金山は、ホッとしていた。
話のショックにも負けず、宮田尚美が、ちゃんとお茶《ちや》漬《づけ》を食べているからだ。
もう一人の方——尾形洋子は、じっと黙《だま》りこくって、ただ黙《もく》々《もく》とお茶漬を食べていたが、こちらは、何だか生《せい》気《き》がない感じがした。
「——ごちそうになって」
と、尚美は、はしを置いた。
「いや。辛《つら》い話だったろう」
「でも、今はそんなことを言っているときじゃありません」
尚美の目に、もう涙《なみだ》はなかった。「何とかして、闘《たたか》わなくては」
「うん」
金山は肯《うなず》いた。「嬉《うれ》しいよ。そう言ってくれると」
「誰《だれ》か、味方になってくれる人は?」
「いないな、町の中には」
金山は首を振《ふ》って、「しかし、こっちも、もう若くはない。それに、正直なところ、他の連中と同様だったのさ。今日までは、だ」
「——え?」
「看護婦は奴《やつ》らの一味だ。ここへ通って来て、見張りを兼ねとるんだ。見張りと家政婦、それに——情婦とな」
「まさか」
「本当だ」
金山はそう言って肯いた。「こんなことを話すのはみっともない。しかし、わしがどの程度の人間かを、知っておいてほしいのだ」
「分りました」
「それでも、信じてくれるかね?」
「はい」
尚美はすぐに肯いた。
「ありがたい」
金山は、胸が熱くなった。——この娘《むすめ》は信じて良さそうだ。
考えてみれば、自分など、いつ心臓がくたびれ果てて止ってしまうか分らないポンコツである。
万一のときのことを考えて、この娘に、あの千晶のことを教えておいた方がいい。
「ちょっと来てくれ」
金山は、立ち上った。「——今日、貴重な宝物を見付けたんだ」
「まあ。何ですの?」
「奴らと対決する決め手になるかもしれん。もちろん、まだはっきり言い切れないが」
——金山は、診《しん》察《さつ》室《しつ》へ入ると、明りを点《つ》けた。
「こっちだ」
金山は、奥《おく》の小部屋のカーテンを、そっと開けた。
尚美は中へ入って、小さなベッドの上に寝《ね》ている千晶を見た。
「可《か》愛《わい》い。——この子は?」
と、金山を見る。
「熱を出していたんだが、今はもう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。これからゆっくり事情を説明するよ」
「ええ。ほら、洋子、見て。可愛い子じゃない」
と、尚美が言うと、洋子もカーテンをからげて中へ入ろうとしたが、急に口を押《おさ》えて、後ずさった。
「洋子! どうしたの?」
びっくりした尚美が急いで出て来る。
「だって——ひどい匂《にお》いじゃないの」
「匂い?」
「待て!」
金山が洋子の腕《うで》をぐいとつかんだ。「匂いだと? あの子の近くにいられないのは、奴《やつ》らの仲間だからだぞ」
「何ですって!」
尚美が愕《がく》然《ぜん》とした。「洋子——」
突《とつ》然《ぜん》洋子が金山の手を振《ふ》り払《はら》おうとして暴れ出した。
しかし、金山の方も、不意をつかれたわけではないので、うまくかわして、洋子の手を後ろ手にねじり上げた。
「離《はな》せ! この老いぼれ!——殺してやる!」
洋子が、別人のような形《ぎよう》相《そう》でわめいた。
尚美は呆《ぼう》然《ぜん》として、その光景を見つめていたが、金山の、
「早く! この女の口をふさげ! 何か布を持って来るんだ!」
という声に、やっと我に返った。
急いで、診《しん》察《さつ》台《だい》のわきのカーテンを引きちぎると、それで洋子の口を押《おさ》えにかかる。
「かまれないようにしろ!」
と金山が叫《さけ》ぶ。「そのまま縛《しば》り上げるんだ!」
洋子の抵《てい》抗《こう》も凄《すご》かった。何といっても金山も老人で、尚美とて格別に力があるというわけではない。
二人して床《ゆか》に押えつけるようにして、やっと、洋子を縛り上げた——そのとき、激《はげ》しい爆《ばく》発《はつ》音《おん》がして、金山は、
「アッ!」
と声を上げて、床に転がった。
左腕に、血がにじんでいる。
尚美が振り向くと、そこに拳《けん》銃《じゆう》を手にした女の姿があった。
糸川繁子だった。
「——貴《き》様《さま》」
金山が、左腕の傷を押えながら、やっと上体を起した。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
と、尚美が駆《か》け寄る。
「こいつが看護婦だ」
と、金山がいまいましげに言った。「話を聞いてたな!」
「先生を見張るのが私の役目ですもの」
と、糸川繁子は微《ほほ》笑《え》んだ。「特にあの女の子は大切だから、と三木さんが言われて、これを——」
と、拳銃を、手の中で軽く揺《ゆ》らした。
「貸してくださったんです」
「殺しゃよかろう」
「その前に、その子を治していただかないとね」
と、糸川繁子は、奥《おく》のカーテンの方へ目をやった。「でも、本当はもう治っているんでしょ?」
「自分で見たらどうだ」
と金山は言った。
