あまり、快《かい》適《てき》なドライブとは言えなかった。
ともかく、山道で、カーブは多いし、道は舗《ほ》装《そう》していないので、でこぼこだし。
加《くわ》えて、津田の車が、あまり上《じよう》等《とう》といえないせいもあった。
「車なら二時間かね」
と、駅《えき》前《まえ》の交番で聞かされて、走ること、既《すで》に二時間半。——どうなってるんだ!
あんまりガタガタ揺《ゆ》れる道というのに、都《と》会《かい》人《じん》たる津田は慣《な》れていない。
えらく疲《つか》れて、小休止することにした。
車をわきへ寄せて、一《ひと》息《いき》つく。何だか、体中の関《かん》節《せつ》が、バラバラになりそうだった。
タバコをくわえて火を点ける。車から出て、腰《こし》を伸《の》ばし、それから、ウーンと伸びをした。
その拍《ひよう》子《し》に、口からタバコが落《お》ちてしまった。
「畜《ちく》生《しよう》!」
靴《くつ》でギュッと踏《ふ》みつぶして、津田は少し道を歩いて行った。
山の中——本当に、両《りよう》側《がわ》はすぐに深《ふか》い森で、たちまち暗《くら》く、夜の世《せ》界《かい》へ入って行く。
じっと耳を澄《す》ましても、耳に入るのは、鳥の声と、風の鳴《な》らす枝《えだ》のざわめきだけだ。
凄《すご》い所《ところ》に来たもんだな、依子も。
しかし、一体何があったというのだろう?
母親の不《ふ》安《あん》を、単《たん》なる勘《かん》違《ちが》いだと済《す》ませることは易《やさ》しい。
かけた学校が違《ちが》っていたのだろうとか……。母親は、ともかくそう若《わか》くもないのだから。
しかし、あの電話の声は——あれは、津田が、自分の耳で聞いたものだ。
そして、あれが本当に依子の声なら、母親の話と合わせて、やはり、依子に、何か危《き》険《けん》が迫《せま》っているのだとしか考えられない。
「俺《おれ》だって危《き》険《けん》は迫《せま》ってるけどな」
と、津田は独《ひと》り言を言った。
何しろ、二、三日休みをくれと言った津田を、課《か》長《ちよう》は、頭ごなしに怒《ど》鳴《な》りつけたものだ。——帰ったら、もう席《せき》がない、なんてこともありうる。
しかし、依子のことを考えると、じっとしてはいられなかった。それは、津田自身にも、不《ふ》思《し》議《ぎ》なくらいだった。
依子。——俺が依子を守《まも》ってやらなくちゃ。なぜか、津田は、そう思うようになっていたのである。
依子とは、恋《れん》愛《あい》関《かん》係《けい》にあったわけでもないし、もちろん珠江のように、ホテルで抱《だ》き合ったわけでもない。それでも、なぜか、気にかかるのだ。
妹のように、か?
そうかもしれない。——以《い》前《ぜん》は、確《たし》かに、兄《きよう》妹《だい》のような仲《なか》だった。
しかし、今、依子のことを思っている、この気《き》持《もち》は、やはり微《び》妙《みよう》に違《ちが》っている。
女としての依子を、心《しん》配《ぱい》しているのだ。今、ここに依子がいれば、抱《だ》きしめてやりたい、と思った。
さて、行くか。
あまりのんびりしていると、着《つ》く頃《ころ》には暗《くら》くなってしまう。
車の方へ戻《もど》ろうと、津田はクルリと向《む》き直《なお》った。それが二、三秒《びよう》遅《おそ》かったら、確《かく》実《じつ》に、津田は死《し》んでいただろう。
目の前に、女が、斧《おの》を振《ふ》り上げていたのだ。重《おも》い斧が真《まつ》直《す》ぐに振り降《お》ろされて来るのを、津田は危《あや》うくかわした。
「何だ! おい、何するんだ!」
やっと我《われ》に返《かえ》ったときには、女が、斧を持ち直していた。
髪《かみ》を振り乱《みだ》して、服《ふく》はグレーのスーツだが、汚《よご》れ切って、あちこちかぎ裂《ざ》きができている。足は裸足《 は だ し》だ。
目を見《み》開《ひら》いて、荒《あら》く息《いき》をつきながら、再《ふたた》び津田の方へと向《むか》って来た。
「おい、何だよ!——やめろ! 危《あぶ》ないじゃないか!」
津田はあわてて逃《に》げ出した。女が、斧《おの》を手に後を追《お》う。
しかし、女の方はかなり疲《つか》れているようだった。斧も重《おも》いのだろうが、両《りよう》手《て》で、持《も》っているのがやっと、という感《かん》じである。
「えい!」
と、かけ声と共《とも》に振《ふ》り回した斧は、車のボディにガン、と食い込《こ》んだ。
だが、そのショックで、女の手が斧から離《はな》れ、女はよろけて尻《しり》もちをついてしまった。
