何かが起《おこ》りそうだ。
小西には、そんな予《よ》感《かん》があった。
小西は、刑《けい》事《じ》の勘《かん》というものを、あまり信《しん》じない。その点では、珍《めずら》しい存《そん》在《ざい》だった。
たいていのベテラン刑事は、まず、直《ちよつ》感《かん》的《てき》に犯《はん》人《にん》の目《め》星《ぼし》をつけ、証《しよう》拠《こ》を当てはめて行こうとする。
小西は、むしろ逆《ぎやく》だった。直感的に、怪《あや》しいと思う人間がいたら、それ以《い》外《がい》の人間に、むしろ目を配《くば》るようにする。
それで、ちょうどバランスが取れるのである。
しかし、確《たし》かに勘というものはある。それは小西も分っていたし、否《ひ》定《てい》してはいなかった。ただ、犯《はん》人《にん》を挙《あ》げるときには、それはむしろ邪《じや》魔《ま》になるのだ。
——何か起《おこ》るかもしれない。
こういう直《ちよつ》感《かん》は、たとえ外《はず》れても、大した害《がい》はない。当れば、その「何か」を防《ふせ》ぐことができるかもしれない。
「今夜、ここへ泊《とま》り込む許《きよ》可《か》をもらいましたよ」
病《びよう》院《いん》の中にある、お世《せ》辞《じ》にもうまいとは言えない食《しよく》堂《どう》でカレーライスを食べながら、小西は言った。
一《いつ》緒《しよ》にいるのは、古川医《い》師《し》である。
こちらはコーヒーだけ。
「ほう? すると寝《ね》ずの番か」
「いや、寝ますがね」
小西はとぼけた顔で言った。「しかし、万《まん》一《いち》のとき、すぐに対《たい》処《しよ》できます」
古川は、ちょっと周《しゆう》囲《い》へ目をやって、
「目立たんようにすることだな」
と言った。
「心《こころ》得《え》てますよ」
「患《かん》者《じや》ってのは、ともかく勘《かん》が鋭《するど》いもんだからな。あんたが刑《けい》事《じ》だってことは、すぐに見《み》破《やぶ》ってしまうだろう」
「おとなしく、引っ込《こ》んでましょう」
小西は素《す》直《なお》に言った。
「——また何かありそうかね」
「何とも。しかし……」
「しかし?」
「そんな気がするんです」
「根《こん》拠《きよ》はないのか」
「確《かく》たるものはありません」
と、小西は首を振《ふ》った。「しかし、どうも、状《じよう》 況《きよう》から見て、犯《はん》人《にん》が病《びよう》院《いん》から外へ出ているとは考えにくいんです」
「なるほど」
古川は肯《うなず》いて、「病院側《がわ》でも、人を出すのか?」
「これは我《われ》々《われ》だけでやります」
小西はきっぱりと言った。
「しかし、犯人がそう続《つづ》けてやるかな」
「分りません。しかし、可《か》能《のう》性《せい》はあります。ともかく、外へ出て殺《さつ》人《じん》を犯《おか》し、病《びよう》院《いん》へ戻《もど》って来るとすると、必《かなら》ず途《と》中《ちゆう》で見《み》付《つ》かっているはずです。——犯《はん》人《にん》が病院の中の人間だったら、外へ出られず、きっと苛《いら》立《だ》っているでしょう」
「分った。——しかし、気を付《つ》けろよ。相《あい》手《て》もなかなか手《て》強《ごわ》い」
「寝《ね》首《くび》をかかれないようにしますよ」
と、小西は言って笑《わら》った。
しかし、内《ない》心《しん》、小西はヒヤリとしていたのだ。
眠《ねむ》っている間に迫《せま》って来る白い影《かげ》、そして剃《かみ》刀《そり》の刃《は》が、自分の喉《のど》を切り裂《さ》く……。
そんなことも、もちろんあるのかもしれない。
「コーヒーを」
と、小西は急《いそ》いで注《ちゆう》文《もん》していた。
眠気は遠《えん》慮《りよ》なくやって来た。
小西は、当《とう》直《ちよく》室《しつ》の隅《すみ》で、椅《い》子《す》にかけていたが、午前二時ごろになると、さすがに瞼《まぶた》がくっついて来る。
