美術館の中は静かだった。
平日の昼間で、客が少ないのも当然かもしれない。特に〈××展〉といった、会期を限った特別な展示をしているわけではないのだし。
智子はゆっくりと絵から絵へ、間の空間を楽しむように歩いて行った。
絵そのものも好きだが、こういう「空気」が、智子をホッとさせる。——東京で、こういう場所はほとんどない。
多少ゆったりしたスペースはあっても、BGMが絶え間なく流れているし、電車に乗っても、誰かのウォークマンから、ロックのリズムが洩《も》れて来る。
智子とて、音楽は嫌いでない。しかし、時には「何もない」時間がほしいと思うのだ。
——ソファが置いてあった。それに腰をおろすと、少しそのままでいよう、と思った。
美術学校の生徒らしい格好の女の子、定年になって時間をもて余しているらしい老人……。一人一人が、目の前を通りすぎて行く。
絵か……。そう、あの人は絵も趣味の一つだった。
いや、そう言っていただけかもしれない。
ラフマニノフの音楽を、
「女を口説くのに一番いい」
としか思っていなかった男だ。
絵だってそうなのだろう。——裸体画を見ながら、
「この女が俺《おれ》のものだったら」
とでも思っていたのか……。
しょせん、その程度の男だったのだ。
片倉道雄との、あの恐ろしい思い出は今でも智子を身《み》震《ぶる》いさせたが、同時に、どうしてあんな男の所へノコノコと出かけて行ったんだろう、と……。それを考えると、自分自身に腹が立つのだった。
「パリで買った、珍しい写真集があってね」
と、片倉は言ったものだ。「有名な画家のスナップやポートレートを集めたものなんだ。なかなか面白いんだが、何しろ大判の重い本でね。ちょっと学校へ持って来るってわけにいかないんだよ。見に来るかい、良かったら?」
あれが、片倉の手だったのだろう。
あの手で他の子も何人か引っかけていたのだろうか。
——片倉と初めて会ったのは、姉と一緒にTV局に行ったときだった。
もちろん、前から片倉の顔は知っていて、TVなどで見ていた。——確かに、なかなかすてきな男性だな、とは思ったが、姉が熱を上げているのを見ると、却《かえ》って、
「それほどのこともないんじゃない?」
と言ったりしていた。
TV局へ出かけて行ったのは、その日、スタジオに何人かの学生を集めて、〈現代女子大生の心理〉というテーマのパネルディスカッションがあり、片倉がパネラーの一人になっていたからである。
聡子も、その「女子大生」の一人に選ばれていて、すっかり舞い上っていたものだ。智子はその姉の、いわば「付添い」で、局のスタジオの隅から、チャチなセットでくり広げられる討論——というより、いかに自分をマスコミに売り込むかという、評論家や学者のパフォーマンス合戦を眺めていた。
その中でも、片倉は目立った。外見がハンサムというだけでなく、自分は人気がある、という自信が、余裕を感じさせていたのである。
ライトを浴びている片倉は確かに魅力的で……。智子は、正直、胸ときめくものを覚えるのだった。
軽薄そうだけど、すてき。——正直なところ、そんな印象だった。
収録が終ったあと、片倉は、聡子と智子に軽い食事をごちそうしてくれた。そのとき、智子に絵の趣味があるという話になって——。
そのレストランを出るときだった。
「私、ちょっと化粧室に」
と、聡子がいなくなると、片倉はカードで支払いをして、
「——智子君だっけ」
「はい」
「絵が好きなのか。——そうだ。うちにね、パリで買った、ちょっと面白い写真集があるんだよ……」
そう、片倉は言った。
姉のいないときを見はからって、初めから智子を引っかけるつもりだったのだ。
しかし、智子は頬《ほお》を赤らめて、
「伺ってもいいんですか?」
と、訊いていた。
馬鹿なこと!——あんな手にコロッと引っかかって。
あのひどい雨の中を、わざわざ出かけて行った。ずいぶん遠かったのに。
写真集は、確かにあったが、そう大したものとも思えなかった。
でも、片倉は分っていた。智子の興味が、むしろ独身男のマンションを一人で訪ねるという「冒険」の方にあるのだということ。そして、姉に黙ってやって来るに違いないということも。
——君はプレゼントだ。
