聡子は暗くなるのを待っていた。
山神の家の近くには、カメラマンや記者の姿がチラついていたし、ライトバンが、じっと番犬よろしく玄関の正面で待ち構えている。
何かあれば、パッと飛び出してくるのだろう。
さりげなくその前を素通りして、聡子は、暗くなるまではとても入れない、と思った。
いや、暗くなってもあの記者やカメラマンたちは、あそこを動かないだろう。
ともかく、待つしかない。——聡子は一旦山神の家を離れて、少し商店街をぶらついて時間を潰した。暗くなるまでが、いやになるくらい長く感じられる。
「——もういいか」
お茶を飲んで、外がすっかり暗くなると、立ち上った。
山神の家の前まで来ると、相変らず車が停っていて、タバコをふかしながらカメラを下げている男たちの姿が目に入る。
聡子は山神の家の前を足早に通り過ぎると、チラッと後ろを振り返り、家のわきへ回った。服がこすれそうな狭い塀の隙《すき》間《ま》を抜けて、庭の方へ回る。
目につかないのはいいが、真暗で、勝手口がどこだったか、分らない。何かペンライトでも持って来るんだった、と思ったが、今さら戻る気にもなれない。
手探りで勝手口の戸を捜す。——これかしら?
力をこめて押すと、少しきしんで、戸が開いた。ホッとして、聡子は庭へ入った。
前に由布子と入ったときは、昼間だったのだが、今は足下も見えないほど暗い。家に明りが見えないのだ。明りが点いていれば、少しは庭先へも洩《も》れてくるだろうが。
留守? いや、そんなことはないだろう。
もし出かければ、あのカメラマンたちの目に止らないわけがない。
つまずかないように、そろそろと前へ進んで……。突然、すぐわきで、庭木が揺れる音がした。ザザッ、と何かの動く気配。
心臓が止るかと思った。音のした方へ振り向いて、
「——誰?」
と、声をかける。
普通にしゃべったつもりでも、ほとんど囁《ささや》くような声になっていた。
もちろん返事はなかった。そして、何の物音もしない。
しかし、聡子ははっきりと感じた。——誰かがいる。あの揺れ方は、風や犬猫ではない。人が動いて、つい庭木に触れてしまったのだ。
そして今、その誰かは、じっと息を殺し、身動き一つせずに聡子の様子をうかがっている……。
聡子は汗がふき出してくるのを感じた。こっちが動くか、向うが先か。
耳に神経を集中していると、ジーンと静寂そのものが音を発してくる。現実の音なのか、それとも聞こえているような「気がする」だけなのか。
——何分間、そうして動かずにいただろう。汗がつっとこめかみから伝い落ちて行く。
もうだめだ! 聡子は、そっと息を吐《は》き出すと、じりじりと山神の家の建物の方へ、動き出した。
庭へ出るガラス戸に手をかけると、スルスルと開いた。——少し迷ったが、上ってしまうことにした。
靴を脱ぎ、上り込むと、戸を閉める。
ホッと息をつくと、同時に庭先で黒いものが動くのを、聡子は見た。見たといっても、どんな姿だったかも全く分らないままだったが——。
誰かいたことだけは確かである。しかし、聡子は、とても追いかけようなどという気にはなれなかった。
その「誰か」は、あの勝手口から出て行ったのだろう。——一体誰だったのか。聡子には見当もつかなかった。
「——奥さん」
と、聡子はそっと言った。「すみません。奥さん……。いらっしゃいますか」
勝手に上り込んで、向うは仰天するだろうが、正面からは入れないし、こうするしかなかったのである。
しかし、おかしい。家の中は真暗である。もしかすると、今、庭から出て行ったのがそうだったのか?
「奥さん……。失礼します」
手探りすると、明りのスイッチが見付かった。カチッと押すと、見憶えのある茶の間が現われて、ともかくホッとした。
「奥さん。いらっしゃいますか」
台所を覗《のぞ》き、そして二階へと上ってみる。
二階も暗いままだった。いるとすれば、二階だろう。
人目をさけて、二階で寝ているのかもしれない。
「奥さん。おいでですか。——山神先生に習ってる学生です。——奥さん」
声をかけ、しばらく待ってみたが、何の反応もない。やはり留守なのだろうか。
聡子は、由布子と二人で忍び込んだときのことを思い出していた。今考えても、恥ずかしさで赤くなる。
何という無茶なことをしたのだろう。結局、自分のしたことは、何の罪もない奥さんを苦しめただけでしかなかった。
ためらって、しかし、ここまで来て帰るわけにもいかず、聡子は、そっと寝室の戸を開けた。
山神先生の部屋だ。明りを点けたが、何もなく、誰もいなかった。
もう一つの部屋だろうか?
聡子は、もう声をかけずに、隣の部屋の戸を開けた。——暗い。
明りを点けるのに、少し手間どったが、チカチカと蛍光灯がまたたいて、青白い光が一杯に広がる。
それは、風もないのに、ゆっくりと揺れていた。
椅子が倒れている。そして、ギイ、ギイ、ときしむ音をたてているのは、天井の、照明器具を下げるためのフックから下った細い縄だった。
縄の先でゆっくりと揺れながら回転しているのは、山神の妻の体だった……。
何時間もたっていたかのようだ。
聡子は、その場に呆《ぼう》然《ぜん》と突っ立っていたが……。思いの他、ショックは小さかった。
いや、正直なところは、まだショックを感じられなかったのだろうが。しかし、いくらかは、この光景を予期していたのかもしれない。
「——どうしよう」
と、聡子は呟《つぶや》いた。「救急車……。一一九番だわ」
いつの間にか、階段を下りて、電話をかけていた。——どこへ? どこへかけてるんだろう、私?
