母さん……。
行ってしまわないで。そんなに哀《かな》しそうな顔でこっちを見ないで。
ああ、母さん! 死んでしまったのなら、なぜ灰の中の骨片になって、眠ってくれなかったの! なぜ、そんな風にさまよっているの?
母さん……。
宮田尚美は、半ばまどろみ、半ば目覚めながら、呟《つぶや》いていた。
いや、声になっているのかどうか、自分でも分らない。ただ、自らの頭の中では、はっきりと叫《さけ》んでいたのだ。
そこには母がいた。あの、白《しろ》装《しよう》束《ぞく》 で、長く髪《かみ》を垂らした母が。哀しげな表情で、じっと尚美を見つめているのだった……。
母さん……。私に何の用なの? どうしろっていうの?
尚美は、言いようもない焦《あせ》りに胸をこがしながら、母の方へとにじり寄ろうとする。
母は、すぐそこにいる。——もう、吐《は》く息もかかろうかというくらいの所に。
母さん——。
尚美が手を伸《の》ばすと、その手は、母の体をスッと突《つ》き抜《ぬ》けて、向う側の虚《こ》空《くう》を、空《むな》しくつかんだ。
キャーッ!
そう声を上げたのかどうか。尚美自身も、目覚めて、しかとは分らなかった。
ここは……。どこだろう?
木の幹《みき》にもたれて眠《ねむ》っていたのだ。木の幹に……。そう、金山医師に出会って、病院へ来るように言われた。あれは、夢《ゆめ》ではなかった。
ハッとして、周囲を見回す。
もう、すっかり夜になっていた。完全な闇《やみ》でないのは、月明りのおかげで、夜も相当にふけているようだ。
尚美は、「陽《ひ》の沈み切らないうちに」来いという金山の言葉を思い出した。
そうだった。時間の過ぎるのを待っているうちに眠ってしまったのだ。
どうしようか?
尚美は迷った。夜の森の中を抜けて行くのは恐《おそ》ろしい気がした。
何かに取り囲まれているような、あの気配——あの恐《きよう》怖《ふ》は、二度と体験したくなかった。
しかし、今は、行くべき場所がはっきりしている。それも、町へ向って行くのだから、これまでとは違《ちが》う。
金山も心配しているだろうし、それに——正直なところ、死ぬほどお腹《なか》が空《す》いていた。疲《つか》れ切《き》ってもいたのである。
行こう、と尚美は決心した。ここでじっとしていても、また一日、時間を失うだけのことだ。
立ち上ると、変な格《かつ》好《こう》で眠っていたせいか、少し腰《こし》や足が痛んだ。でも、歩けないというほどでもない。
尚美は、ゆっくりと歩き出した。町への道は、よく分っている。
いくら長く離《はな》れていたといっても、かつて住んでいた所である。月明りが充《じゆう》分《ぶん》なら、迷うことはない。
少し歩くうちに、腰や足の痛みもおさまって、尚美は足取りを早めた。
町まで、記《き》憶《おく》では、そう大した道のりではなかったはずだ……。
「——尚美」
いきなり声をかけられて、尚美は、
「キャーッ!」
と、悲鳴を上げて、飛び上ってしまった。
「ごめん! びっくりさせるつもりじゃなかったんだ」
懐《なつか》しい声が聞こえた。振《ふ》り向《む》いて、尚美は思わず、ヘナヘナとその場に座り込《こ》んでしまった。
「洋子ったら!」
そう。それは、行方が分らなくなっていた尾形洋子だったのだ。
「しっかりしてよ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
と、洋子は心配そうにかがみ込んで言った。
「大丈夫、もないもんだわ!」
尚美は、泣き笑いの声で、「じゃ、何ともなかったのね!」
「ごめんね。道に迷っちゃったのよ。だって、尚美、どんどん先に歩いて行っちゃうんだもの」
と、洋子は言った。「ちょっと、何だか足音みたいなものが聞こえて、足を止めてたら、あなた、もう見えなくなっちゃったのよ」
「大声で呼べばいいのに!」
尚美は、やっと気を取り直して、立ち上った。「でも良かった! 私、てっきり、あなたがやられたのかと——」
「やられた?」
と、洋子が訊《き》き返した。「誰《だれ》に?」
「私の母とか……」
