一時過《す》ぎ、依子は、レストランに入って行った。
いつもなら、勤《つと》め人も職《しよく》場《ば》に戻《もど》って、店《てん》内《ない》が空いて来る時間だろうが、今日は日曜日だ。却って、混《こ》み出しそうな気《け》配《はい》だった。
しかし、混むといっても、東京あたりの、どの店へ行っても満《まん》席《せき》で、順《じゆん》番《ばん》待《ま》ちというひどい状《じよう》態《たい》とは違う。
まず、空席がないということはない。
「奥《おく》の方の席になりますが——」
と、ウェイトレスが言った。
「構《かま》いません」
と、依子は肯《うなず》いた。
却《かえ》って、田代という刑《けい》事《じ》と話をするには好《こう》都《つ》合《ごう》である。
ウェイトレスは、多江ではなかった。来ていないのだろうか?
ちょっと気になった。何しろ、昨日《 き の う》の今日である。
「いらっしゃいませ」
と、水が置《お》かれた。
顔を上げると、多江が、ちょっとウィンクして見せる。依子はホッとした。
「ご注《ちゆう》文《もん》は?」
「ランチをちょうだい」
田代との約《やく》束《そく》は二時だ。少し待《ま》って、ちょうどいい時間だろう。
「ランチですね」
と、多江は伝《でん》票《ぴよう》を書いて、「太《ふと》りますが、よろしいですか?」
と訊《き》いた。
依子は吹《ふ》き出してしまった。——この調《ちよう》子《し》なら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ!
「少々お待《ま》ち下さい」
多江が、奥《おく》へ引《ひつ》込《こ》んで行く。
依子は、楽《らく》な姿《し》勢《せい》で座《すわ》り直《なお》した。
水谷と争《あらそ》ったせいで、まだ体のあちこちが痛《いた》んだ。後で、お風《ふ》呂《ろ》に入るとき見たら、いくつか、あざにもなっていたのである。
しかし——水谷はどうなるのだろう?
あの後、河村と共《とも》に、水谷の家へ行ったが、戻《もど》っていなかった。河村も、本気なのかどうかはともかく、
「学校の金を使《つか》い込《こ》むのはともかく、先生に乱《らん》暴《ぼう》しようなんて、いくら何でも許《ゆる》せませんよ!」
と、腹《はら》立《だ》たしげに言って、早《さつ》速《そく》、県《けん》警《けい》に連《れん》絡《らく》していた。
もちろん、昨日の日《ひ》付《づけ》で、水谷は教《きよう》師《し》の職《しよく》を解《と》かれているはずだ。かつ、公《こう》金《きん》横《おう》領《りよう》や、文《ぶん》書《しよ》偽《ぎ》造《ぞう》、婦《ふ》女《じよ》暴《ぼう》行《こう》未《み》遂《すい》で指《し》名《めい》手《て》配《はい》。
もう人生も終《おわ》り、というところである。
依子は別《べつ》に同《どう》情《じよう》もしなかった。自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》というものだ。
ただ、現《げん》実《じつ》問《もん》題《だい》として、月曜日から、教《きよう》師《し》が一人不《ふ》足《そく》することになる。本校に行って、相《そう》談《だん》しなければ……。
月曜日の授《じゆ》業《ぎよう》を半日にして、本校へ行こうと、依子は思った。
本当のところ、仕《し》事《ごと》を離《はな》れても、水谷には興《きよう》味《み》があった。多江の言った通り、かつて、使《つか》い込《こ》みをしたときに、角田に助《たす》けてもらったのが事《じ》実《じつ》なら、あの、一見平《へい》和《わ》な町の裏《うら》側《がわ》も、よく知っていよう。
罪《つみ》を軽《かる》くするような証《しよう》言《げん》をしてあげるから、と言って、代《かわ》りに情《じよう》報《ほう》を引き出すこともできそうだ。
今は、少しでも、真《しん》実《じつ》を話してくれる人間がほしい。うわべの顔でなく、その裏側について、公《おおやけ》の場《ば》で証言してくれる人が……。
ランチが来た。
ゆっくりと食べ始《はじ》める。——町の人たちは大いに、依子に同《どう》情《じよう》してくれた。
今日、出て来るときも、会う人ごとに、
「大《たい》変《へん》でしたね」
と、言われた。
しかし、その中に、依子を裸《はだか》にして雨の中へ放《ほう》り出した人間がいるかもしれないのだ。
それを考えると、激《はげ》しい怒《いか》りがこみ上げて来る。
あの田代という刑《けい》事《じ》に、どこまで話したものか、依子は迷《まよ》っていた。
多江は信《しん》じていないらしいが、それを責《せ》めることはできない。制《せい》度《ど》とか公の機《き》関《かん》も、多江たちを守《まも》ることはできなかったのだ。
総《すべ》て、他《た》人《にん》というものを信じられなくなって当《とう》然《ぜん》である。
しかし、もし田代が、「向《むこ》う側《がわ》」の人間だったら、あんな風に近づいて来るだろうか?