「——はい。小西です」
智子が出た。うちへかけたんだわ。聡子はぼんやりと受話器を手にしている。
「——もしもし?——小西ですけど。もしもし?」
「智子……」
「お姉さん? 何だ、びっくりした! どうしたの?」
「——死んでる」
「え?」
少し間があった。「今、何て言った?」
「自殺してる」
「お姉さん……。何のこと? 今、どこなの!」
姉の様子が普通じゃないと気付いたらしい。智子は、少し大きな声を出した。
「返事して!」
「山神……先生の家」
「山神先生の?」
「奥さんに……謝りたかった……。でも、来てみたら……首を吊《つ》って——」
「お姉さん!」
智子が声を上げた。「今、山神先生の家から?」
「うん……」
「人はいないの? 近くに誰か」
「表に……カメラマンとか」
「出られる? 見られないようにして」
「たぶん……。勝手口があるの。そこから入ったんだけど」
「よく聞いて」
と、智子は言った。「今すぐ、私、一一〇番する。そっちへパトカーと救急車が行くと思うけど、その前にそこを出て! 分った?」
「うん」
「切ったらすぐに出てね。いいわね?」
「分ったわ」
聡子は妹の言葉で、やっと少し立ち直っていた。「奥さんを——下ろした方がいいかしら」
「助かるとは思えないけど——。いいわ、表にTV局の人とか、いるんでしょ。私、どこかのTV局にかけて、中へ入ってもらう。名前言わないから。じゃ、切って。すぐそこを出るのよ」
「うん」
聡子は、智子の落ちつきに、ほとんど感動していると言っても良かった。
電話を切って、明りはそのままに庭へ下りる。中の明りが庭先を照らして、勝手口から出るのは難しくなかった。
塀の間を抜けて通りへ出ると、カメラマンや車が見える。
智子の行動は素早かったようだ。様子を見ていると、すぐに車の中から男が一人、飛び出して来た。
「おい! 通報だ! 中で奥さんが首を吊ってるって」
一瞬の後、ワッと男たちが玄関へ殺到した。古ぼけた玄関など、開けるのは苦もない。男たちが中へ駆け込んで行く。
聡子は、歩き出した。
「早くしろ!」
という声が中から洩《も》れてくる。
家の前を通り過ぎる聡子に注意を向ける者はいなかった。
足を速め、山神の家から遠ざかると、どこからかサイレンが近付いて来るのが、聡子の耳に届いた。
そのとき、初めて気付いた。——涙が、頬《ほお》を伝い落ちていることに。
「——どうかしたの?」
と、帰宅した聡子を見て、母の紀子が言った。
「別に。どうして?」
「顔色が良くないわよ」
「そう? 少し疲れてるの」
と、聡子は言った。
「お帰りなさい」
智子が二階から下りて来る。「——お姉さん、相談があるんだ。待ってたの」
「そう」
智子の気のつかい方が嬉《うれ》しかった。
「何か召し上ります?」
と、やす子が出て来て言った。
「いいわ」
と、聡子は首を振ったが、
「何か食べた方がいいよ」
と、智子は小声で言って、「やす子さん、上の部屋へ持って来て」
「はい。じゃ、食べやすいように、おにぎりにでもしましょうか」
「いいわね」
智子に促されて、聡子は階段を上って行った。
「——大丈夫?」
智子の部屋へ入り、聡子は、カーペットにペタッと座り込んでしまった。
「何とかね……。もう泣くだけ泣いた」
「大変だったね」
智子は何も訊かなかった。好きなCDをかけて、聴いている。——聡子は、妹の背中をじっと眺めていた。
いつの間に、この子はこんなに大人になったんだろう? 自分よりずっと落ちついているようにさえ見える。
「——すぐ、救急車も来たわ」
と、聡子は言った。「その前に、カメラマンとか、何人かが家の中へ入ってった」
「助かったかしら」
「さあ……。私が見付けてから、どれくらいたってたか、分らないから」
「そりゃそうだよね。——お姉さん」
「うん?」
「おにぎり来たら、一つちょうだいね」
聡子は、ちょっと呆《あき》れて、それから笑った。
「いいわよ。一つだけね」
二人は顔を見合せた。
やす子が、五分もすると、おにぎりと皿に盛ったおかずを盆にのせて持って来てくれた。
聡子は、とても食欲などないと思っていたが、自分でもびっくりするほど食べた。
智子もおにぎりを二つ食べたし……。ともかく、お互いに、自分たちがまだ若いということを、再確認したようだった。
「——そんなことしたの」
智子は、聡子が由布子と二人で山神の家へ忍び込んだのを聞いて、目を丸くした。
「とんでもないことだったわ」
と、聡子はため息をつく。「そのせいで、奥さんが自殺したとしたら……」
「でも——仕方ないじゃない。もうすんじゃったこと」
と、智子は言った。「じゃ、匿名の手紙出したのも、お姉さんたちね」
聡子はびっくりした。
「どうして知ってるの、そんなこと?」
「私、刑事さんと知り合いになったの」
と、智子が言った。「後でゆっくり話してあげる。ね、その前に、手紙に山神先生の奥さんと、片倉先生の写真が入ってたって……」
「うん。見付けたの。山神先生の部屋で」
「山神先生の部屋? じゃ、写真とったのは、先生?」
「そうでしょ、きっと」
智子は、何やら考え込んでいる。
「——智子。あんたも何か関り合ってるの?」
聡子の言葉に智子は目をそらして、
「ちょっとした好奇心よ」
と、言った。「お風呂、どっちが先に入る?」