津田は、いつも、妙《みよう》だな、と思っていた。
吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》の出て来る映《えい》画《が》を見ていると、必《かなら》ず最《さい》後《ご》には、主《しゆ》人《じん》公《こう》たちが、吸血鬼の棲《す》む城《しろ》へ乗《の》り込《こ》んでいくのだが、城へ着《つ》いたころはいつも夕方なのだ。
そして、陽《ひ》が沈《しず》む前に、吸血鬼の眠《ねむ》る墓《はか》を見《み》付《つ》けなくてはならないので、ひどく焦《あせ》って駆《か》け回るのである。
馬《ば》鹿《か》だなあ、と津田は見ながら思うのだった。もっと朝早く出て、真《ま》昼《ひる》の内に城へ着《つ》いとけば、のんびりと捜《さが》せるじゃないか。
もちろん、それでは、夕《ゆう》陽《ひ》が沈むのと、吸血鬼の胸《むね》に杭《くい》を打ち込むのとどっちが早いか、というサスペンスは生れないから、仕《し》方《かた》のないことかもしれない。
しかし、いくら何でも、城《しろ》へ着《つ》いたら、いかにもわざとらしく陽《ひ》が沈《しず》もうとするのには、苦《く》笑《しよう》してしまうのだった。
——三木刑《けい》事《じ》と二人で、車を降《お》りた津田は、もう、辺《あた》りに少し夕《ゆう》暮《ぐれ》の気《け》配《はい》が漂《ただよ》い始《はじ》めているのを見て、ふと、自分が、吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》の城へこれから乗《の》り込《こ》もうとしているように思えたのだった。
「ここから先は歩くしかないですね」
と、三木刑事は言った。「山歩きの経《けい》験《けん》は?」
津田は肩《かた》をすくめて、
「高《たか》尾《お》山《さん》くらいなら……」
と言った。「ハイキングに毛の生えた程《てい》度《ど》ですよ」
「そうですか」
三木は微《ほほ》笑《え》んだ。「しかし、ここは別《べつ》に登《のぼ》りじゃありませんからね。道は悪《わる》いだろうけど、迷わなきゃ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》でしょう」
「そろそろ暗《くら》くなりそうですよ」
と、津田は空を見上げて、言った。
まだ、青空は出ているが、まぶしいような輝《かがや》きは、既《すで》に消《き》えていた。
「懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》 が二つあります」
三木は、ダッシュボードから取《と》り出した一つを津田へ手《て》渡《わた》した。「大《おお》型《がた》だから、もしもの時は、武《ぶ》器《き》にもなりますよ」
津田が、ちょっと不《ふ》安《あん》げな表《ひよう》 情《じよう》を見せたのに気《き》付《づ》いたのか、三木は、
「まあ、心《しん》配《ぱい》はありませんよ」
と付け加《くわ》えた。「僕《ぼく》も拳《けん》銃《じゆう》を持ってますしね」
これでは却《かえ》って不安になる。
ともかく、津田は一つ深《しん》呼《こ》吸《きゆう》をして、肯《うなず》いて見せた……。
道は、林の中に消《き》えていた。そこから、二人は歩き出した。
ゆるい上りだが、十分も歩くと、津田は、都《と》会《かい》に慣《な》れ切った足の弱《よわ》さを痛《つう》感《かん》させられてしまった。
息《いき》を弾《はず》ませているのを、前を行く三木に気《き》付《づ》かれないように、用心した。やはり、いくらかはプライドというものがある!
三木は、かなり山道に慣《な》れているようだった。若《わか》い——といっても、二十八の津田と、そう違《ちが》いはないと思うのだが、日《ひ》頃《ごろ》のきたえ方の差《さ》であろう。
三木が振《ふ》り向《む》いて、
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
と訊《き》いた。
「ええ。まあ、何とか」
「もう少し行っておかないと、日が暮《く》れてしまいますからね」
「大丈夫ですよ。どんどん行って下さい」
ちょっと無《む》理《り》をして、津田は言った。
それからしばらくは、二人とも無《む》言《ごん》で歩き続《つづ》けた。
林を出ると、谷間の狭《せま》い道になった。
草木は少なくて、岩《いわ》だらけの道である。早く陽《ひ》がかげって、足下が少し見にくくなり始《はじ》めている。
しかし、まだ懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》 をつけるほどでもなかった。
津田は、もうすっかり汗《あせ》をかいていた。ハンカチを取《と》り出して額《ひたい》や首《くび》筋《すじ》を拭《ぬぐ》う。
三木は、黙《もく》々《もく》と歩き続《つづ》けていた。
津田は、ふと妙《みよう》なことに気《き》付《づ》いた。——三木は、少しも迷《まよ》わずに歩いている。地《ち》図《ず》も持《も》っているはずだが、一回もポケットから出さないのだ。
大丈夫なのだろうか?
