「やめて! みんな、人を殺そうとしてるのよ!」
その叫《さけ》び声が耳もとで響《ひび》き渡《わた》ったような気がして、金《かな》山《やま》医師は、ハッと起き上った。
——カーテンを通して、白い光が射《さ》し込《こ》んでいる。
「夢《ゆめ》か……」
金山医師は、ホッと息をついた。ショックには慣れることがあっても、恐《きよう》怖《ふ》は、いつまでも生《なま》々《なま》しいものだ。
あの若い女教師の、命をも賭《か》けたような叫び声は、今でも金山医師の耳の中に残っていた。若い女教師——中《なか》込《ごめ》依《より》子《こ》の。
そう。結局、彼女は正しかったのかもしれない、と金山医師は思った。
総《すべ》てを、この町の中で片付けてしまおうとしたのが、間《ま》違《ちが》いだったのだ。もしあのとき、中込依子に真相を打ち明け、事を公にしていたら……?
誰《だれ》も信じなかったかもしれない。この文明の時代に、吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》の話など、一体誰が……。
いや、そうとも限らない。今のマスコミという奴《やつ》は、至って貪《どん》欲《よく》である。正に、あの連中のように。
世間に彼《かれ》らのことが知れたら、彼らだって、どこかへ再び身を隠《かく》すしかないかもしれなかったのだ。——判断を誤ったのだ、我々は。彼らのことを、見くびっていた。
「もう手《て》遅《おく》れだな」
と、金山は呟《つぶや》いた。
それから、ゆっくりと起き上る。腰《こし》が痛むのはいつものことだが、いやに布《ふ》団《とん》が固いな、と思った。畳《たたみ》の上に出したつもりの足が、ストンと下へ落ちて、
「ワッ!」
と、思わず声を上げてしまっていた。
何てことだ……。また、診《しん》察《さつ》台《だい》の上で眠《ねむ》ってしまったのか。
やれやれ、と金山はため息をついた。——俺《おれ》もガタが来たもんだ、全く。
もう何時になったんだろう? あの窓の明るさからすると、そろそろ起き出して、病院を開ける仕《し》度《たく》をしなくてはなるまい。
何十年も、ほとんど毎日を過して来た診察室である。どこに何があるか、いくら老いぼれた記《き》憶《おく》力《りよく》でも、間《ま》違《ちが》えはしない。
大して広くもなく、寒《さむ》々《ざむ》とした診察室を横切ると、金山はカーテンを開けた。視界が真《まつ》白《しろ》になって、金山は、思わず目をつぶった。
光の明るさが、辛《つら》くなって来る。
「冗《じよう》談《だん》じゃないぞ」
と、金山は吐《は》き捨《す》てるように呟《つぶや》いた。
俺はあんな連中とは違《ちが》う。別に陽《ひ》の光がいやなんじゃない。ただ、目が慣れないだけの話だ。——そうだとも。
頭がひどく重い。ゆうべの安酒が、まだ大分、かすになって頭に淀《よど》んでいる感じだ。もう六十もいい加《か》減《げん》過ぎているのに、毎晩ああして飲んでいては、体にいいわけがない。
まあ、今さら体のことを心配しても始まるまいが。
それよりは一夜の眠《ねむ》りの方が、今の金山には、ずっとありがたいのだ。
「——おはようございます」
突《とつ》然《ぜん》、後ろで声がして、金山はびっくりして振《ふ》り返《かえ》った。
「お前か。足音も立てずに入って来るのは、コソ泥《どろ》だぞ」
金山は不《ふ》機《き》嫌《げん》な声を出した。
「先生の耳が遠くなっただけですわ」
看護婦の糸《いと》川《かわ》繁《しげ》子《こ》は、金山の言葉など、一向に応《こた》えた様子もなく、笑いながら言った。
「今、何時だ」
金山は訊《き》いた。
「九時少し前です。二《ふつ》日《か》酔《よい》を覚ますのに一時間はかかりそうですね」
「大きなお世話だ」
金山は、欠伸《 あ く び》をして、無《ぶ》精《しよう》ひげの伸《の》びた、ざらつく顎《あご》を手でさすった。
「顔を洗ってらして下さいな」
と、糸川繁子は言って、他の窓のカーテンも開けて行った。
そして、ちょっと手を休めて振り向くと、
「その間に、何か食べるものを作っておきますわ」
「食いたくない」
金山は、そう言い捨てて、診《しん》察《さつ》室《しつ》を出ると、薄《うす》暗《ぐら》い廊《ろう》下《か》を、奥《おく》の方へと歩いて行った。
洗面所の明りを点《つ》けると、正面の汚《よご》れた鏡に、自分の、ひからびた顔が映った。——鏡が汚れているのか、それとも顔の方が汚れているのか、金山自身にも、よく分らなかった……。
糸川繁子が、台所で何やらやっている音が聞こえて来た。——食いたくない、か。
フン、と金山は自分をせせら笑った。そう言いながら、結局いつも食っているのは誰《だれ》なんだ?