あの片倉のセリフが思い出されて、智子は思わず目を閉じた。
そこまで! もう、その先は思い出さなくていい。何もかも、終ってしまったことだ。
警察の捜査は行き詰っている。おそらくあのまま迷宮入りということになるだろう。
だが、その一方で、良子が殺された事件がある。たぶん……何の関係もないだろうが。
ただ良子が、片倉のことを何か知っている様子だったのが気にかかる。
片倉に、「気に入った女子学生に手を出す」以外の秘密が、あったのだろうか? あったとすれば、それは何だったのか。
——智子は、ソファから立ち上り、絵の続きを眺めて行った。
前にも来たことがあるので、大体どんな絵があるかは分っている。それは、慣れた散歩道を歩くのにも似た安心感を、与えてくれるのだった……。
一時間半ほどいて、智子は外へ出た。出口のすぐわきが、小さなティールームになっていて、ここのケーキは意外といける。
智子は一人で、テラスになった場所のテーブルに座ると、そのケーキと紅茶を頼んだ。
——休み、って感じだ。
こうして、誰にも邪魔されない、何の予定もない時を過すのが、休みというものだろう。
目の前の道も、車は一応通るが、交通量が少ないので、さして気にならない。
そして——ふと、智子は路上に駐車した車に目を止めた。
何をしているのか……。ありふれた中型車に男が一人乗っていて、週刊誌を広げている。智子はほんのチラッとだが、その男が自分の方を見ているような気がしたのである……。
気のせいだろう。——そう。心配することなんか何もない。
「——お待たせしました」
ウエイトレスがケーキと紅茶を置いて行くと、「ごゆっくりどうぞ」
と一言かけてくれる。
この一言が、智子には嬉《うれ》しい。こんな一言でも、つい面倒くさがって、言わない人が多いというのに。
ケーキは、ほんの三口ほどで食べてしまう。紅茶をそのまま、砂糖も入れずに飲み始めたとき、ふっと日がかげった。
見上げると、少し雲が出ている。——さっきはきれいに晴れていたのに。
でも、雨は降らないだろう。用心深い智子は、少しでも危いと思うと、傘を持って歩くタイプだ。
その智子でも、今日のところは——。
傘……。傘が……。
スーッと顔から血の気がひいて行った。
忘れていた! 傘のことを。
あの日は、行くときから、かなり降っていて……。もちろん、傘をさしていた。
その傘を、どこへ置いて来ただろう? 片倉を殺して、マンションを飛び出し、雨の中を突っ走って——。
傘のことなんか、思い出しもしなかったのだ。
どこへ置いただろう? 傘……。どの傘を持って行ったか。
必死に思い出そうとした。——あの黒い傘? 星のちりばめられた。いや、そうじゃない。あれはあの後も使っている。
どうして、考えつかなかったんだろう!
雨の日はあれからも何日かあって——少なかったことは事実だが——どれにしようか、なんて選んでいたのに。
片倉の所へ傘を忘れて来たことは、思い付きもしなかった。
そう……。あのときは、確か——。少し可愛い傘にしようと……。
あれだ。高校一年のとき、父がアメリカで買って来てくれた、赤い傘。そう、確かにあれを持って行った。
そして——どこへ置いたろう?
片倉の部屋まで持って入っただろうか。
智子は必死に思い出そうとした。玄関を入ったとき、片倉が出て来て……。
「ずいぶん降ってるね。濡《ぬ》れてないか?」
と、訊いた。
あのときは——持っていなかった。
下のロビー……。マンションのロビーだ。隅に傘立てがあって、そこへ入れた。きっとそうだ。
——気持を落ちつかせようと、ゆっくり紅茶を飲んだ。
心臓が、びっくりするほどの速さで打っている。
あの赤い傘には、名前が入っている。一時学校へ持って行って、名前がないと、よく他の子が勝手にさして帰ったりするからだ。
もし、あの傘に警察が目をつけていたとしたら、当然今ごろは智子の所へやって来ているだろう。
そうでないということは……。
考えてみれば、ロビーの傘立てにポンと傘が一本入っていたところで、それと殺人事件を結びつける理由はない。誰が入れたか分らないのだし、何日かたって、管理人がしまい込んでしまっているかもしれない。
——どうしよう?
