いくら春休みといっても、そうそう毎日寝坊しているわけにはいかない。
のんびりと起き出す楽しさも、四、五日たつと、
「どこかへ出かけたい」
という、あり余るエネルギーにとって代られるのである。
——小西智子は、八時過ぎに目が覚めた。
カーテンを開けてみると、春にしては穏やかで風もない、上天気。いつまでも、ベッドの中でぐずぐずしている気にはなれなかった。
堀内こずえにでも電話してみようか、と思ったが、一家で温泉に行くと言っていたことを思い出した。
それならいい。別に、智子は一人で出かけるのが嫌いなわけではなかった。こずえと何から何まで趣味が一致しているわけでもないのだし。
そうか。——絵でも見に行こうかな。
智子は、時間があるとき、美術館へ行って絵を眺めるのが好きだ。姉の聡子には全くそんな趣味がないし、特別、親も絵が好きというわけでもなかったのだが。
もちろん、友人の中でも、同じ趣味の子はいない。——たぶん、小さいころ両親に連れられてヨーロッパへ行ったときに、教会の天井画などに圧倒されたのが、絵画に関する記憶の初めであろう。
ともかく、のんびりと絵を眺めて歩くと、気持が爽《さわ》やかになるのだ。
そう決めると、智子は顔を洗って、出かける仕度をした。
食事はどこか外でしてもいい。
母はどうせまた出かけているのだろう。それとも、まだ父が日本にいるので、家におとなしくしているだろうか。
階段を下りて行くと、居間のドアが少し開いていて、
「——そうか」
と、父の声がした。
来客かと思ったが、そうでないことはすぐ分った。電話で話しているのだ。
「——何とか考える。——ああ、分ってるが、今、ちょっと動けないんだ。何とか頑張っててくれ。——うん、何かあれば、いつでも電話しろ」
父の声は真剣そのものだった。「——ああ、できるだけ早くそっちへ戻る」
どこへかけているんだろう?
仕事の話だろうと察しがついたので、智子は足を止め、居間へ入って行くのを遠慮していた。
父は電話を切った。
「パリへ戻られては」
と、もう一人の声がした。
智子は、ちょっとびっくりした。その声は、やす子だったからである。
やす子さんが、どうして父の仕事の電話を聞いてるんだろう。いや、もちろん、たまたま居合わせただけ、ということも考えられるけど。
「うむ」
と、父が言った。「しかし——このままパリへは発てない」
「どうなさいますか」
「なに、大丈夫だ。パリといっても、電話とファックスがある。東京にいても、大して変らんさ」
小西邦和の言い方には多少無理があった。
「さようでございますか」
と、やす子が言った。「何か朝のお仕度を?」
「うん。またベッドに運んでくれるか。何しろ、紀子がすっかり味をしめて」
と、笑っている。
「かしこまりました」
と、やす子が笑いを含んだ声で言った。
もういいか。智子は、居間へ入って行こうとした。
すると、父が言ったのである。
「なあ、伸代」
と。
ドアにかけた手を止める間はなかった。
「——智子。早いじゃないか」
ナイトガウンのままの小西邦和は、智子の格好を見て、「出かけるのか」
と、訊《き》いた。
「うん……」
智子は肯いた。「絵を見に行こうと思って……」
「いい趣味だな」
と、小西は微《ほほ》笑《え》んで、「色々、いやなこともあった。行って来い」
「うん」
「何か召し上って行かれますか」
と、やす子が訊いた。
「いいわ」
と、首を振って、「お腹、空いてないし。どこかで適当に食べる」
「気を付けて行って来い。あまり遅くならんようにな」
「はい」
智子は、玄関の方へ行きかけて、「お母さんは、まだ寝てるの?」
「ああ。もう起きるだろう」
「それより——」
と、やす子が出て来て、「聡子さんが珍しく早くお出かけになりました」
「お姉さんが? もう出かけたの?」
智子は少し目を大げさに見開いて見せ、「雪が降るかもね」
と、言ったのだった。
爽やかな日。
窓を通して見ていた通りの、すてきな日だった。
しかし——智子の胸には、奇妙な一《いち》抹《まつ》の不安が忍び寄っている。父の電話。そして父の言葉……。
あの、やす子との話の様子では、父はパリへ電話をしていたらしい。
おそらく、パリで大切な仕事が父を待っているのだ。それでいて父は、母と二人でのんびり、ベッドでの朝食と洒《しや》落《れ》込んでいる。
あの電話の口調は、かなり切迫したものを感じさせた。父が、そんな大切な仕事を放っておくというのは、考えられないことだ。いつもの父なら、何があろうとパリへ飛ぶだろう。
——智子は、バスに乗った。
平日の昼間。バスはガラ空きで、ゆったり座って、隣にバッグも置ける。
父はなぜこっちに留まっているのだろう?
母がせがんだから、という理由だけではないように、智子には思えた……。
そして——伸代。
伸代。そう。思い出した、一回だけ、母から聞かされた、「やす子」の本当の名前。
岡崎伸代。それが、本当の名前だった。
でも、いつも一緒にいる智子が——姉の聡子だって、母だってきっとそうだ——すっかり忘れていたというのに、父がなぜ、「伸代」という名で呼んだのだろう?