張《は》り込《こ》みとはちょっと違《ちが》うので、緊《きん》張《ちよう》感《かん》がないのである。
「コーヒーでもいかがですか」
と、若《わか》い当《とう》直《ちよく》の医《い》師《し》が声をかけてくれる。
「こいつはどうも」
小西はたち上って、伸《の》びをした。
「大《たい》変《へん》ですね」
「いや、どうせむだ骨《ぼね》だとは分ってるんだが——」
あまり、医《い》師《し》や看《かん》護《ご》婦《ふ》たちに、不《ふ》安《あん》を与《あた》えてはいけない、と小西は思っていた。
「さあ、どうぞ。インスタントですけどね」
と、医師は、紙コップを小西へ手《て》渡《わた》して、言った。
「隠《かく》すことはありませんよ」
「どうも。——隠す、というと?」
「この病院の中に、殺《さつ》人《じん》鬼《き》がいる、ってことです」
小西は、びっくりして医師を見た。
「どこでそんな話を?」
「みんな話していますよ」
と、医《い》師《し》は肩《かた》をすくめて、「今夜は、患《かん》者《じや》がなかなか寝《ね》つかなくて大《たい》変《へん》でした」
「知らなかったな、それは……」
「患者は、考えたり、想《そう》像《ぞう》したりするしか、仕《し》事《ごと》がありませんからね」
小西は、熱《あつ》いコーヒーをゆっくりとすすった。
「——どうなんです」
と、医師が言った。「正《しよう》直《じき》なところ、目星はついてるんですか」
小西は首を振《ふ》った。
「さっぱりですね。——万《まん》が一、というだけですよ」
あまり、この若《わか》い医師と話しても意《い》味《み》はない。しかし、少なくとも、小西にとって、眠《ねむ》気《け》を防《ふせ》ぐ効《こう》果《か》はあった。
小西は、一《いち》応《おう》、話しても構《かま》わない程《てい》度《ど》のことを、医師に説《せつ》明《めい》してやった。
「面《おも》白《しろ》いですね」
「それはちょっと——」
小西は苦《く》笑《しよう》した。
「いや、病《びよう》院《いん》の中では、〈死《し》〉は日《にち》常《じよう》の出《で》来《き》事《ごと》です。でも、これはちょっと違《ちが》う。いわば、〈死《しに》神《がみ》〉がこの病院の中を歩き回っているというわけですね」
「死神か。まあ、そうかもしれませんな」
小西は肯《うなず》いた。「——いや、コーヒーをありがとう」
医《い》師《し》は、ちょっと廊《ろう》下《か》の方へ目をやって、
「もし僕《ぼく》なら……」
と言った。
「何です?」
「いや、もし僕がその犯《はん》人《にん》だったら、どこへ隠《かく》れるかな、と思ってね」
「中は捜《そう》索《さく》済《ず》みです」
「霊《れい》安《あん》室《しつ》も?」
小西は、ちょっと間を置《お》いて、
「もちろんですよ」
と言った。
「しかし、その間は他《ほか》の所《ところ》へ隠《かく》れていて、調《しら》べ終《おわ》った後、死《し》体《たい》のふりをして寝《ね》ていれば、見《み》逃《のが》すかもしれませんよ」
「なるほど」
「死体の顔にかけた白い布《ぬの》を取《と》ってみるというのは、なかなかできないことですからね」
小西は、しばらく黙《だま》っていた。
まさか、とは思うが、しかし……。
いいさ、どうせ、ここにいてもウトウトしてしまうのだ。
「どうです、先生」
と小西は立ち上って、言った。「霊《れい》安《あん》室《しつ》を見に行きますか」
「いいですよ。——こちらも実《じつ》のところ、眠《ねむ》かったんです」
「寝《ね》不《ぶ》足《そく》で?」
「大きな手《しゆ》術《じゆつ》があったのでね」
二人は廊《ろう》下《か》へ出た。「——もっとも、眠《ねむ》いのは、その後、ポーカーをやり過《す》ぎたせいかな」
小西は、ちょっと笑《わら》った。
地下へと、階《かい》段《だん》を降《お》りて行く。つい、足音すら、気をつかってしまうのだった。
「——今、誰《だれ》か霊《れい》安《あん》室《しつ》に?」
「いや、今日はないはずです」
と、医《い》師《し》は言った。
