谷を、金山が前に訪れてから、どれくらいたつだろうか?
もう、金山には、はっきりと思い出すこともできない。しかし、遠い記《き》憶《おく》の中と、今、明るい陽《ひ》射《ざ》しの中に眠《ねむ》る谷とは、奇《き》妙《みよう》なほどそっくり同じに見えた。
いや、谷へ向って道を下って行く金山には、それが現実の谷ではなく、自分の悪《あく》夢《む》の中へと下って行くような気がしてならなかったのである。
古びた六軒《けん》の家屋。かつて、この中に、じっと息を潜《ひそ》めて暮《くら》していた「彼《かれ》ら」は、今では堂々と町を歩いている。いや、彼ら以外の人々が、怯《おび》えながら生活しなくてはならなくなったのだ。
それから何年たっただろう?——金山には、何百年のようにも思えた。そして、ほんの何日かのようにも……。
ともかく、谷は少しも変っていなかった。まるで、ここでは時間が停止しているかのように……。
一軒の家の玄《げん》関《かん》から、若い女が出て来た。
「待ってたわ」
と、栗原多江は言った。「今《こん》日《にち》は、先生」
「あんたもいたのかね」
金山は、意外の感に打たれた。
三木だけでなく、栗原多江も谷に来ているとなると、これはよほどのことだ。
「どうだい、あの女の子は」
と、三木が訊《き》く。
「相変らずだわ。熱が高いの」
「診《み》よう」
金山は、糸川繁子の方へ肯《うなず》いて見せた。「さあ、案内してくれ」
多江は、ちょっとためらって、
「三木さんあなた、先生を案内してよ」
と言った。
「いいよ。——どうかしたのか?」
「いいえ、別に」
多江は首を振《ふ》った。「ただ——中の空気が悪いのよ。気分が悪くなりそうだから出て来たの」
「そうか。君を残しといて悪かったな」
「いいのよ」
多江は、ちょっと不安げに、よく晴れた空を見上げた。「少し曇《くも》ってくれりゃいいのに!」
多江が、陽《ひ》の光をまぶしがるのを耳にしたのは、金山にとって初めてのことだ。
それにも、金山は奇《き》妙《みよう》な印象を受けた。
彼《かれ》らは、映画に出て来る吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》のように、陽の光を浴びて灰になるほど、脆《もろ》い連中ではない。ただ、あまり陽射しの強いときは、外へ出たがらないのだが。
それにしても、今はそう陽射しの強い時期ではないのに、多江はちょっと辛《つら》そうに見えた。——なぜだろう?
何かが起っている。金山はそう感じた。
何かが、変りつつあるのだ。
「じゃ、先生、中へ」
と、三木が先に立って、家の中へ入って行く。
金山と、往《おう》診《しん》鞄《かばん》 を持った糸川繁子がそれに続く。
家の中は、薄《うす》暗《ぐら》い。外から見れば完全な廃《はい》屋《おく》で、雨戸なども閉めたままなのだから、当然のことだ。
「こんな所に病人を寝《ね》かしといちゃ、治るわけがない」
と、金山は上りながら言った。
埃《ほこり》くさい空気と、湿《しめ》り気《け》。——健康な大人《 お と な》だって、こんな所にいては病気になりそうだ、と金山は思った。
「どこにいるんだ、病人は?」
と、金山は言った。
今、金山は医者という立場に戻《もど》っている。三木に対する、無意識の恐《きよう》怖《ふ》心《しん》も消えつつあった。
「奥《おく》だよ」
ほの暗い廊《ろう》下《か》を歩いて行くと、床《ゆか》がきしんだ。
「踏《ふ》み抜《ぬ》きそうですね」
と、糸川繁子が冗《じよう》談《だん》めかして言ったが、その声には、どこか余《よ》裕《ゆう》がなかった。
「——ここだ」
三木は、廊下の突《つ》き当《あた》りの、破れかかった襖《ふすま》を開けた。そして、顔をしかめると、
「やあ、こりゃひどい!」
と、声を上げる。「どうしてここだけこんなに空気が悪いんだ?」
「おい、そこに立ってちゃ入れん」
