「千《ち》晶《あき》!」
叫《さけ》ぶように言って、千《ち》枝《え》は、ハッと起き上った。
「どうした?」
小《こ》西《にし》は、娘《むすめ》の肩《かた》を急いで抱《だ》いた。「夢《ゆめ》でも見たのか」
千枝は、窓の方へ目をやった。
「まだ——朝にならないの?」
「もう少しだ。明るくなって来ている」
小西は、千枝の肩を抱く手に、少し力をこめた。
千枝は、父親の手を、固く握《にぎ》った。汗《あせ》がにじんでいる。
暗がりの中で、動く気配があった。
「どうかしたんですか」
と、声をかけて来たのは、宮《みや》田《た》信《のぶ》江《え》だった。
「いや、何でもない」
小西は低い声で言った。「眠《ねむ》ってくれ。朝まで、もう少し時間がある」
ちょっと物音がして、信江がやって来た。
「ごめんなさい、起してしまって」
千枝が言った。
「いいえ。どうせ眠れなかったんですもの」
と、信江は、カーデガンを肩にかけて、言った。「何か夢を?」
「ええ……。千晶が誰《だれ》かに追われて、助けを求めてる夢……」
そうか? 本当に夢だったのだろうか?
千枝は自分へ問いかけた。
「きっと大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
と、信江は千枝の肩に、そっと手を触《ふ》れて、「小さい子の生命力って凄《すご》いんですから」
「そうね。本当に……」
千枝は、自分の不安を紛《まぎ》らわすように、「本《もと》沢《ざわ》さんは?」
「グーグー寝《ね》てます。寝息がうるさくって。幸せだわ、本当に」
小西が、ちょっと笑った。その笑いが、少し緊《きん》張《ちよう》をほぐしたようだった。
「いや、今はぐっすり眠っといてもらわんとね。朝になったら、大いに働いてもらうことになる」
「あんまり当てにしない方が、いいと思いますけど」
と、信江は言った。
——小西と娘の山《やま》崎《ざき》千枝、そして宮田信江に本沢武《たけ》司《し》の四人は、陽《ひ》が昇《のぼ》ったら、〈谷〉へ向うことにして、今は、通りすがりの空家に入り込《こ》んで、夜を過していた。
空家といっても、そうひどい状態ではなかったので、野宿するよりはいいだろう、ということになったのである。
寂《さび》しい林の中にポツンと立った一《いつ》軒《けん》家《や》で、その造りから見て、別《べつ》荘《そう》のように使われているのかもしれないと小西は思った。
玄《げん》関《かん》の鍵《かぎ》を壊《こわ》して、中へ入ってみると、家具もちゃんと備えてあって、住める状態のまま、ただ埃《ほこり》よけの白い布がかけてあるのだった。
もし、一時的に閉めてある別荘だとすると、勝手に入るのは法律に触《ふ》れることになるのだが、今の小西には、そんなことは、大した問題ではなかった。ともかく、今は孫の千晶を救い出すことが先決だ。そのために少々の——いや、かなりの無茶だって、やってのける。
ともかく、相手はまともな敵ではないのだから。こちらも充《じゆう》分《ぶん》に覚《かく》悟《ご》を決めてかからなくてはならない。
小西の計算では、ここから問題の谷まで、そう大した距《きよ》離《り》ではない。夜が明けたら、すぐに出発して、昼ごろには着けるだろう。町へ入ることを考えるのは、その後だ。
もちろん、孫の千晶の身を思うと、今すぐにでも町へ突《とつ》撃《げき》したい気持だが、それは、おそらく自殺行《こう》為《い》だろう……。
「お父さん、休んで」
と、千枝は言った。「私、どうせ眠《ねむ》れそうもないから。朝になったら、遠《えん》慮《りよ》なく叩《たた》き起してあげるわ」
千枝が、無理に冗《じよう》談《だん》めかしているのが、却《かえ》って小西には辛《つら》い。
「分った。どうせ年寄りだ。眠りは浅いからな」
小西はソファの上に、横になった。——眠る気はなかったが、千枝の心づかいを、無にしたくなかったのである。
「ちょっと表に出て来るわ」
と、千枝は言った。
「私も一《いつ》緒《しよ》に」
信江が肯《うなず》く。「ちっとも眠くないんですもの」
千枝は黙《だま》って微《ほほ》笑《え》んだ……。
——外は、まだ暗い。星がいくつも頭上で寒そうに震《ふる》えて見えた。