智子は考え込んだ。
傘を受け取りに行く? 却って、事件と関係があると教えるようなものだ。
でも……もしかして、まだそのまま傘立てに入っていたら?
その可能性も充分にある。何といっても、マンションには色んな人間が出入りしているのだから。しばらく入れっ放しになっていたとしても、誰も気にとめないだろう。
智子はそっと、駐車していた車の方へ目をやったが——もう、車は見えなかった。
大丈夫。刑事が監視しているわけじゃなかったのだ。
智子は腕時計を見た。まだお昼だ。充分に時間はある。心配しているよりは……。
智子は立ち上ると、伝票を手に、小さなレジの方へと歩いて行った。
確かに、勝手口は簡単に開いた。
「板も割れてないし、元の通りにしときゃ、入ったことは分らないわよ」
と、由布子が言った。「さ、入って」
狭くて、ろくに手入れもしていない雑草だらけの庭を抜け、二人は古い家の中を覗き込んだ。
「いつまでも外にいるわけにはいかないわ」
と、由布子が言った。「ともかく中へ入らなきゃ」
「でも、鍵、かかってるでしょ」
と、聡子は言った。
由布子の手前、平気なふりはしているが、心臓が飛び出すかと思うほど、高鳴っている。
「古い家ってね、私のとこも前はそうだったから分るんだけど、一つや二つ、どうしてもきちんと閉らない窓とか、あるもんなのよ」
由布子はまるで「その道」のプロみたいな冷静さで、一つ一つの窓を調べて行った。
「——ほら」
ガタッと窓が一つ、簡単に外れた。そっと下へ下ろすと、
「お風呂場だ」
と、中を覗く。「——ここから入ろう。出るのはどうにでもなる」
「うん……」
窓をのり越えると、古びたタイルの上に降りる。湿っぽい匂いがした。
「窓は?」
「大丈夫。見えないわよ、よそからは」
中へ入って、さてどうするのか。聡子には見当もつかなかった。
「山神先生が片倉先生を恨《うら》んでた、って証拠を見付けることね。書斎っていうか、仕事机があるはずだわ」
古い家だけに広い。しかし、二階へ上った二人は、寝室らしい六畳間に、座り机を見付けた。
書きかけの手紙。ボールペン。
「この机だ。——日記帳とかあるといいけどね」
由布子は引出しを開けた。中は雑然としている。
「聡子、その本棚とか、調べてみてよ」
「あ——うん。ここね」
本棚か。こんなもの見たところで……。
適当に、本の奥を覗いてみたりしていると——。箱に入った文学全集の一巻が、いやに軽い。
とり出してみると、箱の中には、ノートとか手紙が束になって入っていた。
「これ、何だろう?」
と、由布子へ声をかける。
立って来て、由布子は一目見ると、
「いわくありげ。持って行こう」
と中身をスッポリ抜いて、ポケットからとり出した布の袋へ入れる。
「いいの?」
「どうせ家宅侵入よ、同じこと」
と、由布子は肩をすくめて、「こっちも、役に立ちそうな物、見付けたわよ」
「何?」
「写真」
「写真?」
「机の引出しの下に敷いたビニールシートをめくったら、下に封筒が入ってた」
由布子が、その封筒の中身を出す。
写真だ。——山神のではない。
「片倉先生……」
そう。片倉の写真だった。
「隠しどりしてるね」
と、由布子は言った。「車から出たところか乗るところか……」
もう一枚の写真を見て、二人は一瞬、言葉を失った。
前の写真の続きである。車から出た片倉、そして続いて降りて来た女……。
「——片倉先生と?」
「らしいわね」
由布子の声には、やや動揺が見えた。
それは片倉と、さっき二人がすれ違った山神の妻の写真だったのである。
そのとき、階下で、ガチャッと玄関の鍵の開く音がした。