金山は、腹立たしげに言った。「そのひどい空気の中で熱を出してる子供のことを考えろ」
「分ったよ」
三木は、わきへどいた。「さあ、入ってくれ」
金山は、どんなにムッとする、いやな匂《にお》いが襲《おそ》いかかって来るかと、覚《かく》悟《ご》を決めて、その部屋へ足を踏み入れた。そして——愕《がく》然《ぜん》とした。
部屋には窓がなく、裸《はだか》電球が一つ、弱々しい光を放っている。——ここには電気が来ていないはずだから、たぶん、小型の発電機でも使っているのだろう。
六 畳《じよう》ほどの畳《たたみ》の部屋で、畳はすっかり変色し、相当いたんでいる。その真ん中に、布団が敷《し》かれて、八歳《さい》ぐらいの女の子が横になっていた。
頭にタオルがのせてあり、傍《そば》には、古ぼけた洗面器。——まるで、何十年か前の光景だった。
その女の子は、眠《ねむ》っているようだった。目を閉じて、少し口を開いたまま、早い息づかいをしている。
しかし、金山が愕然としたのは、実はその光景ではなかったのだ。
金山は、ハッと我に返り、女の子の傍に、急いで座り込《こ》んだ。もう乾《かわ》いてしまったタオルを取って、女の子の額《ひたい》に手を当ててみる。
熱は高い。おそらく三十九度を越《こ》えていよう。
「おい、鞄《かばん》だ」
と、金山は、女の子の方を向いたまま言ったが、返事がないので、振《ふ》り返《かえ》った。「——おい、何をしてるんだ?」
糸川繁子は、部屋の入口に立って、鞄を持ったまま、入って来ようとしなかった。
「おい、どうした?」
と、金山がくり返すと、
「気分が悪くて——」
と、糸川繁子は顔を歪《ゆが》めた。「先生、よく入っていられますね」
「何だと? おい、ここは——」
「今行きます」
糸川繁子は、渋《しぶ》々《しぶ》という様子で、ハンカチを出して口に当てると、部屋の中へ入って来た。——金山は、ちょっと呆《あつ》気《け》に取られていた。どういうことだ?
鞄を置くと、糸川繁子は、
「ひどい暑さ!」
と首を振った。
実際、彼女の額に、じわっと汗《あせ》がにじみ出て来た。
金山は、鞄の中から、体温計を取り出した。女の子のわきの下へ挟《はさ》む。
服の前を開け、わきの下へ体温計を入れても、女の子は目を覚ます気配がなかった。金山は、女の子の脈を取った。
熱があるのだから、当然早いが、しかし、弱々しくはない。充《じゆう》分《ぶん》に強く打っている。
聴《ちよう》診《しん》器《き》を出して、
「風《か》邪《ぜ》だろうな。熱もあるし、たぶん、喉《のど》が赤くなって——」
と言いかけると、
「先生、ちょっと気分が悪いんです」
と、糸川繁子が、口を押《おさ》えたまま、立ち上った。
「そうか。じゃ、外へ出ていろ。こっちは一人で充分だ」
「はい」
糸川繁子は、正《まさ》に、逃《に》げるように、部屋を出て行ってしまった。さっきまでそとに立っていた三木の姿も、いつの間にか見えない。
これはどういうことなんだ? 金山は、頭を激《はげ》しく振《ふ》った。
俺《おれ》がおかしくなったのだろうか?
いや、そうじゃない! いくらぼけて来ても、感覚までがおかしくなるところまでは来ていないはずだ!
——金山が、この部屋へ入って、愕《がく》然《ぜん》としたのは、三木が言ったように、「いやな匂《にお》いがして、暑かった」からではなかった。
逆だったのだ。——つまり、ここだけは、空気が爽《さわ》やかで、何の匂いもなく、涼《すず》しかったのである。
それなのに、三木も糸川繁子も、そして、あの多江さえもが、ここにはいられなかった……。
なぜだ? 金山には分らなかった。この部屋に、何か彼《かれ》らを追い立てるものがあるのだろうか?
いや、それはおかしい。もともと、ここは彼らの住んでいた家である。そこが彼らを拒むはずがない。
では……。
金山は、目の前に横たわっている女の子を見下ろした。——この子か? この女の子が、彼らを遠ざけたのか?