いや、もちろん、依子がどこまで知っているのかを探《さぐ》ろうとしている、とも考えられる。しかし、それならもっとアッサリと、学校にでも訪《たず》ねて来るか、県《けん》警《けい》本《ほん》部《ぶ》へ呼《よ》び出してもいいだろう。
特《とく》に、角田栄子が殺《ころ》された事《じ》件《けん》で、何《なん》度《ど》か依子も県警に足を運《はこ》んでいる。
それなのに、わざわざあんな風に、そっと声をかけて来たのは、捜《そう》査《さ》そのものが、秘《ひ》密《みつ》に進められているせいかもしれない。
——ともかく、誰《だれ》も彼《かれ》も疑《うたが》ってかかっていたら、きりがない。一歩も進《すす》めなくなってしまう。
依子は、自分の第《だい》一《いち》印《いん》象《しよう》 を信《しん》じよう、と思った。もちろん、全《ぜん》面《めん》的《てき》にではないにしても……。
二時になった。——客《きやく》の数が、少しずつ減《へ》り始《はじ》めている。
日曜日などは、一時から一時半ぐらいがピークなのだろう。その辺《へん》は東京と同じだ。
子《こ》供《ども》連《づ》れの客が多いので、やけにやかましかったが、やっと少し静《しず》かになって来た。
二時十五分を過《す》ぎると、店はほぼ半分くらいの入りになっていた。田代刑《けい》事《じ》は、姿《すがた》を見せない。
どうしたのかしら。
場《ば》所《しよ》が分らないのかな? でも、刑事なんだから!
ちょっと苛《いら》立《だ》って来る。——大体、依子はきちんと約《やく》束《そく》の時間などは守《まも》るタイプである。
待《ま》たせて平《へい》気《き》という神《しん》経《けい》が、理《り》解《かい》できない。
二時半。——結《けつ》局《きよく》、からかわれただけなのだろうか?