階段を降り切ったとき、ヒョイと看《かん》護《ご》婦《ふ》が現《あら》われて、小西は、思わず声を上げそうになった。
「キャッ!」
と、向うもびっくりした様《よう》子《す》。「——先生ですか」
と、息《いき》をつく。
「何をしてるんだい?」
「毛《もう》布《ふ》を取《と》りに。——どこへ行かれるんですか?」
「霊安室だよ」
「まあ、肝《きも》だめしですか」
と、看護婦は笑った。
「誰《だれ》もいなきゃ、どうってことはないさ」
「あら、でも……」
小西は、足を止めた。
「誰かいるんですか?」
「たぶん」
医《い》師《し》と小西は顔を見合わせた。
「——見たのかい?」
「ちょっと覗《のぞ》いたんです。そしたら……。見たような気がしますけど」
「しかし、今日、亡《な》くなった人はいないだろう?」
「私《わたし》は存《ぞん》じません。私の来る前かと思ってましたけど……」
「行ってみましょう」
と、小西が促《うなが》した。
二人は、ちょっと薄《うす》暗《ぐら》い廊《ろう》下《か》を進《すす》んで行った。まさか、と思ったことが事《じ》実《じつ》になることもある。
「ここです」
医師が、ドアに手をかけて、ためらった。
小西が代って、ドアを一気に開《あ》けた。
安《あん》置《ち》する台の上は、空《から》だった。
「誰《だれ》もいないよ」
と、医《い》師《し》が、ホッとしたように、言った。
「あら、おかしい」
と、看《かん》護《ご》婦《ふ》もやって来る。「——変《へん》ですね。気のせいかしら?」
小西は、ふと、顔を引きしめた。足早に、台の方へ歩いて行くと、かがみ込んで、
「どうやら、確《たし》かなようですね」
と言いながら、拾《ひろ》い上げたものを、医師へ見せた。
白い布《ぬの》が、床《ゆか》に落《お》ちていたのだ。
「誰かが、死《し》体《たい》のふりをして、ここにいたんだ」
小西は、きびきびした足《あし》取《ど》りに戻《もど》っていた。廊《ろう》下《か》へ出て、階《かい》段《だん》へと急ぐ。
一《いつ》刻《こく》も早く、警《けい》官《かん》たちを、警《けい》戒《かい》態《たい》勢《せい》にしておかなくてはならない。
階段を上り切ったとき、廊下の奥《おく》から、鋭《するど》い悲《ひ》鳴《めい》が聞こえて来た。
小西は、一《いつ》瞬《しゆん》、身《み》動《うご》きできなかった。
起《おこ》ってほしくないことが起ったとき、つい、信《しん》じることを拒《こば》んでしまうのだ。
廊《ろう》下《か》を、誰《だれ》かが走って来る。
「助《たす》けて! 誰か!」
若《わか》い看《かん》護《ご》婦《ふ》だった。小西は、やっと我《われ》に返《かえ》った。
「どうした!」
と、駆《か》け寄《よ》る。
「誰かが、あの病《びよう》室《しつ》に——。音がするので覗《のぞ》いたら、いきなり飛《と》びかかって来て——」
「分った。どの部《へ》屋《や》だ?」
「二番目の——」
小西は駆《か》け出した。無《む》意《い》識《しき》に、拳《けん》銃《じゆう》を抜《ぬ》いている。
まさか、病《びよう》院《いん》の中で発《はつ》砲《ぽう》するわけにはいかない。しかし、少なくとも相《あい》手《て》がひるむ効《こう》果《か》はあるだろう。
ドアが少し開《ひら》いていた。小西は一《いつ》旦《たん》足を止め、それから一気にドアを開《あ》けて、中へ入った。
身《み》を低《ひく》くして、攻《こう》撃《げき》に備える。——しかし、何の反《はん》応《のう》もなかった。
小西は、左手で壁《かべ》を探《さぐ》って、明りを点《つ》けた。白い病《びよう》室《しつ》が、まぶしい光の中に浮《うか》び上る。
だが——誰《だれ》もいなかった。
人が隠《かく》れるほどの場《ば》所《しよ》はない。小西は、窓《まど》の方へと駆《か》け寄《よ》った。
開けた形《けい》跡《せき》はなかった。
ズズッと、床《ゆか》に、何かがこすれる音がした。——しまった、と思った。
ベッドの下にいたのだ!