「まさか!」
金山は、思わず呟《つぶや》いた。
しかし——それ以外に、どう考えることができようか。
「そうだ。——体温計を」
金山は、医師に立《た》ち戻《もど》って、女の子のわきの下から、体温計を抜《ぬ》いた。四十度までは行っていないが、それに近い高熱である。
金山は、ざっと診《しん》察《さつ》して、ただの風《か》邪《ぜ》だろうと思った。おそらく、一日か二日で、この熱も下るだろう。
しかし、この女の子は、一体何者なのだろう? なぜ、彼らを追い立てる力を持っているのか。それとも、全くの見当外れだろうか?
もし——万一、この子に、そんな力が具《そな》わっているとしたら……。
金山は、三木がなぜこの女の子を連れて来たのかは分らなかったが、少なくとも三木はこの女の子の力に気付いていない、と思った。
多江も三木も、ただ、この部屋の空気が悪いだけだと思っていたのだ。しかし、逆に、この子は、この部屋の空気を浄《きよ》めている。
金山の心臓は久々に血に溢《あふ》れて高鳴った。——もしかすると、これはあの町を救う、光明となるかもしれない。
そのためにも、この女の子の力を、三木や多江に、絶対に知られてはならない、と金山は思った。知れば、奴《やつ》らはためらうことなく、この女の子を殺してしまうだろうから。
「おじさん、だあれ?」
突《とつ》然《ぜん》、声がして、金山は、危うく声を立てるところだった。
少女が、目を開いている。
「——お医者さん?」
「そう。そうだよ」
金山は、ちょっと廊《ろう》下《か》の方を振《ふ》り返《かえ》った。三木たちが戻《もど》って来る気配はない。
「気分はどう?」
「——暑い」
と、女の子は、けだるい声で言った。
「うん。熱があるんだ。でも大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。ちゃんとお薬をあげる」
金山は、そっと女の子の方へかがんで、
「君の名前は?」
と言った。
女の子は、トロンとした目で金山を見て、ちょっと面《めん》倒《どう》くさそうに、
「山崎——千《ち》晶《あき》」
と言った。「千に水晶の晶よ」
「千晶ちゃんか。きれいな名前だな」
「ママが千枝っていうの」
女の子は、ちょっと笑顔を見せたが、すぐに、顔は歪《ゆが》んだ。「ママ……どうしたかなあ……」
「ママはどこにいるの?」
「おうち」
「どこの?」
千晶は、ちょっと首を左右に振った。
「どうして——ここへ来たのか、憶《おぼ》えてる?」
と、金山は訊《き》いた。
「自動車で」
「三木って人の、かい?」
千晶は、ふっと息をついて、
「あの人、嫌《きら》いだ」
と言った。
「君を、無理に連れて来たんだね?」
「おじいちゃんがね、助けに来てくれる」
と、千晶は、少し元気が出た様子で、言った。
「おじいちゃんか」
「偉《えら》いんだもん。警部なんだから」
「——警察の?」
「小《こ》西《にし》警部っていうんだよ。知らない?」
小西。——金山は、その名前に聞《き》き憶《おぼ》えがあった。
そうだ。中込依子の事件のとき、県警からやって来たのが、確か小西という警部だった。では——その小西の孫なのか。
「あの三木って人は、君のおじいちゃんの部下だったんだろ?」
と金山は訊《き》いた。
「うん。でも、人を殺したんだよ」
「殺した?」
「血がついてるんだもの。千晶、見えるの」
と、ちょっと得意げに言った。
「そうか。——でも、そのことは、黙《だま》ってた方がいいよ」
「うん、知ってる。嫌《きら》いだから、口きかないんだもん」
「それがいい」
と、金山は微《ほほ》笑《え》んだ。
少しずつ事情が分って来た。三木は、小西警部の部下だった。しかし、正体が知れて、三木は逃《とう》亡《ぼう》するはめになり、そのとき、この子をさらって来たらしい。
それなら、三木や多江がこの子のことを気にしているのも分るというものだ。この女の子は、いわば、三木を守るための人《ひと》質《じち》なのだ。
「よし」
と、金山は言った。「おじちゃんも、君を助けるのに力を貸すぞ。おじいちゃんの所へ帰れるようにね」
「本当?」
千晶が目を輝《かがや》かせた。それから、ふっと廊《ろう》下《か》の方へ目をやって、
「あの人が来るよ」
