雨の日だった。
依子は、雨に打《う》たれる校《こう》庭《てい》を、ぼんやりと眺《なが》めていた。
もちろん、こんな日に遊《あそ》んで行く子《こ》供《ども》もいないので、残《のこ》っている必《ひつ》要《よう》はないのだが、何となく、本を見たりして時間を過《すご》していた。
水谷はとっくに帰っていた。
依子も、特《とく》別《べつ》に用のない日は、いつも下《げ》宿《しゆく》へ早々に引き上げるのが常《つね》だったが、このところ、何だか急《いそ》いで帰る気になれないのだ。
下宿にいても、落《お》ちつかない。思い過しだとは思うのだが、何となく、いつも見《み》張《は》られているような気がして仕《し》方《かた》ないのである。
神《しん》経《けい》が休まらないのだ。
あの多江——栗原多江という少女は、どこに住《す》んでいるのだろう?
誰《だれ》かに訊《き》いてみたいと思うのだが、一体誰に、となると——迷《まよ》ってしまう。
河村や、金山医《い》師《し》のような人まで信《しん》じられないということになると、町中の誰もが信じられない。
といって、このまま放《ほう》っておくわけにもいかない。
日がたつにつれ、何かあったと立《りつ》証《しよう》するのは困《こん》難《なん》になろう。しかし、ただ、もっと大きな町の警《けい》察《さつ》へ行って話をしたところで、一体誰が信じてくれようか?
何の証《しよう》拠《こ》もない話なのだ。
依子は、ため息《いき》をついた。——いつまで、こうしていても仕《し》方《かた》ない。
下《げ》宿《しゆく》へ帰ろうか……。
廊《ろう》下《か》で、タタ、と足音がした。
「誰?」
と、依子は声をかけた。
返《へん》事《じ》はない。——誰《だれ》か、子《こ》供《ども》が残《のこ》っていたのかしら?
依子は、職《しよく》員《いん》室《しつ》を出て、廊《ろう》下《か》を見回した。誰もいない。
しかし、確《たし》かに、足音がこっちの方へと……。
歩いて行って、廊下の角《かど》へ顔を出したとたん、何か袋《ふくろ》のような物《もの》がスッポリと頭にかぶせられてしまった。
同時に凄《すご》い力で後ろから抱《だ》きつかれて、手が上らなくなる。一人ではない。
依子は必《ひつ》死《し》にもがいた。——下《した》腹《はら》をいやというほど殴《なぐ》られた。
呻《うめ》いて、依子は体を折《お》った。気が遠《とお》くなる。
——誰? 一体誰が——?
依子は、そのまま床に突《つ》っ伏《ぷ》して、気を失《うしな》った。
そして——冷《つめ》たさに身《み》震《ぶる》いして、ハッと意《い》識《しき》が戻《もど》った。
激《はげ》しく、雨が当っている。
依子は、痛《いた》みよりも、冷たさとショックで身を震《ふる》わせた。——校《こう》庭《てい》だ。
雨の降《ふ》りしきる校庭の、真《まん》中《なか》に、放《ほう》り出されていたのだ。しかも、依子は、裸《はだか》だった。
服《ふく》を全《ぜん》部《ぶ》脱《ぬ》がされて、投《な》げ出されていたのだ。依子は、周《しゆう》囲《い》を見回した。
それから、夢《む》中《ちゆう》で、校《こう》舎《しや》へ向《むか》って走った。校舎の中へ飛《と》び込《こ》むと、そのまま床《ゆか》に座《すわ》り込んで、すすり泣《な》いた。
「——先生」
と呼《よ》ぶ声に、顔を上げる。
ジーパン姿《すがた》の、栗原多江が、そこに立っていた。
「どうしたの?」
「私《わたし》——誰《だれ》かに——」
言《こと》葉《ば》が出て来ない。寒《さむ》さと恐《きよう》怖《ふ》で、体が震えている。
「ひどいことするのね!——服はどこ?」
