「おはよう」
と、智子はダイニングに入って、言った。
「もうお昼よ」
と、母の紀子が笑う。「ゆうべ、夜ふかししてたの?」
母はよく笑うようになった。智子はそう思った。
父がいないときは、何でもないことで、すぐに不機嫌になったものだけれど。
父が家にいるというのは、そんなに嬉《うれ》しいことなのだろうか? いや、もちろん夫婦なのだし、それは結構なことだが——。
「お父さんは? パリに発ったの?」
わざと訊《き》いてみる。
「いいえ。ちょっと会社へ行くって。お仕事よ」
「ふーん。ずいぶん日本にいるね、珍しく」
「我が家は居心地がいいって」
と、ぬけぬけと言ってくれる母に、智子は苦笑い。
「何か食べさせて」
と、智子は欠伸《あくび》してから言った。
「ちゃんとパジャマを脱いでらっしゃい。それから今日、やす子さんはお休みだから、どこかに食事に出ましょう」
「そう……」
別に反対する理由もない。——二階へ行きかけて、
「お姉さんは?」
「お出かけ。小野さんの所ですって」
小野由布子の所か。「山神完一を有罪にする会」の打ち合せかな。
——二階へ上って、洗面所で顔を洗う。
ゆうべ、なかなか寝つけなかったのは、仕方のないことだろう。
あのFAX。〈赤い傘〉。——一体誰が送って来たのか。
送ったのは、どこかのFAXを備えたコンビニエンスストアからだ。誰が頼んだかは知りようもない。
赤い傘。——あのことを知っているのは、自分と、あのマンションの管理人……。
しかし、どうしてうちのFAXの番号を知っているのだろう?
そして、誰が送って来たにしろ、その人間は、智子が赤い傘を忘れて来たことを知っている。つまり、智子が、片倉を殺した犯人だと知っているのだ。
ゆっくりとタオルで顔を拭く。
でも、なぜ、今になってあんなことをするのだろう? もう、何もかも忘れてしまいそうになった、今になって。
服を着て下りて行くと、居間の電話が鳴った。
「——はい」
と、智子が出ると、向うは黙っている。「もしもし?」
電話は切れてしまった。
「何よ、失礼ね!」
頭に来て、ブツクサ言いつつ、ダイニングへ。
「誰から?」
と、母の紀子が訊く。
「間違いか、いたずら。切れちゃった」
「そう」
「コーンフレーク?」
「いけない? 今、何もないの」
「いいけど……。夕ご飯は早くしてね」
と、智子は言って、ミルクをたっぷりとコーンフレークにかけた。
「あ、今度はお父さんね、きっと」
と、紀子が、鳴り出した電話へ、いそいそと駆けて行く。「——もしもし。——あ、私。ええ、そうね……」
何とまあ声の弾んでいること!
智子は首を振って、コーンフレークを大きなスプーンですくうと、口に運んだ。
ブルル……。
エンジンの音が追いかけて来て、智子を一台のオートバイが追い越したと思うと、目の前を遮《さえぎ》るようにして停った。
「何?」
智子は、近くのスーパーへ買物に行くところだった。
「小西智子って、君だろ」
見かけは不良っぽいが、声は意外にやさしい、革ジャンパーの若者。
「私だけど——」
「話があるんだ」
と、その若者は言った。「乗らないか、後ろに」
目に荒っぽさはない。どっちかというと、哀《かな》しげな目だった。
「あなたは……」
「内田っていうんだ。良子から聞いたことない?」
「良子から? 三井良子のこと?」
「うん。——付合ってた。もうこの二年くらい」
若者は、たぶん良子や智子と同じくらいの年齢に見えた。
「良子からは、聞いたことないわ」
と、智子は言った。「あんまり会ってなかったし」
「そうか。——でも本当だ。内田三男っていうんだ。『三男坊』だから『三男』さ。単純だろ」
と、苦笑した。「時間はとらせないよ」
嘘《うそ》をついている目ではない、と智子は思った。
「分ったわ」
ちょうどジーパンをはいている。オートバイの後ろにまたがり、内田三男の背中に抱きつくようにして腕を回した。
「しっかりつかまって」
と言うなり、オートバイは飛び出した。
こんな風にオートバイに乗るのは初めての経験だ。耳もとを走る風の音に、智子は思わず目をつぶった。
——実際はそうスピードが出ていたわけでもないのだろうが、右へ左へ、カーブする度に体が傾くスリルは、智子にとっては新鮮だった。
オートバイは、小さな公園の中へ乗り入れて停った。
「降りて。大丈夫?」
智子は、ちょっとむきになって、
「平気よ、これくらい」
と言った。
「わきへ寄せるから」
と、オートバイを公園の隅へ押して行く。
戻って来ると、
「よく、子供が自転車でのり回すんだ、この公園の中。あのでかいバイクじゃ、邪魔になる」
内田三男は、今はほとんど人影のない公園の奥へ入ると、ベンチに腰をおろした。
「——良子の葬式は、遠くで見てた」
と、三男は言った。
「そうだったの。ちゃんと来れば良かったのに」
「歓迎されないさ。それに黒のスーツとかネクタイなんて持ってないし」
「良子と——恋人同士だったの?」
智子に訊《き》かれて、三男は少し迷い、
「恋人っていっても、どこかに泊りに行くってことはなかった。俺はともかく、良子の方が『けじめがつかなくなるから、だめ』って言って」
「そう……」
少しの間、二人は黙っていた。
「——可哀そうだった、良子」
と、智子は言った。
「うん……。犯人、見付かってないんだろ? 何やってるんだ、警察は。俺なんか、バイクに乗ってるだけで、年中止められるんだぜ。あんなヒマがあったら、良子殺した奴、捜せってんだ」
腹立たしげに言って、三男は足を組んだ。
「——いいかい?」
と、タバコをくわえる。
「ええ」
智子は肯いて、「でも——私に何の用?」
「君が、良子に最後に会ったんだろ。話を聞きたくて」
「最後っていっても……。卒業式でよ。その後のことは——」
「親とか、その他の連中は別。当ってみたんだ、色々。結局、友だちの中じゃ、君が一番最後に良子と会ってる」
「そう」
「どんなこと話したか、教えてくれないか」
三男の問いは真剣だった。
「ええ、いいわ。役に立つとは思えないけど……」
と、智子は言って、一息ついてから、話し始めた。
——智子は何となくホッとしている。内田三男が、いかにも良子の選びそうな、自由で、それでいて、きちんと責任感のある若者らしかったからだ。
良子は、変っていなかったのだ。変ったのは見た目だけで、中身は昔のままの良子だった。
それが確かめられたような気がして、智子は嬉しかったのである……。
聡子は、待ち合せの時間を三十分も過ぎて、まだ小野由布子がやって来ないので、不安になりつつあった。
二人が——というより、N女子大の子がよく集まるパーラー。
今は春休みなので、店も暇《ひま》そうである。
実際、大学が夏休みに入ると、この店は一か月近く閉めてしまう。
「おかしい……」
由布子に何かあったのだろうか?