糸川繁子が真《しん》剣《けん》な顔になった。
「あれは危険な子です。三木さんも、とんでもない子を連れて来たものだわ」
「あの子に手を出すな!」
金山は立ち上ろうとした。
「動かないで!」
糸川繁子が銃《じゆう》口《こう》を金山へ向けた。「本当に撃《う》ちますよ」
「やってみろ」
金山は、目をギラつかせるほど大きく見開いて、糸川繁子をにらみつけた。「俺《おれ》はもうこの年《と》齢《し》だ。いつ死んだって怖《こわ》かないぞ。——さあ、やれ!」
「強がってもだめです」
と、糸川繁子は笑って見せたが、それは引きつったような笑いにしかならなかった。
金山の気迫が、銃に優《まさ》るばかりだったのである。
そのとき——突《とつ》然《ぜん》、カーテンが開いた。
「どうしたの?」
山崎千晶が、キョトンとした顔で立っていた。
「出て来ちゃいかん!」
と金山が言った。
千晶は、拳《けん》銃《じゆう》を持った女と、けがをしている金山と、そしてそれを支《ささ》えている若い女を見た。
「——うたれたの?」
と、千晶は言った。
「逃《に》げるんだぞ!」
金山は、糸川繁子の方へ飛び出した。
銃が鳴った。尚美が口を手で押《おさ》える。
金山の腹を弾《だん》丸《がん》が貫《つらぬ》いた。金山は、行きつく前に倒《たお》れた。
「おじちゃん!」
千晶が金山の方へと駆《か》けつける。尚美が止める間もなかった。
「来るな……」
金山が苦しげに呻《うめ》いた。「早く逃げなくちゃ……」
——撃った糸川繁子の方も、とっさに引き金を引いただけのことで、その結果に、やや呆《ぼう》然《ぜん》としている。
尚美は、千晶を救おうと、前へ出ようとして、足を止めた。
千晶が、金山のわきから立ち上ったのである。
「おじちゃんを殺した!」
と、千晶が甲《かん》高《だか》い声を上げた。
「私はただ——」
「死んじまえ!」
千晶が叫《さけ》んだ。「死んじまえ!」
激《はげ》しい怒《いか》りが叩《たた》きつけられた。
尚美は、一《いつ》瞬《しゆん》、目を疑った。——糸川繁子が、グラッとよろけた。手から拳銃を取り落すと、二、三歩後ずさった。
「やめて……苦しい……」
千晶が、じっと糸川繁子をにらみつけている。
「暑い……。暑いわ……やめて……お願いだから……」
糸川繁子は苦《く》悶《もん》に顔を歪《ゆが》めながら、もがくように、何かから身を守ろうとするように手を上げた。
「助けて——苦しい」
声が上《うわ》ずった。
尚美は、ただ呆然と、それを見つめているしかなかった。
糸川繁子の周囲に、白いもやのようなものが漂《ただよ》い始めた。——と思うと、たちまち、体の方々に、火がついた。
いや、発火した、というべきか。その火は真《まつ》青《さお》だった。
まるで学校の化学実験で見たような、青い炎《ほのお》だった。
その青い炎が、一気に、糸川繁子の全身を包んで行った。
糸川繁子の悲鳴は、かすかなものでしかなかった。
声を出す力も残っていなかった、というべきだろうか。
炎はどんどん縮んで行った。——燃え尽《つ》きて行くにつれて、炎が白く光を発して行く。
やがて、残ったのは、小さな光と、黒くくすぶる灰の一《ひと》握《にぎ》りだった。
尚美の膝《ひざ》は震《ふる》えていた。
これがこの小さな女の子の力なのか。
しかし、金山がこの子のことを「宝物」と呼んでいた意味が、やっと分った。
この子は、吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》たちを滅《ほろ》ぼす力を持っているのだ!
尚美は我に返って金山の方へ駆《か》け寄った。
「金山さん! しっかりして下さい!」
抱《だ》き起そうとしても、金山の重さは、尚美の手に余った。
かすかな息はあったが、もう長くはもたないと思えた。
「——死んだか」
金山が、かすかな声で言った。
「看護婦が、火に包まれて」
「そうか……」
金山は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。「凄《すご》いぞ。この子は——宝物だ」
「私が守ります」
「頼《たの》む」
金山はゆっくりと息を吐《は》き出した。「これで、やっと……」
もう、それきり、金山は動かなかった。
尚美は、ハッとした。
洋子のことを思い出したのだ。——振《ふ》り向《む》いて、愕《がく》然《ぜん》とする。
縛《しば》ったカーテンが、抜《ぬ》けがらのように落ちている。
逃《に》げたのだ!
尚美は立ち上った。糸川繁子の落した拳《けん》銃《じゆう》を拾って腰《こし》に挟《はさ》むと、
「さあ! 逃げるのよ!」
と、千晶の手を取った。
千晶は、尚美を見て、
「私、山崎千晶。お姉ちゃんは?」
と訊《き》いた。
尚美は微《ほほ》笑《え》んだ。
「宮田尚美よ。よろしくね」
「うん」
千晶も笑顔になる。——それは、尚美の胸から恐《きよう》怖《ふ》を拭《ぬぐ》い去り、闘志を燃え上らせるに充《じゆう》分《ぶん》な、魅《み》力《りよく》ある笑顔だった。