尚美は、ちょっとためらった。「いいわ、ともかく今は、そんな話をしてられない。行きましょう」
「どこへ?」
「町よ。金山先生のところ」
「金山って?」
「お医者さんなの」
と、尚美は、洋子の腕《うで》を取って歩き出しながら言った。「私たちを助けてくれるわ。さあ、急ぎましょう」
「ええ」
二人は町への道を急いだ。
尚美は、洋子と出会えた嬉《うれ》しさで、全く気付いていなかった。——後ろから声をかけられるまで、背後にいたはずの洋子の足音が、この静けさの中で、全く聞こえていなかったことに……。
「あの子って、どうしてあんなにいやな匂《にお》いがするんでしょうね」
と、糸川繁子が言った。
金山はチラッと彼《かの》女《じよ》の方へ目をやった。
「あんな所に寝《ね》かされとったんだぞ。熱で汗《あせ》もかいとる。匂って当り前だ」
「そうでしょうか」
糸川繁子は、顔をしかめて、「でも近寄りたくないわ」
こっちも近寄ってほしくないさ、と金山は心の中で呟《つぶや》いた。
「それでも看護婦か」
金山は、ぶっきら棒な口調で言って、「まあいい。あの子の面《めん》倒《どう》は俺《おれ》が見る。——もう帰っていいぞ」
「そうしますわ」
糸川繁子は、白衣を脱《ぬ》いだ。「今日は何だか気分が悪くて」
「珍《めずら》しいな。もう年《と》齢《し》なんじゃないか?」
と、金山はからかった。
「明日は——」
「のんびりでいい。今夜がヤマだからな、あの子は」
「危いんですか」
「分らん。あそこでどれくらい栄養が取れたかにもよる」
金山は肩《かた》をすくめた。「後は神の思《おぼ》し召《め》しだ。お前の神とは違《ちが》う神の、な」
糸川繁子は、ちょっと冷やかすように、
「先生にしては珍しい皮肉ですこと」
と言い返した。「じゃ、お先に失礼しますわ」
「ああ、ご苦労」
心にもないことを言って、金山は、手を上げて見せた。
——糸川繁子が病院の裏口から出て行くのを見届けると、金山は、ホッとした。
まず鍵《かぎ》をかけ、それから、診《しん》察《さつ》室《しつ》の方へ戻《もど》って行く。
診察室の奥《おく》の小部屋。——本来なら、レントゲンとかをとるときに使う部屋なのだが、ここにあの少女——山崎千晶を寝《ね》かせてあった。
診察室との仕切りはカーテンだけである。
金山は、栗原多江たちが感じた、彼らにとっての「いやな空気」が、あの少女そのもののせいだということを、糸川繁子に知られたくなかったのである。
だから少しでも、糸川繁子がそばを通らずに済むよう、ここに少女を置いたのだった。
幸い、何も気付かれなかったようだ。しかし、油《ゆ》断《だん》はできない。
金山は、そっとカーテンを開けた。
千晶は眠《ねむ》っていた。——金山にとっては、まるで高原のように爽《さわ》やかな空気を、周囲に漂《ただよ》わせて。
そっと手を少女の額《ひたい》に当ててみる。熱は、ほとんど下っていた。
この分なら、明日の朝までに、すっかり良くなるだろう。
金山は、ひとまずホッとした。
「さて、と……」
問題はこれからである。
この子を、元気になったからといって、三木や多江の手に戻したら、もう金山の手は届かなくなる。そうさせてはならない!
しかし、具合が悪いと嘘《うそ》をついても、何しろ糸川繁子が毎日ここへ来ているのだ。
そんな嘘は、すぐに見破られてしまうだろう。
では——この子が伝染病だ、とでもいうことにするか?
それも一つの手ではある。しかし、だからといって看護婦まで近付けないというのでは却《かえ》って怪《あや》しまれよう。
それに、人間にとっての伝染病が、必ずしも「彼《かれ》ら」にとっても危険とは限らないのだし……。
困ったな、と金山は腕《うで》を組んだ。
そのとき——トントン、と、どこかを叩《たた》くような音がした。
金山は、ちょっと顔をしかめた。糸川繁子が戻《もど》って来たのかな?
トントン、とまた聞こえて来る。裏口らしい。金山は診《しん》察《さつ》室《しつ》を出て——その瞬《しゆん》間《かん》に思い出していた。
あの娘《むすめ》だ! 昼間、山で会った——宮田尚美だ!