それとも何か他《ほか》の理《り》由《ゆう》があって、来ないのか。もう少し待って、来なければ出よう、と思った。
そう決心したとき、田代がやって来るのが目に入った。
店に入ると、田代は、ちょっと店《てん》内《ない》を捜《さが》すように見回し、それから真《まつ》直《す》ぐに、依子の方へやって来た。
「お待たせして——」
と座《すわ》る。
「おいでにならないのかと思いました」
「尾《び》行《こう》されないように、用心に用心を重《かさ》ねて、来たものですから」
と、田代は低《ひく》い声で言った。
「まあ、そうですか」
「本当はちょっと寝《ね》坊《ぼう》したんです」
と言って、田代は微《ほほ》笑《え》んだ。
依子は笑った。この刑《けい》事《じ》、いい人だわ、と思った。正《しよう》直《じき》というか、好《こう》感《かん》が持《も》てる。
「いらっしゃいませ」
やって来たのは、多江だった。
「ああ、コーヒーを」
と、田代が注《ちゆう》文《もん》する。
多江は、依子の方を、全《まつた》く見なかった。
もちろん、田代のことは分っているはずだ。
「——実《じつ》は、昨日《 き の う》の事《じ》件《けん》のことも、聞いて来ました」
と、田代は切り出した。「えらい目にあいましたね」
「ええ。でも、私《わたし》が見たことに比《くら》べれば大したことじゃありません」
「見たこと? 何です、それは?」
「殺《さつ》人《じん》です」
田代は、ちょっと表《ひよう》 情《じよう》を引きしめた。
「あの女の子とは別《べつ》の、ですか?」
「そうです。私の目の前で、人が殺されました。そして、その事《じ》件《けん》は、誰《だれ》にも知られていません」
「——話して下さい」
と、田代は言った。
その目は、真《しん》剣《けん》そのものだった。じっと依子を見つめている……。
「——彼《かれ》に、どの程《てい》度《ど》、話をしたんですか?」
と、小西警《けい》部《ぶ》は訊《き》いた。
——午後も遅《おそ》くなっていた。
前夜、若《わか》い娘《むすめ》が喉《のど》を切られた事件で、夜通しの警《けい》戒《かい》態《たい》勢《せい》だったのである。
しかし、ついに容《よう》疑《ぎ》者《しや》すら、挙《あ》げることはできなかった。
やっと、非《ひ》常《じよう》態《たい》勢《せい》が解《と》けて、小西はまた病《びよう》院《いん》へやって来たのだった。
「ほとんど話しました」
依子はベッドに、起《お》き上っていた。
「つまり、殺《ころ》された女——大沢和子のことも?」
「ええ。棺《かん》が、山の奥《おく》に埋《う》められていることも、です」
「なるほど。——『ほとんど』と言いましたね? 話さなかったことも?」
「ええ」
依子は肯《うなず》いた。「多江さんのこと、そして、〈谷〉のことも、漠《ばく》然《ぜん》としか話しませんでした。だって、現《げん》実《じつ》にこの目で見ていたわけではありませんもの」
「なるほど」
小西は肯いて、「いや、あなたはしっかりした方だ。敬《けい》服《ふく》します」
「やめて下さい」
依子は、ちょっと気《け》色《しき》ばんだ。「あんな惨《みじ》めなことになってしまったのに……」
「もうすぐ夕食の時間ですね」
小西は軽《かる》く言って、依子の気をそらした。「——その話をきいて、田代はどうしました?」
「ええ。話が——一時間ぐらいはかかったかしら。田代さんは、深《しん》刻《こく》な顔で、『そんなことになっているとは知りませんでした』と、おっしゃって、どこか、案《あん》内《ない》したい所《ところ》がある、と……」
「なるほど」
「どこ、とは言いませんでした。店を出ることになって、私、手を洗《あら》って行くから、と言って、田代さんに、先に出てもらったんです」
「多江さんと話をするため、ですね?」
「そうです。田代さんが、支《し》払《はら》いを済《す》ませて、店を出ました。私、多江さんの方へ歩いて行って、『後で会える?』と訊《き》きました」
「向《むこ》うは何と?」
「終《おわ》りまで待ってくれれば、と。——八時に、店の前へ来る、と約《やく》束《そく》して、店を出ました」
「それからどこへ行きました?」
依子は首を振《ふ》った。
「どこにも」
「というと?」
「田代さんはいなかったんです」
「何ですって?」
小西は、珍《めずら》しく身を乗《の》り出した。「あなたを待っていなかったんですか?」
「ええ。私もびっくりしました。遅《おく》れて出たといっても、ほんの一、二分のことです。その間に、いなくなってしまったんですもの」
小西は、しばらく口を開《ひら》かなかった。
「——それからは?」
「私《わたし》、しばらくその店の表《おもて》で待っていました。三十分はいたと思います」
「田代は戻《もど》らなかった」
「そうです」
小西は、メモを取《と》る手を休めた。
