妙な気分だった。
智子は今、自分がまるでTVの刑事ものとか、ミステリーの中の登場人物みたいに、刑事と二人でお茶を飲んでいるというのが信じられなかった。
もっとも、草刈刑事の飲んでいるのはコーヒー、智子の飲んでいるのは、ストロベリーセーキである。
「何か分ったんですか」
と、智子は言った。「良子を殺した犯人のこと」
「いや、どうもね……。行き詰ってる」
と、草刈は言った。「三井良子を店から呼び出したのが誰なのか。目撃者がいないので、見当がつかない」
「良子、あんまり仲のいい子がいなかったから……」
と、智子は言った。
「うん。孤独な子だったようだね」
と、草刈は言った。「彼女の父親と母親も知ってる?」
「もちろんです。長い付き合いですから」
「そうか」
草刈は肯《うなず》いて、少しコーヒーを飲むのに時間をかけると、「父親が一時、女を作っていたんだ。それもあって、良子って子は、反抗したんだろうね」
智子は、少し時間を置いて、
「——そうですか」
と、言った。
草刈は、その微妙なニュアンスを聞き逃さなかった。
「何だね? 納得できないって口ぶりじゃないか」
「いえ……。そういうわけじゃ——」
「思ったことを、どんどん言ってくれ。その方が、こっちもやりやすい」
——明るい光が射していたのが、ふっとかげった。喫茶店の中も少し薄暗くなる。
「別に、どうってことじゃないんですけど……。良子、小さいころから結構大人で——。何というか、はっきりしてました。ちゃんと恋愛のこととか知ってて……セックスのこととか。何だか妙だな、と思うのは……」
と、少し言い淀《よど》んで、「お父さんに愛人がいたら、確かにショックでしょうけど、でも良子、それだけでやけになるような子じゃないと思うんです」
つい、「現在形」で話してしまう。もう、良子は生きていないのに。
「なるほど」
草刈は真剣な表情で肯く。
「すみません。生意気なこと言って」
「いや、そんなことはない。我々は、殺された三井良子しか見ていない。だから、ごく一般的な十八歳の女の子という基準でものを見てしまう。——君のように、昔からあの子を知っていたという子の話は大いに参考になるよ」
草刈の言葉に、智子は少し照れた。
「すると、三井良子が非行に走るには、もっと大きなショックがあったと仮定してみよう」
と、草刈は言った。「たとえば、どんなものが考えられるかな」
「さあ……」
正直、見当もつかない。
草刈は、少し考えてから、
「どうかね。——父親に女がいると知る。君なら、どう思う?」
「不潔だと思います」
「そうだろうね。それから?」
「母に同情するでしょう」
「そう。たぶん、三井良子もそうだったろうね」
「ええ、たぶん……」
「もし——同情を寄せていた母親にも、男がいたとしたら?」
智子は絶句した。考えてもみないことだったのだ。
女だよ。——片倉の死について、一言、言ってのけた良子。
それは……。もしかしたら、片倉と自分の母親の間に、何かあった、と知っていたからだろうか?
でも、そんなことが……。
智子には、分らなかった。
智子の沈黙を、草刈がどう受け取ったのか——。ともかく、草刈の言葉も推測にすぎないわけで、智子は、「片倉と良子の母」という組合せを、あくまで自分の想像の中へしまい込んでおいた。
「——片倉先生の方の犯人の見当は?」
と、智子は訊《き》いた。
そして、訊いてから、自分でゾッとした。何て馬鹿なことを!
