「——誠《まこと》に面《めん》目《ぼく》ありません」
と、河村が頭を下げる。
「じゃあ……車は盗《ぬす》まれた、というんだね?」
と、小西は言った。
「そうなんです。一週間ほど前のことでしたか——」
河村は考えながら言った。
「しかし——なぜ届《とどけ》が出てないんだ?」
と三木刑《けい》事《じ》が口を出す。
「申《もう》し訳《わけ》ありません。いや、出さなきゃいかんとは思っとったんです。しかし、何といっても、私は警《けい》官《かん》で、車を盗《ぬす》まれた、しかも、キーをつけっ放《ぱな》しにしておいて盗まれたというんじゃ、何とも見っともない話で。つい、出しそびれておりまして」
「怠《たい》慢《まん》だな、それは」
「申《もう》し訳《わけ》ありません」
河村は頭をかいた。
小西は、三木と、そっと目を見《み》交《か》わした。
うまく逃《に》げたな、と二人の目は互《たが》いに言い合っていた。
「その車が、殺《さつ》人《じん》に使《つか》われるとは、思ってもいませんでした」
と、河村は額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。
県《けん》警《けい》の、小西の机《つくえ》の前に立って、河村はいかにも自《し》然《ぜん》に緊《きん》張《ちよう》している。
「分った。——一《いち》応《おう》念《ねん》のため、確《たし》かに君《きみ》の車かどうか、記《き》録《ろく》を見てくれ」
「かしこまりました」
河村は恐《きよう》 縮《しゆく》した様《よう》子《す》で、頭を下げる。
小西は、部《ぶ》下《か》の一人に言って、河村を案《あん》内《ない》させた。
「ごまかしですよ!」
河村が行ってしまうと、三木が腹《はら》立《だ》たしげに言った。
「うん。しかし、なかなか頭のいい奴《やつ》だ」
小西は息《いき》をついた。「ああ言い張《は》られたら、こっちとしても、嘘《うそ》だと決《き》めつけるわけにはいかん」
「このまま帰すんですか?」
三木は不《ふ》服《ふく》顔《がお》だ。
「まあ待《ま》て。——ここは、向《むこ》うの言うことを信じたように見せた方がいい」
「しかし——」
「ここにいて、我《われ》々《われ》がああだこうだと言っても始《はじ》まらん。向うへ行ってみるしかないじゃないか」
「行くんですか?」
「もちろんだ。それを河村に悟《さと》られて、向うに、いつ我々が行ってもいいように準《じゆん》備《び》されてしまったら、何もつかめない」
「分りました」
と、三木はやっと納《なつ》得《とく》した様《よう》子《す》で言った。
「警《けい》部《ぶ》さん!」
と声がして、津田がやって来る。「彼《かの》女《じよ》の行《ゆく》方《え》は分りましたか?」
ほとんど寝《ね》ていないのだが、さすがに緊《きん》張《ちよう》で、目が輝《かがや》いて見える。
「残《ざん》念《ねん》ながら、今のところ手がかりはありません」
と、小西は首を振《ふ》った。
「どうするんです!」
津田が詰《つ》め寄《よ》る。「彼女に万一のことがあったら——」
「お気《き》持《もち》はよく分りますよ」
と、小西は言った。「必《かなら》ず依子さんを見《み》付《つ》け出します」
「ちゃんと、生きた彼女を見付けて下さいよ」
と、津田は言って、それから、自分の言ったことにびっくりしたように、「いや——まさかそんなことはないと思いますが……」
と、付け加《くわ》えた。
小西は、しばらく、何《なに》事《ごと》か考え込《こ》んでいたが、やがて一つ息《いき》をつくと、
「我《われ》々《われ》も同じ気《き》持《もち》ですよ」
と言った。
「いや、すみません。別《べつ》にあなた方が怠《たい》慢《まん》だと言ってるんじゃないんです」
「行ってみますか」
小西が、津田の言《こと》葉《ば》を無《む》視《し》して、ポツリと言った。
「——え?」
「あの町へ、ですよ。——表《おもて》向《む》きは捜《そう》査《さ》ということでなく。どうです?」
くり返《かえ》しているように、津田は英《えい》雄《ゆう》でも何でもない。だから、すぐに、
「行きます!」
という言葉は出て来なかった。
だが、数《すう》秒《びよう》間《かん》してから、
「行きます」
と言った。
一《いつ》般《ぱん》民《みん》間《かん》人《じん》としては、まず立《りつ》派《ぱ》なものであろう。
「警《けい》部《ぶ》、もちろん私《わたし》も——」
と、三木刑《けい》事《じ》が言った。
「ああ、もちろんだ。しかし、それには、昨《さく》夜《や》の事《じ》件《けん》のけりをつけて行かなきゃならん。——ともかく、そのために一日二日はかかりますね」
津田はちょっと不《ふ》満《まん》だった。しかし、だからといって、一人で先に行くだけの度《ど》胸《きよう》もない。
「先に行かれますか?」