ひどく真《しん》剣《けん》な表《ひよう》 情《じよう》だ。いつもの、穏《おだ》やかさが、このときだけは姿《すがた》を消《け》していた。
「——失《しつ》礼《れい》します」
看《かん》護《ご》婦《ふ》が顔を出した。「小西さん。お電話です」
「どうも。——じゃ、一《いつ》旦《たん》、休みましょう」
小西は立ち上った。「食事の後、少しは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
「はい。構《かま》いません」
「では、一時間ほどしたら、また」
小西は病《びよう》室《しつ》を出た。
津田は、ずっと隅《すみ》で話を聞いていたが、二人になると、ベッドに寄って、依子の口にキスした。
「疲《つか》れたんじゃないのかい?」
「いくらかは……。でも、寝《ね》てるだけだもの。大丈夫よ」
「欲《ほ》しいものがあれば、買って来るよ」
「そう? じゃ——悪《わる》いけど、何か果物が食べたい」
「OK。お母さんに電話で頼《たの》もう。話の区《く》切《ぎ》りがついたら、ここへ来るから知らせてくれと言われてるんだ」
「じゃ、電話してやってくれる?」
津田は、依子の手を取《と》って軽《かる》く唇《くちびる》を当てると、病《びよう》室《しつ》を出た。
——受《うけ》付《つけ》の赤電話で、ホテルの依子の母へ電話して、切ると、小西が傍《そば》に立っていた。
「やあ、警《けい》部《ぶ》さん」
「どうも、ますます分らなくなりますね」
と、小西は首を振《ふ》った。
「田代っていう刑《けい》事《じ》さんは、ご存《ぞん》知《じ》なんでしょう?」
「ええ。——行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》なんですよ」
と、小西は言った。
「行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》?」
「これは極《ごく》秘《ひ》でしてね。申《もう》し訳《わけ》ありませんが、それしか言えないんです」
「分りました……」
何となく、ゾッとした。薄《うす》気《き》味《み》が悪《わる》いというのか。——これはただ、依子一人がひどい目にあったという事《じ》件《けん》ではないのだ。
頭では分っていたのだが、その恐《きよう》怖《ふ》が、肌《はだ》に迫《せま》って来る。
「昨《さく》夜《や》の事件は?」
と、津田は話を変《か》えた。
「今のところ、手がかりなしです。——妙《みよう》なことですよ。この町に、あんな犯《はん》行《こう》に及《およ》ぶ変《へん》質《しつ》者《しや》がいたとは……」
「でも、どこにだって——」
「いや、それはそうです。どこの田舎《 い な か》町でも、犯《はん》罪《ざい》はある。それは分っています」
小西は、首を振《ふ》って、続《つづ》けた。「しかし、ゆうべの事《じ》件《けん》は、妙《みよう》です」
「というと?」
「なぜ、犯《はん》人《にん》はあの女性を襲《おそ》ったのか? 恨《うら》みなら、突《つ》き刺《さ》すのが普《ふ》通《つう》です。ただ、通り魔《ま》の犯行かもしれない。しかし、それにしても手ぎわがいい。もし、性《せい》的《てき》な犯《はん》罪《ざい》なら、暴《ぼう》行《こう》の形《けい》跡《せき》もないのはおかしい」
「なるほど。喉《のど》を切る、というのは、確《たし》かに珍《めずら》しいですね」
「しかも、技《ぎ》術《じゆつ》的《てき》にも容《よう》易《い》じゃありませんよ。いや、犯人が器《き》用《よう》だとほめるつもりはありませんけどね」
小西の冗《じよう》談《だん》めかした口《く》調《ちよう》の底《そこ》には、苦《にが》いものが混《まじ》っていた。
「——警《けい》部《ぶ》!」
と、背《はい》後《ご》から声がした。
三木刑《けい》事《じ》である。こんなときでも、至《いた》って快《かい》活《かつ》そのものだ。
「どうした?」
「目《もく》撃《げき》者《しや》です」
「よし、行こう」
小西の目が輝《かがや》いた。「——津田さん、では失《しつ》礼《れい》します」
わざわざ、そう言って行くのが、小西らしいところだろう。
津田は、依子の母が来るのを待って、病《びよう》院《いん》の表《おもて》に出た。そろそろ夕《ゆう》刻《こく》とはいえ、まだ少し明るい。
津田は、のんびりと通りの方へ歩いて行った。
ふと、通りの向《むこ》う側へ目をやった。——白い車が、停《とま》っている。
昨日《 き の う》も、依子の病室の窓《まど》から、あんな車を見た。同じ車、と断《だん》言《げん》はできないが、しかし似《に》ている。
ちょっとためらってから、津田は通りを渡《わた》って、その車の方へ歩いて行った。
今、車は空だった。中を覗《のぞ》いてみる。
シートの上に、双《そう》眼《がん》鏡《きよう》 が投《な》げ出してあった。やはり、病《びよう》室《しつ》を覗《のぞ》いていたのだろうか?