小西は振《ふ》り向《む》いた。床へ這《は》い出した、その女の右手が、横《よこ》へ、払《はら》うように動《うご》くと、小西は、左足首に、鋭《するど》い痛《いた》みを覚《おぼ》えて、よろけた。
窓へ、もたれかかりながら、小西は、左足を刃《は》物《もの》で切られたのだと知った。
傷《きず》は深《ふか》いようだ、と直《ちよつ》感《かん》的《てき》に思った。血《ち》が噴《ふ》き出すように流《なが》れ出る。
小西は、床《ゆか》に崩《くず》れるように倒《たお》れた。
女が、立ち上った。——白いガウンが、赤黒く汚《よご》れている。
「そうか!」
と、小西は叫んだ。「やっぱり、君《きみ》か!」
中込依子だった。
剃《かみ》刀《そり》を手にして立っているのは、中込依子だった。——しかし、その女は、依子であって、また依子ではなかった。
目に、じっとすわった狂《きよう》気《き》がある。——まるで熱《ねつ》に浮《う》かされているようだ。
一《いつ》種《しゆ》の夢《む》遊《ゆう》状《じよう》態《たい》なのだ、と小西は思った。おそらく、彼《かの》女《じよ》自《じ》身《しん》、何も知るまい。
依子が、剃《かみ》刀《そり》を振《ふ》りかざした。
「やめなさい!」
と、小西は叫《さけ》んだ。「やめるんだ!」
苦《く》痛《つう》が襲《おそ》って来た。激《はげ》しい痛《いた》みで、気が遠くなりそうになる。
「やめなさい!」
と、小西はくり返《かえ》した。
拳《けん》銃《じゆう》は、まだ握《にぎ》っていた。銃《じゆう》口《こう》を依子へ向《む》ける。
「やめろ!」
依子が目を見《み》開《ひら》いて、小西の上に——。
引金を引く。
銃口が下を向いていたのは、故《こ》意《い》か偶《ぐう》然《ぜん》か、小西にもよく分らなかった。
銃《じゆう》弾《だん》は、依子の右足のふくらはぎをかすめて飛《と》んだ。依子が、アッ、と声を上げた。
銀《ぎん》色《いろ》の刃《は》が手から床《ゆか》に落《お》ちる。
依子は、足を押《おさ》えて、うめいた。——しかし、倒《たお》れなかった。
ドアの方へ向《むか》って、よろけながら歩き出す。その前に、警《けい》官《かん》が立ちはだかった。
「取《と》り押えろ!」
と、小西は怒《ど》鳴《な》った。「逃《にが》すな!」
小西は起《お》き上ろうとして、左足の痛《いた》みに堪《た》え切れなかった。
もう一度倒《たお》れながら、
「手《て》荒《あら》にするな——」
と、言っていた。
そして、小西は気を失《うしな》ってしまった……。