と言った。
ハッと振《ふ》り向《む》いた金山は、少しして玄《げん》関《かん》を上って来る足音を聞いた。
この子は、やはり、彼らに対して、何か特別に鋭《するど》い感覚を持っているのだ。
「いいかい」
金山は、千晶の方へ顔を寄せて、低い声で言った。「じっと眠《ねむ》ってるふりをしなさい。そのうち、本当に眠っちゃうから、いいね。決して目を開けないで」
「うん」
千晶は素《す》直《なお》に目を閉じた。
「——どうだい?」
廊《ろう》下《か》から、三木の声がした。
金山は、立ち上ると、わざと少し大げさに息をついて、
「外へ出よう。暑くてたまらん」
と、三木を押《お》しやった。
表に出ると、金山はハンカチで、出てもいない汗《あせ》を拭《ぬぐ》うふりをした。
「やれやれ、息が詰《つ》まりそうだ」
と、深呼吸して、「他の二人はどうした?」
と、訊《き》いた。
「隣《となり》の家にいる」
と、三木は顎《あご》をしゃくって、「どうなんだ、あの子は?」
「熱が高い」
「それぐらい分ってる」
と、三木が苛《いら》々《いら》したように、言った。
「分ってるだと?」
金山は、三木に向って、かみつきそうな声を出した。「分ってて、あんなひどい所へ寝《ね》かしていたのか! あんな所で、病気が治ると思うのか!」
三木も、ちょっとたじろいだ。
「それは——仕方がなかったんだ」
「ともかく、病院へあの子を運ぼう」
と、金山は言った。
「それはだめだ!」
三木が即《そく》座《ざ》に言った。「あの子はここから動かさん」
「それなら、命は保証できん」
二人のやりとりが耳に入ったのか、隣の家から、多江と糸川繁子が出て来た。
「——どうなの?」
多江が金山に訊《き》いた。
「今のところは、ただの風《か》邪《ぜ》だ。しかし、熱が四十度もある。この状態が続けば、肺《はい》炎《えん》を起して、死ぬかもしれん」
「それを何とかしろ! 医者だろう」
と、三木がやり返す。
「こんな所じゃ、いつも容態を見ているわけにもいかん。病院へ運んで治《ち》療《りよう》しなくては、危険だ」
多江と三木は顔を見合わせた。
「——あんたたちが決めてくれ」
金山は、わざと、どうでもいいような調子で言った。「その代り、死んだって、こっちのせいにしないでくれよ」
金山は、少し、その辺をぶらつきながら、欠伸《 あ く び》をした。
三木と多江は、低い声で話し合っている。——どういう結論になるか、金山にも予測できなかった。
三木としては、町へあの子をやってしまうのは、我が身を危険にさらすことになる。しかし、千晶に死なれては、もっと困るわけである。
金山は、この賭《か》けがまずうまく行くかどうか、祈《いの》るような思いで、歩き回っていた。
せいぜい二、三分の時間だったろうが、ずいぶん長く感じられた。
「——金山さん」
多江の方から、声をかけて来た。
「どうするね?」
「いいわ」
と、多江は肯《うなず》いた。「あの子、あなたの所へ運んでちょうだい」
「分った」
金山は、ちょっと肩《かた》をすくめた。「しかし、何しろこっちは老人だ。八つの子を背負って町まで戻《もど》るのかね」
「俺《おれ》が運ぶよ」
三木が、渋《しぶ》々《しぶ》という顔で言った。
「そいつは助かるね」
金山は、のんびりした調子で、「じゃ、私は先に病院へ戻って、仕度をしておくことにしよう」
「私はどうします?」
と、糸川繁子は言った。
「入院の用意は一人でできる。——お前は女の子に付《つ》き添《そ》って来い」
「分りました」
「鞄《かばん》を取って来てくれ」
と金山が言うと、糸川繁子は、顔をしかめた。
「あの部屋から、ですか?」
「分ったよ。自分で取って来る」
こうなると見《み》越《こ》していたのだ。金山は、いやいや行くんだ、という顔で、家の中へ戻った。
——奥《おく》の部屋へ入ると、千晶が目を開いた。
「おじちゃんだって分ってた」
「そうか。——偉《えら》いぞ。いいか、よく聞くんだ。看護婦も、あいつらの仲間だ。悪い奴《やつ》なんだ。君を病院まで運んで行くが、口をきくんじゃないぞ」
「うん」
千晶は肯《うなず》いた。「千晶、眠《ねむ》ってるから、いいよ……」
そして目を閉じた。
町へ急ぐ金山の足取りは軽かった。