誰《だれ》の車なのか? 津田は、ゆっくりと周《しゆう》囲《い》を見回した。誰《だれ》もやって来る気《け》配《はい》はない。
津田は、少し離《はな》れた電話ボックスの陰《かげ》に入った。——車が見える。
誰かが、戻《もど》って来るはずだ。それを、見《み》届《とど》けてやる。
しかし、津田は何分、刑《けい》事《じ》ではない。張り込《こ》みなどという、根《こん》気《き》のいる仕《し》事《ごと》も、もちろんやったことがないのだ。
五分たち、十分たつと、ジリジリして来る。十五分もすると、苛《いら》々《いら》して、二十分たつとくたびれてしまう。
意《い》外《がい》に大《たい》変《へん》なもんだな、と津田は思った。
その間に、依子の母が、果《くだ》物《もの》を手に、病《びよう》院《いん》へ入って行くのが見えた。
畜《ちく》生《しよう》、頑《がん》張《ば》ってやるぞ!
その決《けつ》心《しん》も、十分と続《つづ》かない。——もう諦《あきら》めるか、と言いわけを捜《さが》していたとき、一人の男が、やって来た。
向《むこ》うから歩いて来る。顔は見えない。暗《くら》いので、黒い影《かげ》になってしまう。
あれかな?——男は、白い車のドアを開けると、双《そう》眼《がん》鏡《きよう》 を取《と》り出し、車のわきに立ったまま、病《びよう》院《いん》の方へとレンズを向けた。
「あいつ……」
いい加《か》減《げん》、苛《いら》立《だ》っていたせいもあって、余《よ》計《けい》にカッと来た。
取《と》っ捕《つか》まえてやる。——津田は、指《ゆび》を鳴《な》らした。
やめとけばいいのに、とも思った。別《べつ》に、ケンカなんて、ちっとも強くないのだから。しかし、今はやたらとカッカ来ていたのである。
双眼鏡を覗《のぞ》いている男の肩《かた》に手をかけると、
「おい! 何してるんだ!」
とやったのである。
次の瞬《しゆん》間《かん》、相手の拳《こぶし》が、津田の顎《あご》にぶつかった。もちろん意《い》図《と》的《てき》に、である。
つまりは、殴《なぐ》られたのだ。
目から火が出るとはこのことで、チカチカと光が明《めい》滅《めつ》したと思うと、たちまち目の前が真《まつ》暗《くら》になった。
——気《き》絶《ぜつ》したのである。
どれぐらいたったのか、津田は、やっと頭を上げた。——顎《あご》が、ヒリヒリと痛《いた》む。
「やれやれ……」
慣《な》れないことはするものじゃない。
やっとの思いで起《お》き上ると、もう、あの白い車は、影《かげ》も形もなかった。
津田は頭を振《ふ》って、病院へと戻《もど》って行った。——とても依子には話せない。
「絶《ぜつ》対《たい》に、だ!」
と、津田は言った。