聡子も由布子も、「空巣」としては初心者だと思い知らされることになった。
誰か来た!——そう分っていても、二人ともその場から動けなかったのである。
トントントンと階段を上って来る足音。
そして、
「いやだわ……。本当にもう……」
と呟《つぶや》く声が、二人のいる部屋の前を通って行った。
山神の奥さんだ。何か忘れものをして、戻って来たのだろう。
隣の部屋へ入ったらしい。ガチャガチャとどこかをかき回している音がして……。
「——良かった!」
と、独り言を言うのが聞こえた。
また急ぎ足で、二人のいる部屋の前を通りながら、
「遅れちゃうわ……」
と、ブツブツ言っている。
トントンと階段を下り、玄関から出て行った……。
聡子と由布子は、体中で息をついた。汗をかいている。
「——びっくりした」
と、聡子が首を振って、「心臓止るかと思った!」
「こっちもよ」
と、由布子も苦笑する。「さ、もう少し捜《さが》そう」
「まだ? もういいじゃないの」
「どうせ入ったのよ。もう、いくら何でも戻って来やしないわ」
「だけど……。いいわ。でも、どこを捜すの?」
由布子は少し考えて、
「今、奥さんは隣の部屋へ入ったわね。そこを捜してみましょ」
「奥さんの所?」
「片倉先生と何かあったとすれば、そっちにも証拠が残ってるかもしれない」
二人は、山神の部屋が一応元通りに見えるのを確かめてから、隣に行ってみた。
「夫婦で寝室も別か」
と、由布子は言った。
「でも——ショックだ。片倉先生と、あの奥さん?」
「どういう仲かはともかく」
と、由布子は戸棚を開けて、「山神先生は二人の間を疑ってた。だからあんな写真があるんでしょ」
「それって……動機になるわね」
「立派な動機よ」
と、由布子は肯《うなず》いて、「自分の奥さんをとられたんだから。教授のポストだけじゃなくてね」
「こっちはタンス。下着とブラウス……。セーター……」
「何かある?」
「何も。そっちは?」
「細かい物ばっかりね」
結局、山神の奥さんの部屋からは大したものも出ず——もちろん隠したいものが、そう簡単に見付かったら、苦労しないが——二人は引き上げることにした。
風呂場の窓から外へ出て、窓を元の通りにはめ、庭の勝手口から出る。
——表の道へ出て歩き出したとき、二人はホッと息をついて、顔を見合せた。
「くたびれた」
と、由布子が言った。
「何よ。由布子は平気なんだとばっかり思ってた」
「まさか! こんなことするの初めてよ」
「そりゃそうだろうけど……」
と、聡子は言った。「私、怖くて逃げ出したかった」
「私だって」
と、由布子が言った。「聡子がやめようって言ったら、やめるつもりだったのに」
聡子が唖《あ》然《ぜん》として、
「そんな……。そっちでしょ、やろうって言い出したのは!」
——二人は顔を見合せ、それから笑い出してしまった。
聡子は、初めて小野由布子に「友情」を覚えたのだった……。
智子は、雨の降っていない、あの道を歩いていた。
片倉のマンションって、こんなに遠かったっけ?