何といっても、これは殺人事件なのだ。
もし、本当に山神が犯人で、そして、昨日由布子たちが家に忍び込んだことを知っていたとしたら……。
そう考えると、気が気でない。
聡子は、由布子の家へ電話してみようかと席を立ちかけた。
「いらっしゃいませ」
そのとき、当の由布子が店に入って来るのが見えた。
「由布子! どうしたのよ、心配したじゃない」
と、座り直して文句を言う。
「ごめん!」
と、小野由布子は笑って、「心配なんて! そんなことあるわけないじゃないの」
「だって……」
「心配性なんだから」
と、由布子は言って、「——私、コーヒーね」
「何してたの?」
「苦労したのよ。いい出来のものを作ろうと思ってさ」
と、由布子はバッグから、大きめの封筒をとり出した。「見て。——ビニールのファイルに入ってる。触らないでね、中身には」
聡子は、それを取り出して、びっくりした。
よくTVなどで見る、新聞や雑誌の文字を切り貼りした手紙である。
「どう? 新聞も雑誌も、絶対に分らないように、大部数の出てるのを選んだわ」
由布子のこりように、聡子は呆《あき》れるばかりである。
〈片倉教授殺しは、山神完一助教授のやったことです〉
文面はこれだけ。
「簡単だと思ったわよ、これくらい。ところが、捜してみると、必要な文字がないの。ねえ、それだけ見付けて貼りつけるのに、ゆうべ一晩かかったのよ」
「ご苦労さま」
と、聡子は笑って言った。
コーヒーが来たので、急いでその手紙のファイルを封筒へ戻す。
「——その手紙に、片倉先生と山神先生の奥さんの写真を入れて送るの」
「本気にするかしら?」
「大丈夫。手紙なんかいくらでも、いたずらで作れるけど、写真は間違いなく本物よ」
「そうね……」
これを警察へ送る。——そして、どうなるだろう?
聡子は、由布子への対抗意識もあって、ここまで来てしまったが、何といっても、一抹の不安はある。
「ね、由布子。——もし、これで本当に山神先生が犯人ならいいけど……。もし、そうじゃなかったら?」
「調べりゃ分るわよ、そんなこと」
と、由布子はアッサリしたもので、「私だって、百パーセント、そうだと言ってるわけじゃない。でも、手がかりだけでも与えなきゃ、調べもしないでしょ? もし、犯人でなきゃ、それはそれでいいじゃない」
由布子の言い方は、いかにも自信に満ちている。
聞いていて、聡子も何となく安心してしまうのだった。
「そうね。——じゃ、いつ出すの?」
「そりゃ、せっかく作ったんだもの。すぐに、よ」
と、由布子は言った。
「——たいして役には立てないわね」
と、智子は言った。
「いや、そんなこと……」
と、内田三男は首を振った。「君が犯人を知ってるなんて思わないさ」
公園の中は静かだった。
「ねえ……。良子の言ってた、片倉先生のこと。何のことか、分る?」
と、智子が訊くと、三男は少し厳しい顔になった。
「まあ……。君は何も知らない方がいい」
「どういうこと?」
「いや、何でもない」
と、三男は首を振った。
「そんな……。私にだけしゃべらせて、ひどいわ」
と、智子は本気で腹を立てた。
「怖いなあ」
と、三男は苦笑して、「良子は、君のこと、凄《すご》くやさしい子だと言ってたよ」
——やさしい。そう、やさしいわよ。人を殺して、平気でいられるくらいね。
「それとこれとは別でしょ」
三男は、穏やかな視線で智子を見ていたが、
「その内、また話す機会があると思うから」
と言って、立ち上った。
「でも——」
「さあ、送るよ。こんな所まで連れて来たからね」
残念ながら、今は何も話してくれそうにない、と智子にも分った。
「じゃ、私、スーパーへ行くところだったの。そこまで送って」
「いいとも。後ろに乗って」
——また、風を切って、オートバイが走り出す。
しっかりと内田三男の背中に耳を押し当てながら、二度目の余裕で、智子はその感覚を楽しんでいた。
ゆうべの、あの奇妙なFAXのことも、忘れてしまいそうだった。
そしてまたいつか、それも近い内に、この若者に会いそうな、そんな気がする……。