津田は、やっと反《はん》撃《げき》の余《よ》裕《ゆう》ができて、斧をまず取《と》り上げ、傍《そば》へ、放《ほう》り投《な》げた。
女が、いきなり、津田の足《あし》へしがみついて来た。
「おい、何するんだ! やめないか!」
津田もよろけて、尻《しり》もちをつく。
初《はじ》めて、女の顔をまともに見た。——土や埃《ほこり》で汚《よご》れているが、まだ若《わか》い女のようだ。
待《ま》てよ、この顔は……。
女が両《りよう》手《て》をのばして、飛《と》びかかって来た。津田は仰《あお》向《む》けに引っくり返《かえ》り、女がのしかかって、首を絞《し》めようとするのを、何とか押《お》し戻《もど》した。
「待て!——やめろ!——依子! 依子だろう!」
と怒《ど》鳴《な》る。
ハッ、と女の手が止った。——ポカンとして、津田の顔を眺《なが》める。
「津田……さん?」
かすれた声が出て来た。
「そうだよ! 僕《ぼく》だ!」
「ああ……津田さん……来てくれたのね!」
依子の目から大《おお》粒《つぶ》の涙《なみだ》がこぼれた。
「しっかりしろよ。どうしたんだ!」
「私《わたし》——私——」
依子は体を震《ふる》わせた。
「どうした!」
津田が起《お》き上って、依子を抱《だ》いてやる。
津田の腕《うで》の中で、依子がぐったりと崩《くず》れた。
「しっかりしろ!——依子!」
依子は気を失《うしな》っていた。
津田は、呼《こ》吸《きゆう》を整《ととの》えた。——これが事《じ》実《じつ》だと信《しん》じるまでに時間がかかった。
本当だ。ここにいるのは依子なのだ。
何があったのか分らないが、ともかく、こうして津田の腕《うで》の中にいる。
津田は何とか依子を車に乗《の》せた。後《こう》部《ぶ》座《ざ》席《せき》に寝《ね》かせてやる。
相《そう》当《とう》に疲《ひ》労《ろう》困《こん》憊《ぱい》しているようだ。入《にゆう》院《いん》させた方がいいかもしれない。
津田は、ちょっとためらったが、結《けつ》局《きよく》、道を戻《もど》ることにした。
入《にゆう》院《いん》させるのなら、ちゃんとした所《ところ》でなくては。少し時間がかかっても、大きな町へ出よう、と思った。
結《けつ》果《か》的《てき》には、その方が楽《らく》だ。
津田は、車をUターンさせ、でこぼこの山道を戻《もど》って行った。
「大分、体力を消《しよう》耗《もう》していますね」
と、医《い》師《し》は言った。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》でしょうか」
と、津田は訊《き》いた。
「特《とく》に危《あぶ》ないということはありませんよ」
津田はホッと息《いき》をついた。
「じゃ、ずっと眠《ねむ》りつづけているのは……」
「疲《つか》れている、ということですね、要《よう》するに」
「はあ……」
「それに、胃《い》も空っぽで。——どうやら、ここ何日か、ろくに食べていなかったようですよ」
津田は、思わず、ベッドで眠《ねむ》り続《つづ》けている依子の方を見た。
「今日はもう夜だから、明日、また精《せい》密《みつ》検《けん》査《さ》をしてみましょう。一《いち》応《おう》点《てん》滴《てき》で、栄《えい》養《よう》を入れていますから」
「よろしく」
津田は頭を下げた。
——夜になって、やっとこの病《びよう》院《いん》へ辿《たど》りついたのだった。
気が気ではなかった。何しろ、依子は、眠り続けていて、あのでこぼこ道でも、一《いち》度《ど》も目を覚《さ》まさなかったのである。
これは、よほどの重《じゅう》態《たい》か、と、半ば覚《かく》悟《ご》して、ここへ運《はこ》び込《こ》んだ。
一応安《あん》心《しん》である。——病院も総《そう》合《ごう》病院で、真《ま》新《あたら》しく、気《き》持《もち》のいい所《ところ》だ。
ただ、ちょっと痛《いた》かったのは——といっても懐《ふところ》の方で——個《こ》室《しつ》しか空いていなかったので、ひどく高くつくことだった。
今夜は仕《し》方《かた》ない。ここで寝《ね》るか、と津田は思った。
場《ば》所《しよ》がないことはない。来《らい》客《きやく》用のソファがあって、何とか横《よこ》になれる大きさだ。
それにしても……。
津田はソファに腰《こし》をおろし、眠《ねむ》っている依子の横顔を眺《なが》めていた。
何があったのだろう?
依子の体には、いくつもすり傷《きず》や、小さな引っかき傷があったらしい。山の中を歩き回っていたのか。
しかし、小学校の教《きよう》師《し》がなぜ山の中をあんな格《かつ》好《こう》で歩き回っていたのだろう?