あの日の記憶は、何もかもが気まぐれに形を変え、時間は伸び縮みしているような気がした。
やっと、そのマンションが見えたときも、それが砂漠の中の蜃《しん》気《き》楼《ろう》で、いつまでたっても着かないかもしれないという気がした……。
でも——今、やっと辿《たど》り着いた。
ここだ。
でも、記憶の中にあるマンションに比べると、そこはいやに小さくて、古ぼけたものに感じられる。
智子は、ロビーへ入ろうとして、ふと〈管理人室〉の方へ目をやった。——一応、窓口はあるのだが、いつも人がいるのではなく、〈用のある人はボタンを押して下さい〉という札があるだけ。そして、肝心のボタンがどこにあるかよく分らないのである。
傘立て。——それは前と同様、入ったすぐわきの隅っこに置かれていた。
しかし、そこには安物の、透明なビニールの傘が一本入れてあるだけだった。
やっぱりね……。智子は肩をすくめた。
もうこんなに時間がたっているのだ。きっと誰かが持って行ってしまったのだろう。それならそれで構わないのだが。
智子は、帰ろうとした。
小学生らしい女の子がタッタッと駆けて来ると、赤い傘を振り回しながら、ロビーへ入って来る。
赤い傘?——智子は振り向いて、その子の持った傘へ目をやった。
「ねえ」
と、智子は声をかけていた。
女の子はピタッと足を止めると、智子のことを、「怪《あや》しい人」とでも言いたげな目つきで見た。
「今日は」
と、智子は笑顔を作って言った。「ね、その傘、ちょっと見せてくれない?」
女の子は、後ろに傘を隠した。
「とらないわよ」
と、智子が笑って、「ただね、お姉ちゃん、それとよく似た傘をここへ忘れてったんじゃないかと思ったの。だから——」
「私のよ」
と、じっと智子をにらむ。
たぶん、小学生の二、三年生か。
「そう。見せてくれるだけでいいの。もし、お姉ちゃんのなら名前が書いてあるからさ。あげてもいいのよ。でも——」
「私の!」
女の子の言い方は、敵意さえ感じさせた。智子は迷った。
おそらく、間違いなくあの傘だろう。
しかし——この子が自分のものにしてしまったのなら、それはそれでいい。ただ、本当に自分のものかどうか、確かめたかっただけなのである。
「じゃ、いいの。ごめんね」
無理を言って、泣き出されでもすると面倒だ。智子は諦《あきら》めることにした。
そこへ、
「どうしたんだ?」
と、声がして、白髪の老人がスーパーの紙袋をかかえて、入って来た。「ルミ。何してるんだ」
智子は、ちょっとためらって、
「あの——お孫さんですか」
と、言った。
「ええ。この子が何か?」
と、その老人は言って、紙袋を窓口の前に置いた。「私は管理人ですがね」
「あ、ここの……。そうですか。別に何でもないんです」
と、智子が言うと、ルミという子が、
「私の傘、見せろって言ったの!」
と、甲高い声を上げた。「これ、ルミのだもん!」
「傘?」
老人は、ちょっと目を見開いて、「ああ。もしかして、あんたのですか。いや、そこの傘立てにずっと置きっ放しになってたんでね。もう誰も取りに来んだろうと思って……」
「忘れてたんです。あの——もういいんです。すみません」
智子は早口に言った。
「ええと……確か、小西——何とか、と名前が入ってましたな。じゃ、ちゃんと返さにゃいかん」
「いいえ、いいんです」
智子は早くこの場から離れたかった。「どうせ、もう使わないんで。もう大学生ですから、可愛すぎて」
「そうですか? しかし——」
「本当に……。ルミちゃんね。大事に使ってね」
と、身をかがめるようにして話しかけると、女の子は、やっと警戒心を少しといた様子で、コックリ肯《うなず》いた。
「じゃあ……。ルミちゃんのお名前、かいとくといいわね。お姉ちゃんの名前は、きれでこすると消えるから。ね? そうしましょうね」
「うん」
「いや、申しわけないですな」
と、老人が言った。
「いいえ。使ってもらえれば、その方が——。ちょっと近くへ来たもんですから、寄ってみたんですの」
「そうですか。いや、申しわけないことで」
と、管理人はくり返した。
「いいえ。どうも失礼しました」
ロビーから出ようとした智子は、入ろうとする男性と危うくぶつかりそうになった。
「おっと!」
「ごめんなさい」
と言って、歩き出そうとする。
「あ、ちょっと」
「え?」
振り向いて、智子は、見たことのある顔に出会った。
「ああ、確か君は——三井良子の家で会った子じゃないか」
頭の薄くなったその男は、草刈刑事だった……。
「——どうも」
と、智子はこわばった顔で、何とか笑顔を作った。
「小西……」
「智子です」
「そうそう。小西智子君だ。意外だね、こんな所で」
智子はチラッとロビーへ目をやった。あの老人がドアを開けて、傘を持った孫を、中へ入れるところだ。
この刑事は、今の話を聞いていたのだろうか。
「ここに何の用事で?」
と、草刈刑事は言った。
「用ってわけじゃ……」
と、智子は言った。「ただ、暇だったんで、来てみたんです。姉から場所を聞いてたから」
「例の片倉って先生の部屋へ?」
「ええ。あの……殺人事件があった所って、どんなかな、と思って……。春休みで、することがなかったし」
「そうか」
草刈刑事は、別に疑っている様子は見せなかったが、智子の説明は自分で考えても、相当に無茶だ。
「この事件も調べてるんですか」
と、智子は訊《き》いた。
「三井良子殺しの方も、なかなか動機が出ないんでね。一つ、こっちとの関連から見直してみようと思ったんだよ」
と、草刈は言った。「君——一緒に部屋へ入ってみるかい?」
とんでもない! あんな所、二度とごめんだ!