と、小西に言われて、津田は答えに困《こま》った。
「そうですね——もちろん、その——しかし——」
大切な部《ぶ》分《ぶん》は抜《ぬ》けているのである。
「しかし、ここの事件の責《せき》任《にん》者《しや》は私ですから、私は動《うご》けませんが——」
小西は、三木の方をちょっと見て、「この忙《いそが》しいときに、休《きゆう》暇《か》を取《と》る、けしからん奴もいます」
と言った。
三木は苦《く》笑《しよう》して、
「分りました。じゃ、一つのんびりと旅《りよ》行《こう》でもして来ますよ。——津田さん、お付《つき》合《あ》い願《ねが》えますか」
「いいですとも!」
津田はホッとして、即《そく》座《ざ》に肯《うなず》いた……。
小西は、首をひねった。
おかしい。——どう考えてもおかしいのである。
「おい」
と、振《ふ》り向《む》いて、見《み》張《は》りに立っている警《けい》官《かん》を呼《よ》んだ。
——病《びよう》院《いん》の建《たて》物《もの》の裏《うら》手《て》である。
非《ひ》常《じよう》階《かい》段《だん》があり、ここには、警《けい》官《かん》が一人、夜通し立っていたのだ。
もちろん、今は昼間である。しかし、夜でも、決《けつ》して身《み》を隠《かく》すのに、便《べん》利《り》な場《ば》所《しよ》とは言えない。
「何でしょうか?」
と警官が小走りにやって来る。
「ゆうべ事《じ》件《けん》のあったとき、ここに立っていたのは君《きみ》か?」
と、小西は訊《き》いた。
「はい、そうです」
「ここから離《はな》れなかったんだな?」
「はい」
警《けい》官《かん》は頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させて、「絶《ぜつ》対《たい》に、ここから動《うご》きませんでした!」
と強い口《く》調《ちよう》で言った。
小西は微《ほほ》笑《え》んで、
「君が嘘《うそ》を言ってると思ってるわけじゃないぞ」
と言った。
「はあ……」
ここに警官が立っていて、誰《だれ》も出入りしなかったとなると、看《かん》護《ご》婦《ふ》、平野紀子を殺《ころ》した犯《はん》人《にん》は、病院の中を通って、逃《に》げたということになるのだ。
そんなことが可《か》能《のう》だろうか?
犯人そのものは、おそらく返《かえ》り血《ち》を浴《あ》びていないだろう、と検《けん》死《し》官《かん》は話していた。
それだけ、手なれた殺《ころ》し方だったのだ。
しかし、被《ひ》害《がい》者《しや》が、そんな「殺《ころ》し屋《や》」に狙《ねら》われるようなタイプの人間でなかったことははっきりしている。
そんな風に、「殺し」に慣《な》れた人間、というのは、どんな人《じん》物《ぶつ》だろう?
ただの変《へん》質《しつ》者《しや》として片《かた》付《づ》けるには、その手口はあまりに鮮《あざ》やかだった。
といって、そんな「殺し」のベテランが、どうして看《かん》護《ご》婦《ふ》を殺したりするだろうか?
そして中込依子が消《き》えたことと、どう関《かん》連《れん》しているのか。
小西は、ぶらぶらと、まるで散《さん》歩《ぽ》でもしているように、病《びよう》院《いん》の表《おもて》の方へと回って行った。
この地方都《と》市《し》にとって、続《つづ》けて起《おこ》った、この二つの残《ざん》忍《にん》な手口の殺人事《じ》件《けん》は、大センセーションである。
責《せき》任《にん》者《しや》としての小西の立《たち》場《ば》も、微《び》妙《みよう》なものだった。
しかし、小西はもともと、その類《たぐい》のことをあまり気にしない。いくら上の方からやかましく言われても、事《じ》件《けん》が早く解《かい》決《けつ》するわけではないのだ。
むしろ焦《あせ》りが、捜《そう》査《さ》方《ほう》針《しん》を誤《あやま》らせることの方を心《しん》配《ぱい》する。だから、どんな風当りも、正に「柳《やなぎ》に風」と受《う》け流《なが》しているのだ。
もちろん、小西が事件に心を痛《いた》めていないわけではない。やたらと「哀《あい》悼《とう》の意」を表《ひよう》明《めい》したがる上《じよう》層《そう》部《ぶ》に比《くら》べても、たぶん小西の方がずっと胸《むね》を痛《いた》めていただろう。
ただ、それをあくまで表に出さない。——それが小西の違《ちが》っているところなのである。
それにしても、と小西は思った。こんな事件にぶつかったのは初《はじ》めてだ。
ただの凶《きよう》悪《あく》な事件というだけではない。その裏《うら》に、何かが潜《ひそ》んでいる。
小西はいやな予《よ》感《かん》がしていた。
これで終《おわ》らないのではないか。また、同じような惨《さん》劇《げき》が起《おこ》るのではないかという予《よ》感《かん》が……。