「助けて……殺《ころ》される」
と言ったのは、なぜか。
どうやら、かなり複《ふく》雑《ざつ》な事《じ》情《じよう》がありそうだ。
津田は欠伸《 あ く び》をした。——少し眠気がさして来たのだ。
やれやれ、体がガタガタだよ。——だが、考えてみれば、危《あや》ういところで、依子に殺《ころ》されそうだったのだ。
いくらガタガタになっても、斧《おの》で頭を割《わ》られるよりましというものだ……。
ソファで横《よこ》になって、ウトウトしかけた津田だったが、
「——そうだ」
と起《お》き上った。
依子の母へ連《れん》絡《らく》していない。——もう十二時を回っているが、電話しておいた方が、安《あん》心《しん》するだろう。
津田は十円玉と百円玉を何《なん》枚《まい》か持って、廊《ろう》下《か》に出た。
赤電話が、階《かい》段《だん》のわきにあった。——病院の夜は静《しず》かである。
十円玉の落《お》ちる音も、気がひけるほど大きく聞こえる。
「ああ、夜中にすみません、津田です。——ええ、依子さんに会いましたよ。——いや、実《じつ》はそれが——」
手《て》短《みじ》かに事《じ》情《じよう》を説《せつ》明《めい》し、「医《い》者《しや》も、心《しん》配《ぱい》ないと言ってますから。——ええ、明日、もう一度、お電話します」
津田は電話を切った。最後の一《いち》枚《まい》の十円玉が落《お》ちた。
「さて、寝《ね》るか」
と、伸《の》びをして、病《びよう》室《しつ》の方へ戻《もど》りかけたとき、ガラスの砕《くだ》ける音が響《ひび》き渡《わた》った。
あれは——依子の病室だ!
津田は、病室の中へ、飛《と》び込《こ》んだ。
依子が、病室の隅《すみ》で震《ふる》えている。床《ゆか》に、点《てん》滴《てき》のびんが砕《くだ》け散《ち》っていた。
「——依子。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」
「津田さん……」
依子は、震える声で言った。「本当なのね?」
「何が?」
「私《わたし》、ここにいるのね。——津田さんと一《いつ》緒《しよ》に」
「そうだとも」
津田は、かがみ込《こ》んで、依子の肩《かた》に手を置《お》いた。依子が、その手に頬《ほお》を押《お》しつける。
「本当なんだわ……」
依子は、何《なん》度《ど》も何度も、深《ふか》く息《いき》をついた。
「さあ。——もう、今日は寝《ね》るんだ。思い切り休んで」
依子は肯《うなず》いたが、動《うご》こうとはしなかった。
「ねえ……」
「何だい?」
「そばにいてくれる?」
「もちろんさ」
「私……殺《ころ》される」
と、依子は言った。
訊《き》いてみたかったが、今はその時《じ》期《き》じゃない、と津田は思った。
ドアが開いて、看《かん》護《ご》婦《ふ》が入って来た。
「まあ、どうしたの?」
「すみません。ちょっとうなされたらしくて……」
「待《ま》ってね。ガラスで、足を切ると危《あぶ》ないから——」
いやな顔もせずに、看《かん》護《ご》婦《ふ》は片《かた》付《づ》け始《はじ》めた。
それを見ている内《うち》に、依子の表《ひよう》 情《じよう》に、平《へい》静《せい》さが戻《もど》って来た。
「教《きよう》師《し》らしい」
と、いつも津田がからかっていた、あのきりっとした顔に、戻ったのだ。
「さあ、横《よこ》になってて。——今、新しいのと換《か》えるわ」
看護婦に言われて、依子は、
「すみません」
と、頭を下げた。
おとなしくベッドに入ると、津田を見て、
「——どうして来たの?」
と、訊《き》いた。
「お母さんの頼《たの》みさ。それと、君《きみ》の電話」
「母は……」
「ここにいると、さっき知らせたよ」
「どうもありがとう。——お仕《し》事《ごと》、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なの?」
「それほど重《じゆう》要《よう》なポストにいるわけでもないからね」
と、津田が言うと、依子は、やっと笑《え》みを見せた。
「そうそう。笑《わら》うのが一番だ」
依子は天《てん》井《じよう》を見ながら、
「明日、警《けい》察《さつ》へ行くわ」
と言った。
「まだ無《む》理《り》だよ」
「でも、ともかく話をしなきゃ!」
と、強い口《く》調《ちよう》で言ってから、依子は、大きく息《いき》を吐《は》き出した。「誰《だれ》も、信《しん》じてくれないかもしれないけれど……」
——看《かん》護《ご》婦《ふ》が点《てん》滴《てき》の新しいびんをセットして行くと、ほどなく依子は眠《ねむ》りに落《お》ちた。
その寝《ね》顔《がお》は、やっとごく普通の、平《へい》和《わ》な眠《ねむ》りを思わせるものになっていた……。