千晶の治《ち》療《りよう》に熱中していて、すっかり忘れてしまっていたのだった。
しかしこんな夜ふけに……。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だったのだろうか?
裏口の所へ行って、金山は念のために、
「誰《だれ》だね?」
と、声をかけてみた。
「宮田尚美です。すみません」
低い声が洩《も》れて来た。
金山は急いで鍵《かぎ》をあけた。
「——やあ、遅《おそ》かったね。心配してたんだ」
この程度の出まかせは、年《と》齢《し》に免《めん》じて許してもらおう。
「すみません、私、あれから眠《ねむ》ってしまって……。あ、この人、見失ってた友だちです」
尚美が、尾形洋子を紹《しよう》介《かい》した。
「ともかくよく来た。さあ上んなさい」
金山は二人を薄《うす》暗《ぐら》い茶の間へ通した。
「——ああくたびれた!」
と、尚美はぐったりと座り込《こ》んだ。
「大変だったな。——どうだね、腹が空《す》いとろう。お茶《ちや》漬《づけ》ぐらいしか出せないが」
「すてき! よろしいんですか」
「ああ構わんとも。座っていなさい」
金山は台所に行って、ヤカンをガスコンロにのせた。
「すぐに沸《わ》くよ」
金山は、尚美と洋子の前にドカッと腰《こし》をおろした。
——ちょっと、沈《ちん》黙《もく》があった。
「何から話したらいいのか、見当もつかん」
と、金山は言った。
「今、ここへ来る途《と》中《ちゆう》で、ちょっと目にしました」
と、尚美が言った。「暗い通りを、まるでお天気のいい昼下りみたいに散歩しているのが——」
「奴《やつ》らだ」
と、金山は肯《うなず》いた。「そう人数は多くない。しかし、今では町を完全に手中にしている」
「どうしようもないんですか」
「今のところはね」
金山は、そう言って、「お母さんは気の毒なことをした」
と、話を変えた。
千晶のことは、まだ話したくなかった。この二人のためにも、その方がいい、と思ったのだ。
「母は——」
尚美は、少しためらってから、「やっぱり吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》になったんでしょうか」
「そうじゃなかろう」
と、金山は首を振《ふ》った。「それなら、あんただって襲《おそ》われたはずだ」
「でも、確かに母が現われたんです」
「よくは知らんのだがね」
と、金山は首を振った。「映画などでよくあるように、吸血鬼にかまれると、次々に吸血鬼になっていくとは限らんようだ。大部分はただ死んでしまう。つまり、急激に血を失ったショックで死ぬ」
「母もそうして……?」
と、尚美は青ざめた顔で、「父は? 父はどうなんでしょうか」
「あんたの父親か」
金山は、ちょっと目をそらした。「あれは——もうだめだよ」
尚美は顔色を失った。
「だめって——では——」
「いや、そういう意味じゃない」
金山は首を振った。
「どういうことなんです?」
「——言いにくいがね」
「構いません」
「そうか」
金山は、再び尚美をしっかりと見《み》据《す》えた。「あんたは、しっかり者のようだ。ちゃんと現実を受け止められるだろう」
尚美はゆっくりと肯《うなず》いた。
「あんたの父親は、連中の手先のようなものだ。下働きというのか、吸血鬼映画には必ず伯《はく》爵《しやく》と下男が出て来るだろう、ちょうどああいう風に、働いている」
金山は、あっさりとした口調で言った。
尚美は、震《ふる》える顎《あご》を必死で押《おさ》えながら、
「母が——母が死んだ後もですか」
と言った。
「そうだ。いや……本当のところは、あんたの父親が、何かしくじりをやらかして、多江の怒《いか》りをかった」
「多江?」
「栗原多江。——連中の中では女王様といった存在の若い女だ。あんたの父親の頭を叩《たた》き割りかねなかった。それを、あんたの母親が、身代りになると言い出したのだ」
「母が……」
「あんたの父親の代りに、血を吸われて死んだ。——あんたの前に姿を現わしたのは、たぶん、死にきれずにいたからだろう」
尚美は、目に溢《あふ》れた涙《なみだ》をこぼれないようにじっと持ちこたえていた。
「父は——父は——止めなかったのですか」
「止めなかった。他人のように、あんたの母親の死体を運んで埋《う》めたよ」
金山は、腰《こし》を上げた。「湯が沸《わ》いたな」
尚美の頬《ほお》に、涙が伝い落ちた。