小西が病院の玄《げん》関《かん》へやって来ると、医《い》師《し》が出て来た。
「やあ、先生」
と、小西は言った。
事《じ》件《けん》の捜《そう》査《さ》に関《かん》連《れん》しても、何《なん》度《ど》か世《せ》話《わ》になったことのある、五十がらみの、人の好《よ》さそうな医師である。
「何だ、君《きみ》か」
「何だ、はないでしょう。ゆうべから、何度も出入りしてるのに」
「そうか。君の担《たん》当《とう》だね」
「そうです。頭が痛《いた》いですよ」
小西は苦《く》笑《しよう》した。「寝《ね》不《ぶ》足《そく》のせいもありますがね」
医師の古《ふる》川《かわ》は、ちょっと笑って、
「寝不足を治《なお》す薬《くすり》を教えてやろうか」
と言った。
「いただきたいですね」
「眠《ねむ》ることだな」
と、古川医《い》師《し》は言った。「どうだね、お茶《ちや》でも」
「ありがたい! それは名《めい》案《あん》ですな。一《いつ》向《こう》に気《き》付《づ》かなかった」
と小西は息《いき》をついた。
古川は笑《わら》って、
「息《いき》抜《ぬ》きを忘《わす》れるというのは、疲《つか》れている証《しよう》拠《こ》だよ」
と、小西の肩《かた》を叩《たた》いた。
古川は白《はく》衣《い》を脱《ぬ》いで丸《まる》めて持《も》つと、近くの喫《きつ》茶《さ》店《てん》の扉《とびら》を押《お》した。
「いらっしゃいませ、先生」
と、店の人間が声をかける。
「——どうしていちいち、白衣を脱ぐんですか?」
と、小西は席《せき》について訊《き》いた。
「これを着《き》て入ると、他《ほか》の客《きやく》がいやがる」
「そんなものですかね」
「医《い》者《しや》も刑《けい》事《じ》も、似《に》たようなものさ」
と、古川は言った。「——おい、ブルマンをくれ」
「こっちも同じだ」
と、小西もウェーターに声をかけた。「——刑《けい》事《じ》と医《い》者《しや》ですか」
「ああ。いざというときは必《ひつ》要《よう》だが、いつもはあまり関《かかわ》り合いたくない、という点ではね」
「なるほど」
「もし君《きみ》が、警《けい》察《さつ》手《て》帳《ちよう》を見せながら、この店に入って来たら、他《ほか》の客《きやく》はいい顔をしないだろう」
「それはそうでしょうね」
「医者も同じだ。白《はく》衣《い》を着《き》て入ると、みんないやな目で見る」
古川は、水を一口飲《の》んで、「どうなんだね?」
と訊《き》いた。
「どうも妙《みよう》です」
小西の声は低《ひく》くなっていた。
「ほう?」
「病《びよう》院《いん》の外から、犯《はん》人《にん》が侵《しん》入《にゆう》し、外へ逃《に》げたという可《か》能《のう》性《せい》が低い。ゼロというわけではありませんが」
「それなら話は簡《かん》単《たん》じゃないか」
と、古川はアッサリ言った。「犯《はん》人《にん》が病《びよう》院《いん》の中にいる、ということだ」
「そんなことを言ってもいいんですか」
「構《かま》うもんか。ただの推《すい》測《そく》としてならね」
古川は笑《わら》って、「——しかし、噂《うわさ》にでもなれば、病院は大《だい》打《だ》撃《げき》だな」
「そこが気になります」
と、小西は肯《うなず》いた。
「殺《さつ》人《じん》鬼《き》のいる病院に入院する奴《やつ》もあるまいしな」
「何か影《えい》響《きよう》は出ていますか」
「さあ。それは分らんな。しかし、患《かん》者《じや》が大《たい》挙《きよ》して逃《に》げ出したとも聞いとらん」
「病院内《ない》での内《ない》偵《てい》を進《すす》めても、かまいませんかね?」
「必《ひつ》要《よう》ならやりたまえ」
と、古川は即《そく》座《ざ》に言った。「こっちとしても、早く犯《はん》人《にん》を挙《あ》げてほしいからな」
「努《ど》力《りよく》しますよ」
小西はホッとした。
この町の最《さい》大《だい》の、というより、唯《ゆい》一《いつ》の大《だい》病《びよう》院《いん》である。その力は大きい。
病院内《ない》に変《へん》質《しつ》者《しや》がいるというのでは、大《たい》変《へん》な騒《さわ》ぎになろう。病院側《がわ》が、一《いつ》切《さい》関《かかわ》り合わないという態《たい》度《ど》を取《と》るのは、目に見えていた……。
「院長に話しておくよ」
と、古川は言った。
「よろしく」
実《じつ》は、それこそが、頼《たの》んでおきたいことだったのだ。
「しかし、君《きみ》も一《いち》応《おう》、院長に挨《あい》拶《さつ》しておいてくれ」
と、古川は言った。「ああいう偉《えら》い人は、無《む》視《し》されるのを一番嫌《きら》うんだ」
「よく分っています」
小西は肯《うなず》いた。
ふと、時計を見る。——もう、三木と津田が出《しゆつ》発《ぱつ》したころだ。
自分は、いつ追《お》いかけられるだろうか?