三木の足取りには、ためらいがなかった。まるで——そう、まるで、よく知っている道を歩いているかのようだ。
しかし、三木はそんなことを言ってはいなかった……。
三木が足を止めた。
「少し、休みましょうか」
「そうですね」
津田は、手近な、比《ひ》較《かく》的《てき》平《たい》らな岩《いわ》に腰《こし》をおろした。歩みを止めると、汗がどっと出て来る。
三木は、座《すわ》ろうともせず、高い岩《いわ》の上に上って、先の方を眺《なが》めていた。
——いよいよ黄《たそ》昏《がれ》が迫《せま》っている。
空気がひんやりと肌《はだ》に当って、ゆるやかに流《なが》れて行った。少しすると、汗《あせ》をかいた背《せ》中《なか》が冷《つめ》たい。
三木が岩の上から飛《と》び降《お》りて来た。
「身《み》軽《がる》ですね」
と津田は言った。
「今《こん》度《ど》歩き出すときは、もう懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》 がいりますね。足をくじいたりすると困《こま》る」
「もう、どれくらい来たんですか」
「半分は、たぶん——」
と、言いかけて、三木は津田の顔を見た。
津田は、探《さぐ》るように三木を見ながら、言った。
「知ってるんですね、『谷』の場《ば》所《しよ》を。でなきゃ、どれくらいかかるか、分らないでしょう」
三木は、ちょっと表《ひよう》 情《じよう》を固《かた》くした。
「地《ち》図《ず》で見ただけですよ。山歩きは慣《な》れてるから、距《きよ》離《り》も見当がつきます」
津田は、敢《あ》えて、それ以上は言わなかった。何といっても、ここは三木が頼《たよ》りである。
こんな所《ところ》で放《ほう》り出されたら、ただでさえ方《ほう》向《こう》音《おん》痴《ち》なのだ。迷《まい》子《ご》になるに決《きま》っている。
しかし、三木がなぜ——いや、たとえ「谷」への道を知っているとしても、それをなぜ隠《かく》すのか?
ただの思い過《すご》しかな、と津田は思った。
「出かけますか」
と、三木は言った。
いくらか言い方が素《そつ》気《け》ない。
津田は腰《こし》を上げた。
少し行く内《うち》に、すっかり夜になっていた。懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》 の光など、せいぜい足下と、目の前の三木の背《せ》中《なか》を照《て》らすだけだ。
月が出ていない、曇《くも》った夜だった。
三木は、明らかに道を熟《じゆく》知《ち》していた。ともかく、この暗《くら》さの中で、全《まつた》く、迷うこともなく進《すす》んで行くのだ。
ただ、地《ち》図《ず》を見ただけでは、こうは行かない。——しかし、津田も、くり返《かえ》しては訊《き》かなかった。
それに、やたらに石がゴロゴロしている道で、足をくじかないようにするのが精《せい》一《いつ》杯《ぱい》だったのだ。
異《い》様《よう》な静《しず》けさだった。——いくら山の中でも、鳥の羽《は》音《おと》や虫の声、風に梢《こずえ》のこすれ合う音ぐらいはするものだが、津田の耳に届《とど》くのは、自分たちの足音と息《いき》づかいだけだった。
本当に、怪《かい》物《ぶつ》の城《しろ》にでも向《むか》ってるみたいだな、と思った。十《じゆう》字《じ》架《か》でも持《も》ってくればよかった。
その内《うち》、狼《おおかみ》の遠《とお》吠《ぼ》えでも聞こえて来るかもしれない。
——不《ふ》意《い》に三木が足を止めた。
周《しゆう》囲《い》が開《ひら》けた、という気がした。風が流《なが》れて来る。
「どうしたんですか」
と、津田は言った。
三木が何か言いかけたとき、雲が切れた。白い月光が、周《しゆう》囲《い》をほの白く浮《うか》び上らせる。
それは、まるで舞台にライトが当ったような、鮮《あざ》やかな効《こう》果《か》だった。
広い山《やま》裾《すそ》へ出て来たらしい。周囲に、なだらかな山《やま》並《なみ》が見える。
「ここは……」
「あの町から山を一つ越《こ》えたんですよ」
と、三木は言った。「ご覧《らん》なさい」
「え?」
「あれが、『谷』です」
道は、そこから、ずっと下りになっていた。そして、その奥《おく》に、山の懐《ふところ》に、まるで潜《もぐ》り込《こ》むようにして、いくつかの家が目に入った。
「あれが……」
と、津田は、息《いき》をついて言った。
まだ、距《きよ》離《り》はありそうだが、ともかく下り坂である。
三木は、津田の方へ、ちょっと照《て》れたような顔を向《む》けた。
「黙《だま》っていて申《もう》し訳《わけ》ありません」
「何のことですか」
「僕《ぼく》は、『谷』の出《しゆつ》身《しん》なんです」
津田は、唖《あ》然《ぜん》とした。三木は続《つづ》けて、
「もちろん、このことは、小西さんも知りません」
と言った。
「つまり、あそこの生れ、というわけですか?」
「ええ。もっとも、十年以上前に、出てしまったんですがね。——そのころはまだそうひどくなかった……」