金山は、蛇《じや》口《ぐち》をひねると、思い切り強く水を出し、顔を洗った。
——糸川繁子は、ありあわせのもので、簡単に仕度をして、茶の間で待っていた。
金山はドカッと座って、黙《だま》って食べ始めた。糸川繁子は、別に皮肉一つ言うでもなく、ちょっと冷ややかな表情で、黙って座っていた。
糸川繁子は、まだ三十そこそこである。金山が独《ひと》り暮《ぐら》しであってみれば、こうして、朝食の仕度ぐらいするようになるのも、当然の成り行きだった。
色白で、少し小太りな、肉感的な女だった。唇《くちびる》が分《ぶ》厚《あつ》く、あまり気はきかないが、どうせ重病というほどの患《かん》者《じや》はやって来ないのだ。いや、重病といえば、この町の人間、みんながそうなのかもしれない。
もっとも、それは、金山如《ごと》きで、治《ち》療《りよう》できるほどの病気ではなかった。——みんなが病気なら、むしろ健康な人間の方が、「健康」という名の病気にかかっているということになるのかもしれない。
「——今日の診《しん》療《りよう》は、午前中で終りにしましょう」
と、糸川繁子が言った。
「どうしてだ?」
金山は、食べる手を休めて、言った。「俺《おれ》はどうせ暇《ひま》だ。午後だって、どこへ出かけるでもない」
「往《おう》診《しん》があります」
「往診だと?」
金山は眉《まゆ》を寄せた。それから、フン、と唇を歪《ゆが》めて笑った。
「お前の仲間が、貧血ででも倒《たお》れたのか」
「違《ちが》いますよ」
と、糸川繁子は、ちょっと人を小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたような顔で、「でも、〈谷〉へ来てくれと言われてます」
と言った。
「谷へ?」
金山は真顔になった。「谷にどんな病人がいるんだ?」
「私は知りません」
と、首を振《ふ》って、「ただ、多《た》江《え》様からそう言われただけです」
「多江か……」
栗《くり》原《はら》多江。——中込依子が、町の人間たちから守ってやろうとして必死になった、その当の多江が、結局、中込依子を死へ追いやり、今はこの町の——そう、「姫《ひめ》君《ぎみ》」のような存在だった。
あの小《こ》娘《むすめ》が!
「言われた通りになさった方が——」
「分ってるよ」
急に食欲を失って、金山は、はしを置いた。「この年寄りに、谷まで行けってのは、残《ざん》酷《こく》な話だ」
「先生は充《じゆう》分《ぶん》にお元気ですよ」
糸川繁子は、ちょっと笑った。
金山は、胸がむかつくような不快感を覚えて、立ち上った。
「じゃ、仕度をしよう」
診《しん》察《さつ》室《しつ》の方へ歩いて行きながら、金山は背後にその気配を感じていた。鼓《こ》動《どう》が早まる。——馬《ば》鹿《か》め! いい加減にしろ!