深く考えるほどのことじゃないのかもしれない。父はたまたま、本当の名前の方で憶えていたのかも……。
その判断は、智子にはつかなかった。
大したことじゃないのだ。きっと。きっとそうだ。
一つ一つは小さなことで、たまたま、二つ重なっただけのことだ。
窓の外を、智子は眺めた。ガタガタとバスは揺れて、外の風景は大地震にでも遭《あ》っているようだった。
「そうか」
と、智子は呟《つぶや》いた。
今朝何だか落ちつかないのは、いつもと違うことが、あまりに重なりすぎたせいだろう。——もう一つ、聡子が朝早くから出かけたということを加えて。
どこへ行ったんだろう?
少なくとも、智子の行く美術館でないことだけは、確かだった。
バスは広い通りに出ると、ホッと息をついた、という様子で、ぐっとスピードを上げた。
「どうする?」
と、振り向いて、小野由布子は言った。
聡子は足を止めて、
「どうする、って?」
と、訊き返す。
「帰ってもいいのよ。私一人で行くから」
小野由布子の言い方は、別に聡子を挑発しているわけではなかった。あくまで冷静で、むしろ教師が生徒に訊いているようでさえあった。
「帰らないわよ」
と、聡子は言った。「ちゃんと考えて決めたことよ」
「でも、分ってる? 見付かったら、警察へ突き出されるかもしれないのよ。大学も退学。それでも後悔しないわね」
小野由布子の目を、聡子は真直ぐに見つめて、
「どうなったって、泣きごとなんか言わないわよ」
と、言った。「行きましょう」
「分ったわ。それならいいの」
由布子の口もとに笑みらしいものが浮んだ。
——道は、大分入りくんでいた。
古い住宅が並んだ町並は、何だか昔の日本映画を見ているようだ。
その道を、小野由布子は迷いもせずに右へ左へと歩いて行く。事前に頭へ叩《たた》き込んである様子だった。
聡子は、その後を足早について行った。いや、由布子に遅れまいとするだけで必死だった。
——ピタリ、と由布子が足を止める。
「どうしたの?」
「顔を伏せて」
「え?」
「少し顔を伏せて歩いて」
二人は、うつむき加減に、足どりを緩《ゆる》めて歩き出した。
向うから、一人の女がやって来る。
四十を過ぎた辺りだろうか。一見したところ、五十にも見えるほど、老《ふ》けていた。
決して服装などは見すぼらしくないのだが、全身から、「疲れ」がにじんでいる。眉《まゆ》の間にはしわが刻まれ、その表情は、幸福そうではなかった。
聡子は、その女とすれ違ったが、たぶん、女の方は二人のことなど、見てもいなかったに違いない。
「——大丈夫」
と、由布子がフッと息をつく。
「誰なの、今の人?」
「山神先生の奥さん」
気付いても良かったのだ。——聡子は振り向いて、その女の少し背を丸めた後ろ姿を見送った。
「奥さんがいる、なんて、考えたこともなかったわ」
と、聡子は言った。
「いるのよ、一応」
と、由布子は皮肉っぽい口調で、「あんな男にもね」
「でも——大丈夫なの?」
「今日は用事で出かける日なの。毎週ね」
と、由布子はまた足を速めながら、「夕方まで帰らないわ。大丈夫」
「そんなことまで調べたの?」
聡子は、圧倒されていた。
「時間はむだにしない主義」
こともなげに言って、「——あの家だわ」
黒ずんだ、古い日本家屋。
「陰気そうなとこが、山神先生にぴったりよね」
と、由布子が言って、同じことを考えていた聡子はちょっと笑った。
「じゃ、始める?」
と、由布子は言った。
「どこから入るの? 玄関こじ開けたりしてたら、人が通って見られちゃうわよ」
——由布子が、
「山神先生の家に忍び込む」
と言い出したとき、さすがに聡子もびっくりした。
すぐには賛成できなかったのも当然のことだろう。しかし、由布子から、
「絶対の証拠をつかむには必要よ」
と言われ、「私一人でもやるから、いいのよ」
そう言われると、聡子としても後には引けない。片倉を好きだったという点では、死んでしまった今でも、由布子と競っているところがあったからだ。
「やるわよ、一緒に」
と、つい言っていた。
そして——いざ、山神の家の前に来ると、さすがに聡子は後悔している。しかし、そうは言えなかった。
「任せて」
と、由布子が自信たっぷりに言った。「玄関からは入らないわよ、いくら何でも。庭の方へ回るとね、今は使ってない勝手口があるの。釘で打ちつけてあるけど、板がくさってて、ちょっと力を入れれば外れる」
「見られない?」
「うまく、隣の家の木の陰になってるの。ちゃんと見ておいたんだから」
由布子は、「こっちよ」
と、聡子を促した。
「うん……」
いささか重い足どりで、聡子は由布子について山神の家のわきへ回ると、やっと通れるくらいの狭い塀の隙《すき》間《ま》を、すり抜けて行った……。