智子は、少し間を置いて、
「いいんですか?」
と、訊いていた。
「よくTVなんかで見るだろう?」
と、草刈は言った。「そこに死体があったんだ」
白い線で描かれた、妙に丸っこい人間の形……。そう。確かに、片倉はそこで倒れていたのだ。
下のカーペットを黒く汚しているのは血だ。——しかし、今はもう全く血には見えなかった。
意外なほど智子は落ちついて、「殺人現場」を見回していた。
「君の姉さんは片倉先生のファンだったのかね」
と、草刈が訊いた。
「え?——あ、そうですね。大勢いましたけど、ファンは」
「そうだろうな。なかなかの二枚目だった」
と、草刈は肯く。「その二枚目が頭を殴《なぐ》られて死んだ。——どうしてだろう?」
「さあ……」
「凶器は、もうここにはないが、重い青銅の像。それが後頭部を直撃した。それでも絶命しなかったので、犯人は、大理石の灰皿で殴りつけた」
「そうですか……」
「像は相当な重さだ。大の男がやっと、というところだろうな。物とりの犯行じゃない。室内は荒らされていなかった」
草刈はゆっくりと居間を歩き回って、ソファに腰をおろした。初めに、片倉が智子を押し倒したソファである。
「すると、恨《うら》みということになる。どうやら、女性関係では、色々あったらしいね」
「さあ……。私、よく知りません」
「そうか。君はまだ今度一年生になるんだ」
と、草刈は肯いた。
「でも——」
何か言わなくては、という気がして、智子は言った。「凶器がここにあったものだっていうことは、突発的な犯行だった、ってことですね」
草刈は愉快そうに、
「おやおや、よく分るね。——まあ、その可能性はある。しかし犯人は、たとえカッとなってやったにしても、その後、ちゃんと凶器の指紋をふきとっている」
智子は、少しの間、草刈の言葉の意味が分らなかった。
「——何ですって?」
「指紋さ。青銅の像、大理石の灰皿。どっちも、ちゃんと指紋を拭いてある」
あの像に指紋がないのは当然だ。智子は触ってもいないのだから。
しかし、灰皿は……。あの大理石の灰皿はしっかりつかんで立っていたのだ。
あれに指紋が残っていないはずはない。
「——もう一つ、妙なことがある」
と、草刈が言った。
「何ですか」
「片倉は確かに人気のある先生で、TVにも出ていたし、本も出している。しかし、それにしても、彼の預金通帳は、あまりに残高が多すぎるんだ」
「どういうことですか?」
「何か、かなり儲《もう》かることをやっていたんじゃないかと思える。——君、何か聞いたことはない?」
智子は、首を振った。
「そうか。じゃ、行くか。長居したくなる所じゃない」
「そうですね」
と、智子は言った。
——指紋が消されていた。
それは一体どういうことなのだろう?
智子は、混乱していた。——終ったと思っていたことが、また始まろうとしている。
そんな予感が、智子を怯《おび》えさせた。