お前はどこまで堕《お》ちる気なんだ……。
自分をそう叱《しか》りつけても、何の効果もなかった。心の底では分っているのだ。自分の弱さを。
「——先生」
と、糸川繁子の、低い囁《ささや》き声が追いかけて来る。
うっかりすれば聞き落してしまいそうな声なのに、金山の耳は、その声を、飛びつくように、聞き取っていた。
足を止めて、振《ふ》り向《む》くと、予期した通りのものが、そこにあった。——服を脱《ぬ》ぎ捨てた糸川繁子の体が。
「まだ時間はありますよ」
と、糸川繁子が、ゆっくりと畳《たたみ》の上に横たわる。
そうだ。時間はある。——この老人をも、この肌《はだ》にのめり込《こ》ませるに充《じゆう》分《ぶん》な時間が。
自分への、吐き気がしそうな嫌《けん》悪《お》感を、避《さ》けようともせずに、全身で受け止めながら、金山は、糸川繁子の方へ、足を運んで行った……。
谷への道は、いやに長かった。
「少し休もう」
と、金山は息をついて、言った。
「遅《おく》れますよ」
糸川繁子は、いい顔をしなかった。「多江様が苛《いら》々《いら》されてますよ、きっと」
「途《と》中《ちゆう》で倒《たお》れるより良かろう」
金山は、手近な石に腰《こし》をおろした。「ほんの五、六分だ」
「分りました」
と、糸川繁子は諦《あきら》めたように肩《かた》をすくめた。「今朝、大分頑《がん》張《ば》って下さったから、勘《かん》弁《べん》してあげますわ」
「お前に許してもらわんでもいい」
金山は、ぶっきら棒に言った。
タバコを取り出して、火をつける。——しばらくはやめていたのだが。今さら体にいいの悪いのと心配しても仕方ない。
——あの場所の近くに来ていた。
栗原多江をリンチにかけようとした、あの場所に、だ。中込依子が、
「やめて! みんな、人を殺そうとしてるのよ!」
と叫《さけ》んだ場所……。
あの娘《むすめ》も死んでしまった。——可《か》哀《わい》そうなことをしたものだ。
彼《かの》女《じよ》を守るために、俺《おれ》は何一つできなかった、と金山は思った。もちろん、彼女はここで死んだわけではないのだから、金山にはどうすることもできなかったのだが。
——よく晴れた日だった。
快適な気候なのに、一向に心は弾《はず》まない。いっそ、重苦しい鉛《なまり》色の空だったら、と金山は思いながら、ゆっくりと、周囲に頭をめぐらした。
木立ちの間から、一つの顔が覗《のぞ》いていた。——一《いつ》瞬《しゆん》、金山はギクリとした。中込依子の幽《ゆう》霊《れい》でも出たのかと思ったのだ。
それは、しかし、少なくとも若い女性であるという点、中込依子と似ていなくもなかった。
見知らぬ顔だ。——疲《つか》れ切ったように、力なく、木にもたれかかっている。
その女が、何か言いかけた。金山は、反射的に口に指を当て、黙《だま》って、という身《み》振《ぶ》りをした。
向うも分ったらしい。口をキュッと閉じた。
「——先生」
と、糸川繁子がやって来て言った。「もう行きましょう」
「うるさい奴《やつ》だな」
金山は、タバコを投げ捨てた。
「ちゃんと火を消して下さい。山火事は怖《こわ》いですよ」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》さ。どうせ、帰りにもここを通るんだ」
そう言って、金山はチラリとあの女の方を見た。あの女に、聞かせたかったのだ。
「だめですよ」
と、糸川繁子は、タバコを靴《くつ》でもみ消した。「さあ、先生——」
あの女は、木の陰《かげ》に完全には隠《かく》れていなかった。ちょっとでも、糸川繁子がそっちへ目を向ければ、すぐに目につく。