依子は首を振《ふ》った。
「待《ま》ってて」
と、多江は廊《ろう》下《か》を駆《か》けて行ったが、途《と》中《ちゆう》、職《しよく》員《いん》室《しつ》の中を覗《のぞ》くと、
「ここにあるわ、きっとこれよ」
と声を上げた。
多江が持《も》って来たのは、確《たし》かに、依子の服《ふく》だった。
「でも——ともかく体をタオルか何かで拭《ふ》かないと。びしょ濡《ぬ》れよ」
「タオル……私《わたし》の机《つくえ》の引出しにあるわ」
「持って来てあげる」
多江が走って行く。
依子は、服を体に押《お》しつけるようにして、何《なん》度《ど》も息《いき》をついた。
多江が、タオルで、依子の体をこすってくれて、依子は少し体が暖《あたた》かくなって来た。
それから服を身につける。——髪《かみ》も濡れていたが、これはどうにもならない。
「一体何があったの?」
多江に訊《き》かれて、依子は、襲《おそ》われたときのことを話した。
「でも誰《だれ》が……」
と、依子は息《いき》をついた。「こんなひどい目に、どうして遭《あ》わなきゃいけないの?」
「待《ま》って。さっき、先生の服《ふく》を見《み》付《つ》けたとき、何か紙が上にのっかってたの。たぶん床《ゆか》に落《お》ちてるわ」
「紙が?」
依子は、一《いつ》緒《しよ》に職《しよく》員《いん》室《しつ》の床を捜《さが》した。それはすぐに見付かった。
白い紙に、金《かな》釘《くぎ》流《りゆう》の字で、
〈余《よ》計《けい》なことはするな〉
とだけあった。
依子は椅《い》子《す》にかけると、その紙を手の中で握《にぎ》り潰《つぶ》した。——怒《いか》りと恥《は》ずかしさで、体が震《ふる》えた。
「——先生、何かされたの?」
と、多江が訊いた。
「いえ——それはないわ。あれば、分るでしょう」
「じゃあ、これは要《よう》するに脅《おど》しなのね」
「ひどいわ!」
悔《くや》し涙《なみだ》が、依子の頬《ほお》を伝った。
いずれ、襲《おそ》ったのは男、二人か三人だろう。その男たちは、自分を裸《はだか》にして、散《さん》々《ざん》面《おも》白《しろ》がって眺《なが》めたに違《ちが》いない。
そう思うと、悔しくてたまらなかったのである。
「いざとなりゃ、何でもできるぞ、っていう警《けい》告《こく》なのよ、きっと」
と、多江は言った。「私《わたし》と一《いつ》緒《しよ》だったこと、誰《だれ》かに言ったの?」
「いいえ」
と、依子は首を振《ふ》った。
「でも、私があのバスでよく帰ることは、知ってる人もいるしね」
「あの日、河村さんの奥《おく》さんと一緒だったわ」
「ああ、そうか。往《い》きで、会ってたんだわ」
「きっと、あの人が、話したのね」
多江は黙《だま》っていた。
職《しよく》員《いん》室《しつ》にいる、ということが、依子を落《お》ちつかせた。教師に戻《もど》れた、というべきかもしれない。
「——よく来てくれたわ」
と、依子が言った。
「迷《まよ》ったんだけどね」
と、多江は首をかしげた。「でも、ちょうどよかった」
「本当に。助《たす》かったわ」
依子は、校《こう》庭《てい》の方へ目をやった。——信《しん》じられない。
悪《あく》夢《む》のようだった。
「私《わたし》に、話しに来てくれたの?」
と、依子は訊《き》いた。
「そうだけど……」
多江はためらって、「でも、やっぱりやめた方がいい。これ以《い》上《じよう》、首を突《つ》っ込《こ》むと、先生、今度は、こんなことじゃ済《す》まないかもしれないよ」
依子は、多江の目をじっと見つめた。