まるで、一度に五、六年も若返ったかのようだ。
もちろん、過大の期待は禁《きん》物《もつ》だ。しかし、あの女の子が、この町にある変化を起す可能性があることは確かである。それだけでも、この町にとっては大したことなのだ。
ゼロから1になるのは、たった1しか違《ちが》わなくても、決定的な違いなのである。
孫を追って、小西という警部もやって来るかもしれない。——考えてみれば、ここへ逃《に》げて来たことで、三木は、この町を危機——彼らにとっての、だが——に陥《おとしい》れることになったのだ。
しかも、安全のため、と思って誘《ゆう》拐《かい》して来た八歳《さい》の女の子そのものが、彼《かれ》らにとって一番危険かもしれないのだから、皮肉なものである。
「待って!」
突《とつ》然《ぜん》声がして、金山は飛び上るほどびっくりした。
振《ふ》り向《む》くと、木立ちの間から、若い女が姿を見せた。
そうだった!——谷へ向うとき、見かけた娘《むすめ》だ。谷での出来事のせいで、すっかり忘れてしまっていた。
「君は——誰《だれ》だね?」
と、金山は言った。
「金山先生……ですね」
「そうだが」
金山は当《とう》惑《わく》した。
「宮田尚《なお》美《み》です」
「宮田?」
金山は、じっと、娘の顔を見つめた。「——そうか。宮田の娘……。妹がいたね」
「はい」
宮田尚美は、ひどく疲《つか》れて見えた。
「お母さんが亡くなったのは、ついこの前だったが……。君は来てたかな」
「いいえ」
と、宮田尚美は首を振《ふ》った。「遅《おく》れたんです。母の葬《そう》儀《ぎ》に間に合わず……。でも——私、母を見たんです!」
「何だって?」
と、金山は訊《き》き返《かえ》して、びっくりした。
宮田尚美が、よろけて倒《たお》れそうになったのである。
「しっかりしろ!」
金山は、尚美の体を支《ささ》えた。
「すみません……。ずっと山の中をさまよっていて……」
尚美は、弱々しく呟《つぶや》いた。
まずいな、と金山は思った。ぐずぐずしていると、三木たちが追いついて来る。
「お母さんに会ったのか。——亡くなった後で」
「そうです」
尚美は肯《うなず》いた。「——母は、どうなったんでしょう?」
「奴《やつ》らにやられたんだ」
「奴ら?」
「吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》だ」
「やっぱり……」
と、尚美は力なく肯いた。「友だちも、一人、行《ゆく》方《え》が知れないんです。その子を捜《さが》してるうちに、山の中で道に迷ってしまって——」
「そうか。ともかく、今は、奴らがここを通るから、隠《かく》れていた方がいい」
と、金山は、尚美を、傍《そば》の岩の陰《かげ》へ連れて行った。「病院は知ってるな?」
「はい……」
「ここを連中が通り過ぎて、しばらくしたら、病院の裏手においで。夕方がいい。陽《ひ》の沈《しず》み切《き》らないうちに」
「分りました」
宮田尚美は、素直に肯いた。
「じゃ、ここでじっとしているんだ。——いいね」
「はい」
「心配することはない。奴らの天下も、いつまでも続かないよ」
金山は、暖かい手で、尚美の肩《かた》を軽く叩《たた》くと、町に向って、再び急いだ。
——残った尚美は、疲《つか》れ切ってはいたものの、金山に会えたことで、やっと気分も少し晴れていた。
もちろん、行《ゆく》方《え》の分らない尾《お》形《がた》洋《よう》子《こ》のことも心配だったが、差し当りは、自分の身を心配しなくてはならないのである。
金山の所へ行けば——何か手がかりもあるだろう。それに……そう、食べるものも……。
正直なところ、尚美の疲《ひ》労《ろう》には、林の中をさまよい歩いて何も食べていないという理由も大きかった。
もう少しの辛《しん》抱《ぼう》だわ。もう少し。
——ホッとしたせいか、その岩陰で、尚美は眠《ねむ》り込《こ》んでしまった。
三木や多江、それに糸川繁子が、幼い子を背にして通り過ぎて行くのにも、気付かなかった。
そして「陽の沈み切らないうちに」という、金山の言葉は、尚美の疲《ひ》労《ろう》には、とてもかなわなかった。
夜の帳《とばり》が、宮田尚美の深い眠《ねむ》りを、押《お》し包《つつ》み始めた……。