金山は、手で糸川繁子の尻《しり》をなでた。
「先生! そんなことしてるときじゃないでしょ!」
「分ったよ。ともかく行こう」
——うまく行った。
糸川繁子の注意をそらしたのだ。
今の、金山の言葉を、あの女が耳にしていたら、おそらく金山が戻るまで、ここで待っているだろう。
何者かは分らないが、しかし、少なくともこの町の住人でも、谷の住人でもないことは確かなようだ。
帰りには、何とかして、糸川繁子と別々になるようにしなくてはならない。
金山は、どうしたものか、と考えながら、谷への道を辿《たど》って行った。
「——やあ、先生」
突《とつ》然《ぜん》、頭の上から声がして、金山はギョッとした。見上げると、高い岩の上から、三木刑《けい》事《じ》が、金山たちを見下ろしている。
「あんたか」
金山には意外だった。「いつ、戻《もど》ったんだ? 見かけんな」
「事情があって、谷にいるんでね」
三木が、身軽に岩から飛び下りて来る。
「谷に? じゃ、あんたが具合でも悪いのかね」
と、金山は訊《き》いた。
「いや」
三木は首を振《ふ》った。「診《み》てほしいのは子供だ」
「子供?」
金山の声が、少し緊《きん》張《ちよう》した。「どこの子供だね?」
「さあ、行こう、先生」
と、三木は、答えずに歩き出した。
金山は、三木について歩きながら、
「どこの子だ?」
と、もう一度訊いた。
「この町の子じゃないんだ」
三木が、ちょっと肩《かた》をすくめて、言った。
「すると——さらって来たのか!」
金山の言葉に、三木は愉《ゆ》快《かい》そうな笑い声を上げた。
「人さらい、か。——古いね、先生も。まあ、言い方によっちゃ、そうも言えるかな」
「何てことを……」
金山は首を振った。しかし、何を言ったところで、この連中にはむだでしかない。
「年《と》齢《し》は八つだと思う。ちょっと昨日《 き の う》から熱があるんだ。風《か》邪《ぜ》だと思うがね。診てやってくれ」
「ああ」
金山は肯《うなず》いた。「——どういう子供なんだ?」
三木は、チラッと冷ややかな目を金山の方へ向けた。
「余計なことは訊《き》くなよ、先生」
金山は、それ以上、口を開かなかった。
しかし、三木のように、刑《けい》事《じ》の職にあった人間が、谷に身を潜《ひそ》めているというのは、ただごとではない。仕事で、あるいは休《きゆう》暇《か》で来ているのなら、町にいるはずである。それが、町には一《いつ》切《さい》姿を見せていない。
何かあったのだ。三木が刑事の職に就《つ》いていられなくなったのではないか。谷に身を潜めているというのは、それしか考えられない。すると子供を誘《ゆう》拐《かい》して来たというのは、何のためだろう?
金山は、考え込《こ》んでいる様子を、三木や糸川繁子に気付かれまいとして、
「そう早く歩くな。こっちは若くないんだぞ……」
と、ブツブツ文句を言っていた。
「これ以上ゆっくり歩いたら、こっちがくたびれちまうよ」
と、三木が、からかうように言った。
そう苛《いら》立《だ》っている様子もない。金山は、
「谷なんかにいないで、町にいりゃいいじゃないか」
と言ってみた。
「ちょっと厄《やつ》介《かい》なことがあるんだよ」
三木はニヤリと笑った。「分ってるだろうけど、先生、俺《おれ》に会ったことは、帰ったらすぐに忘れるんだね」
金山は、
「憶《おぼ》えていたくても、年を取ると忘れっぽくなるからね」
と言い返した。
「——さあ、着いた」
と、三木が言った。
〈谷〉を見下ろす高台に、三人は立っているのだった。