない」
目を上げると、穏やかな眼差しと出会った。
「私は草刈というんだ。君は小西智子君だね」
「はい」
「その他に、何か憶えていることはないかい?」
——ある。確かに、ある。
しかし、それを言ってしまって、どうなるだろう。
この事件とは、何の関係もないことなのだ。
そう。——私が片倉先生を殺したこととは……。
「——何かあるの?」
と、草刈という刑事が訊く。
智子は、ゆっくりと息をついて、
「二週間くらい前になりますけど、うちの大学の先生が、自宅で殺されたんです」
と、言った。
「憶えてるよ。有名な先生だろ。片……」
「片倉先生です。片倉道雄」
「そう。そんな名だった」
「——良子、その先生のことで、何か知っていると言いました」
智子の言葉に、草刈刑事は身をのり出した——。
家に帰ったのは、夕方だった。
玄関を上るなり、姉の聡子が出て来て、
「聞いた?」
と言った。
「行って来た。良子の家」
と、智子は言った。「お母さんたちは?」
「ホテルへ戻った。プールで泳ぐんですって。呑《のん》気《き》よね」
と、聡子は言った。「——良子ちゃん、昨日会ったばかりだったのに」
「うん……」
「片倉先生、良子ちゃん、と続くなんて、いやね」
「何か関係あるのかも」
聡子がびっくりして、
「どうして?」
居間へ入って、智子は刑事に話したのと同じことをくり返した。
「——凄《すご》い! それじゃ、良子ちゃん、犯人を知ってたのかも」
と聡子は言って、「ねえ! 昨日、どうして山神先生があそこにいたのか……」
智子は、姉をじっと見て、
「まさか——良子を?」
「山神先生がやったと知ってたせいで、良子ちゃんが口をふさがれたんだとしたら?」
「お姉さん! そんなの無茶よ」
「昨夜の山神先生のアリバイ。——これ、調べる必要があるわ!」
「待って!」
智子が止める間もない。聡子は、部屋へ駆け上って行ってしまった。
きっと、小野由布子へ電話するのだろう。
もちろん、山神が良子を殺す理由などないわけである。しかし、姉は山神が片倉を殺したと思い込んでいるのだから……。
智子も、気にはなっていた。
あのとき、山神はなぜ卒業式に来ていたのか。そしてなぜ、智子の方を見ていたのか。
——間違いなく、山神は智子を見ていたのだ。
しかし、智子には思い当ることがない。
姉は、山神のアリバイを調べるだろう。
でも……大丈夫。警察だって、何の証拠もなしに、人を捕まえたりしないだろう。
そう、きっと大丈夫……。
智子は、そう自分へ言い聞かせたのだった。