「よく道を憶《おぼ》えていましたね」
「もちろんですよ。いつも通っていたんですから」
と、三木は微《ほほ》笑《え》んだ。
「あの谷にいるのは、みんな一《いち》族《ぞく》なんでしょう? つまりあなたも——」
「僕の場合はちょっと特《とく》別《べつ》でしてね。東京にいた両親が事《じ》故《こ》で死《し》んで、ここへ引き取《と》られたんです。いくらか血《ち》のつながりはありますが」
三木は、ちょっと顔を曇《くも》らせた。「中込依子さんが見たといった、刺《さ》された女——大沢和子というのが、僕《ぼく》の叔《お》母《ば》なんです」
「じゃ、あの多江という娘《むすめ》も——」
「多江のことはよく知っています。妹のようなものだった。とても我《が》慢《まん》強《づよ》い子でした」
三木は、谷の方へ目をやった。
「やっぱり、どうかしてしまったんだな」
と、三木は首を振《ふ》った。「ご覧《らん》なさい。一軒《けん》の家にも、灯《ひ》が見えないでしょう」
津田は、言われてみて、やっと気付いた。
「なるほど。——誰《だれ》もいないのかな」
「分りません。行ってみましょう」
三木は歩き出して、振《ふ》り向《む》き、「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
と訊《き》いた。
「もちろん。そのために来たんですよ」
正《しよう》直《じき》なところ、一人だったら、こんな夜にあの谷へ入って行く気にはなれなかっただろう。
——下り道は、意《い》外《がい》に手《て》間《ま》取《ど》った。
三木は、いとも軽《かる》々《がる》と下りて行くが、津田の方は膝《ひざ》がガクガクしそうで、ついて行くのに必《ひつ》死《し》だった。却《かえ》って、怖《こわ》さを忘《わす》れられたのも事《じ》実《じつ》だが。
平《へい》地《ち》について、息《いき》をつくと——もう、目の前に、家が並《なら》んでいた。
古びた家《か》屋《おく》が、六軒《けん》。どれもかなり古ぼけているが、一《いち》応《おう》しっかりした造《つく》りだ。
確《たし》かに、どの家も、明りを消《け》して、ひっそりとしている。人がいるという気《け》配《はい》が感《かん》じられないのだ。
三木は、少し前へ進《すす》み出ると、
「誰《だれ》かいないか!」
と声を上げた。
声が周《しゆう》囲《い》の静《せい》寂《じやく》へと広がって行く。——しかし、反《はん》応《のう》はなかった。
「いたら返《へん》事《じ》をしてくれ!——誰かいないのか!」
三木は、しばらく待《ま》って、それから首を振《ふ》った。
「誰《だれ》もいないようですね」
と、津田は言った。
「何があったのか……。家の中へ入ってみましょう」
三木は一軒《けん》の家へと歩いて行った。「ここで僕《ぼく》はしばらく暮《くら》していたんです。——大沢和子という叔《お》母《ば》の家でした」
玄《げん》関《かん》の戸《と》を叩《たた》く。もちろん、返《へん》事《じ》はなかった。
「——戸《と》が開《あ》きますよ」
と、三木が言って、ガラリと開けた。「戸《と》締《じま》りもしていない。どうかしてる」
三木の姿《すがた》が中に消《き》えた。
津田は、何だか、真《まつ》暗《くら》な家の中に入って行くのも気がひけて、表《おもて》に立っていた。
——たった六軒の家。
ここに三十人ほどの人間が住《す》んでいた。
そして今は?——どこに行ってしまったんだろう?
家の中で、チラチラと三木の懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》 の光が動《うご》いている。
依子の話で、この谷の住人たちに、何か恐《おそ》ろしいことが起《おこ》ったらしいことは分る。しかし、それがどんなことなのか、とても津田の想《そう》像《ぞう》力《りよく》では思い及《およ》ばなかった。
栗原多江という娘《むすめ》は、どうしたのだろう?
——三木が、この谷の人間だったというのは、津田にもショックだった。
依子の話を、三木はどんな思いで聞いていたのだろう?
——なぜ、気《き》付《づ》かなかったのか、津田にもよく分らなかった。
ともかく、いつの間にか、左右に男が立っていたのである。それぞれ一人ずつ、しかも、上《うわ》背《ぜい》のある、大《おお》柄《がら》な男だった。
予《よ》想《そう》していた危《き》険《けん》でも、いざ目前に迫《せま》って来ると、なかなか実《じつ》感《かん》できない。
男たちがゆっくりと近付いて来て、津田は初《はじ》めてゾッとした。
「三木さん!」
と、開《ひら》いたままの玄《げん》関《かん》へ飛《と》び込《こ》む。「来て下さい! 変《へん》な男たちが——」
だが、その先を言うひまはなかった。
目の前に誰《だれ》かが出て来る。三木だと思った。——とたんに津田は、腹《はら》を殴《なぐ》られて、体を折《お》った。
体が重《おも》くなる。そして、床《ゆか》に倒《たお》れて——津田は気を失《うしな》っていた。