大体、用もないのに、殺人のあったマンションへやって来たこと自体、おかしいと思われてもしようがない。それを、またしつこく訊いてみたりするなんて。
智子は、「危険にわざと近付いてみるスリル」のようなものを感じている自分に、愕《がく》然《ぜん》とした。
本なんかで、よくそんな犯罪者の心理を読むことはある。でも、自分がそんなことをするとは、考えてもみなかったのだ。
でも、口から出てしまったものは、今さら取り消すわけにいかない。
「どうしてそう興味があるのかな」
と、草刈が愉快そうに訊いた。
この刑事は、知っているのかもしれない。私が犯人だということを。その上で、からかっているのか……。
でも証拠はないはずだ。——そう。指紋も拭き取ってあったのなら、何の証拠も残っていないはずだ……。
「実は——」
と、智子は少し恥ずかしそうに目を伏せて言った。
そう。実は——私が殺したんです。そう言ったら面白いだろう。さぞ、胸がすっきりするだろう。
「私、『隠れファン』だったんです」
と、智子は言った。
「片倉先生の?」
「ええ。姉と一緒に一度TV局へ行って、先生がTVに出てるとこ、見てて……。すてきな人だなあって」
「なるほど」
と、草刈は肯いた。「じゃ、あのマンションに行ったのも、それで?」
「ええ。——一度、足を踏み入れてみたくって。変ですね、タレントでもないのに」
「いや、若いころって、そんなものさ」
草刈は、智子の「告白」を大して重要に受け取ってはいない様子だった。
「さて、行くかな。——ああ、いいよ。これくらいは僕がおごる」
「いいんですか」
と、智子は言って、「ごちそうさま」
と、頭を下げた。
「駅まで行く? じゃ、一緒に歩いて行こう」
草刈は、とても刑事とは思えないような、親しげな口をきいた……。
「——お帰り」
家へ帰ると、姉の聡子が、居間で寛《くつろ》いでいた。
寛いでいた、というよりだらしなく寝そべっていた、という方が正確かもしれない。
「何してるの?」
と、智子は言ったが、返事を期待したわけではない。
見れば分るのだから。
「お母さんは?」
「出かけた」
と、聡子が言った。「お父さんとね。——あんた、どこ行ってたの」
「展覧会よ」
「へえ。好きだね」
聡子は、週刊誌を広げている。
「お姉さんは?」
「私? 私は——ちょっと空巣をやってたの」
「空巣?」
もちろん信じちゃいない。
智子は空いたソファに身を沈めると、
「ねえ」
「うん?」
「どうなってるの、例のこと」
「例のことって?」
「片倉先生の事件。何とか言ってたじゃないの」
聡子はチラッと妹の方を見て、
「あんたは気にしなくていいのよ」
「そう」
智子は肩をすくめて、「余計なことしない方がいいよ」
「ご忠告、ありがとう」
姉妹の会話は、かみ合わない。
どっちも、話せるものなら話したいことがある。しかし、互いに決して口にはできないのである。
「——あら、お帰りですか」
と、やす子が顔を出して、智子はちょっとびっくりした。
何となく、両親だけでなく、やす子もいないような気がしていたからである。
「夕ご飯、どうなさいます?」
「お母さんたちは?」
「お二人で召し上って来られるとか」
「どうしちゃったの、あの二人?」
と、聡子が起き上って、「急に新婚夫婦みたいにベタベタして」
「仲がおよろしいのは、結構なことでございましょ」
と、やす子が言った。「じゃ、何かお二人にはお作りしますわ」
「そうね、飢え死にしないように」
と、聡子が言って、週刊誌の方へ戻る。
「やす子さん」
と、智子は言った。「お父さん、どうしてずっとこっちにいるの?」
行きかけたやす子が足を止めて、
「だって、ここがお宅ですもの」
「そりゃそうだけど……。あんなに、すぐパリへ戻るって言ってたのに」
やす子は、智子の問いに少し動揺を見せて、
「さあ、それは……。お父様に直接お訊きになって下さい」
と言って、「じゃ、すぐ仕度しますから」
と台所の方へ行ってしまう。
「——智子」
と、聡子が言った。「何でそんなこと訊いたの?」
「別に……」
でも、何かある。——きっと、何か日本を離れたくないわけが、父にはあるのだ。
「着がえて来る」
と、智子は居間を出た。
二階へ上って、自分の部屋へ入ると、智子はホッと息をついた。
あの刑事——草刈の言葉が、耳に残っていた。駅まで一緒に歩いて、草刈はまるでどこかの気のいい「おじさん」という様子で、自分の家族のことや、いかに刑事の給料が安いか、などを嘆いて見せていたのだが、駅で別れるときになって、
「君はとても利口な子らしいね」
と言い出した。
「え?」
「何か、片倉先生のこと、それとも三井良子のことで、耳に入ることがあったら、いつでもいい。すぐ教えてくれるかい?」
と、メモを渡して、「これが僕の電話番号だ」
しっかり、智子の手に握らせると、
「じゃあ、また」
もちろん、何気なく言ったのだろう。しかし智子には、草刈が「必ずまた会うことになる」と知っているような——そう匂わせたように聞こえたのである。
草刈のメモを、机の上に置く。その紙は、バッグの中でクシャクシャになっていたが、辛《かろ》うじて破れてはいなかった。
服を脱いでいると、ドアが開いて、
「あら、失礼」
と、聡子が顔を出し、「あんたにFAXが来てる」
「え?」
この家には、父の仕事上の必要もあって、FAXの専用電話があり、父がいない間は、専ら姉妹が友だちとの約束や、テストの資料のやりとりなどに使っている。今は、FAXを入れている家が少なくないのだ。
「誰からか書いてない。——ほら、これ」
聡子が、その紙をベッドの上へフワッと投げて、出て行く。
智子は下着姿で、それを取り上げると——凍《こお》りつくように立ち尽くした。
〈小西智子様〉と、文字の特徴が分らないように、活字のように書かれた文字。
そして文面は——いや、ただの一語。
〈赤い傘〉とあるだけだった。