「これで、私《わたし》が泣《な》いて逃《に》げ出すと、向うが思ってるんだったら、残《ざん》念《ねん》ながら、間《ま》違《ちが》ってるわ」
と、きっぱりと言った。「私《わたし》、見かけほど弱《よわ》虫《むし》じゃないのよ」
多江は微《ほほ》笑《え》んだ。
「見かけも、弱虫じゃないよ」
「失《しつ》礼《れい》ね」
と、依子も笑った。
やっと、それでショックから立ち直《なお》った、という気がした。
「——先生、いい人ね」
と、多江はしみじみと言った。「だから、危《あぶな》い目に遭《あ》わせるのはいやだわ。悪《わる》いこと言わない。この町から出た方がいいわよ。小学校の先生なんて、いくらでも仕《し》事《ごと》、あるでしょ?」
「いやよ。出て行くもんですか」
と、依子は首を振《ふ》った。
「頑《がん》固《こ》ね」
「そう。——それだけが取《と》り柄《え》なの。昔《むかし》から、根《こん》気《き》だけはいいって言われて育《そだ》ったんだから」
多江は、まだしばらく迷《まよ》っているようだったが、やがて、ため息《いき》をつきながら、肯《うなず》いた。
「分ったわ。でも——今日、ここで話をしても、きっとよく分らないと思うの。今《こん》度《ど》、出られる日はない?」
「土曜日の午《ご》後《ご》はどう?」
「私《わたし》はいいけど」
「私、本校に行く用があるの。少々長引いても、構《かま》わないわ」
「じゃ、そのときに、案《あん》内《ない》してあげる」
と多江は立ち上った。
「もう行くの?」
「家に黙《だま》って出て来たから、心《しん》配《ぱい》してるといけないわ」
「そう……」
ちょっと心《こころ》残《のこ》りだったが、無《む》理《り》強《じ》いはしないことにした。「——ねえ、多江さん」
「え?」
職《しよく》員《いん》室《しつ》を出ようとしていた多江は振《ふ》り向《む》いた。
「案《あん》内《ない》してくれる、って、どこへ?」
「〈谷〉よ」
「〈谷〉?」
「そう。来れば分るわ。じゃあ、土曜日に」
依子は、多江が、傘《かさ》をさして、裏《うら》手《て》の道へと消《き》えて行くのを見《み》送《おく》った。
谷……。
谷というのは、どこのことだろう?
依子は、職員室を、いつもの通り片《かた》付《づ》けると、鍵《かぎ》をかけて出た。
傘《かさ》をさして、校《こう》庭《てい》に出る。
あんなことが、現《げん》実《じつ》にあったのだろうか?
——しかし、疑《うたが》いようがない。
この濡《ぬ》れた髪《かみ》は、いやでも、それを証《しよう》拠《こ》立《だ》てている。
あんなことまでして、一体何を恐《おそ》れているのだろう。守《まも》るべき秘《ひ》密《みつ》があるのは間《ま》違《ちが》いないが、それは何なのか?
大沢和子の死《し》。それは、もう疑《うたが》いようのないものになった。
依子は、学校を出た。
——下《げ》宿《しゆく》に帰ると、ちょうど、電話がかかっていた。
「お母様からですよ」
「すみません」
と、依子は受《じゆ》話《わ》器《き》へ手を伸《の》ばした。「——あ、お母さん? 私《わたし》よ」
「ああ、依子。どうしたの?」
「どうした、って……」
依子は面《めん》食《く》らった。「そっちが電話して来たんじゃないの」
「だって、お前が電《でん》報《ぽう》を打《う》ってよこしたからじゃないの」
「電報を?」
依子はわけが分らなかった。「どんな電報?」
「急《いそ》いで帰るからって……」
「帰る? 私《わたし》が?」
「そうじゃないの?」
依子は受《じゆ》話《わ》器《き》を握《にぎ》りしめた。
「帰らないわ。何かの間《ま》違《ちが》いよ」
と、依子は、きっぱりと言った。