空気は冷たかった。おそらく、夏でも、冷え冷えとしているのだろう。
「——静かですね」
と、信江は言った。「私も、都会に慣れちゃったので、あんまり静かだと、却って眠れません」
「そうね……」
千枝は、遠い空へと目をやった。
「——ご心配ですね、お子さんのこと」
信江は、そう言ってから、「当り前のことを言って、ごめんなさい」
「いいえ。あなただって、お姉《ねえ》さんが——」
「姉は大人《 お と な》ですもの。自分の身は守れるでしょう。もちろん——場合によりますけど」
千枝は、眉《まゆ》を寄せて、厳《きび》しい表情になった。
「実はね……さっき、千晶の声を聞いたような気がしたの」
「え?」
「それが夢《ゆめ》の中だったのか、それとも本当に聞こえたのか、はっきりしないのよ。完全に眠《ねむ》っていたわけでもないような気がするけど……。でも、聞こえた、といっても、頭の中に響《ひび》くようでね。遠くに聞こえた、というのでもないの。——きっと夢だったのね。つい本当のことのように思ってしまって……」
と、千枝は首を振《ふ》った。
「でも——」
信江は、じっと千枝を見つめた。「千晶ちゃんに、何か、そういう特《とく》殊《しゆ》な能力があるんだったら、母親のあなたにも、それを受け取る力があるのかもしれませんわ」
「そう思う?」
千枝も、実はそう考えていたのだ。「でも、そうだとしたら、千晶の身に、何か危いことが……」
「今からすぐに出発しましょう」
信江は、千枝の腕《うで》をつかんだ。「すぐに本沢君を起しますから」
「そうね。父に話してみるわ」
千枝も肯《うなず》いた。そのとき——信江は、ハッと息を詰《つ》めた。
「何か音が——」
二人は口をつぐんだ。
幻《まぼろし》でも何でもない。それは、近付いて来る足音だった。現実のものだ。
「誰《だれ》か来るわ」
千枝は囁《ささや》いた。「中へ——」
しかし、もう遅《おそ》かった。林の中を、ザッ、ザッ、とその足音は真直ぐにやって来る。
二人は、建物の出入口の前に、身を伏《ふ》せた。
少し、辺りが明るくなったのか、木々の間をやって来る影《かげ》が、見分けられた。その男は走っていた。
いや——走っていた、というには、あまりにのろい足取りで、そして、酔《よ》っ払《ぱら》ってでもいるように、右へ左へ、揺《ゆ》れ動いた。
疲《つか》れ切っているんだわ。千枝は、そう気付いた。と、突《とつ》然《ぜん》、その人《ひと》影《かげ》が、バタッと倒《たお》れた。
それきり、動かない。
「——どうしたんでしょう?」
信江が低い声で言った。
「しっ。まだ足音が——」
やって来る。今度の足取りは、しっかりしていた。そして、懐《かい》中《ちゆう》 電灯らしい光が、チラチラと、木々の間を走った。
後から来た男が、倒《たお》れた男を見付けたらしい。足を止め、光を当てている。
「手間をかけやがって!」
と、息を弾《はず》ませながら言うと、倒れている男の方へ、かがみ込《こ》んだ。「おい。逃《に》げられると思ったのか。馬《ば》鹿《か》な奴《やつ》だ」
千枝は、その男の手に、光る物を認めて、息を呑《の》んだ。刃《は》物《もの》らしい。殺すつもりだろうか?
何とかしなくては——。千枝は起き上ろうとした。そのとき、
「おい、動くな」
突《とつ》然《ぜん》、頭の上で声がして、千枝は反射的に身を縮めた。——父だった。小西が、いつの間にか、出て来ていたのだ。
懐中電灯を持った男が、ギョッとして振《ふ》り向《む》く。
「こっちには銃《じゆう》がある。動くなよ」
小西の言葉は、落ちついていた。
「何だ、お前——」
「本沢君。行って、刃物を取り上げてくれ」
小西に起されたのだろう、本沢が姿を見せ、呆《ぼう》然《ぜん》と突《つ》っ立っている男の方へと用心深く近付いて行った。
すると、倒《たお》れていた男が、体を起すのが見えた。
「本沢か!——俺《おれ》だ!」
かすれた声が上った。
「桐《きり》山《やま》!」
本沢が驚《おどろ》いて、声を上げると、その男の方へ駆《か》け寄った。「桐山! お前——」
そのとき、追って来た男が、懐中電灯を投げ出すと同時に、身を翻《ひるがえ》して、逃《に》げ出した。
「お父さん」
千枝が立ち上る。小西が一歩前に出た。
腕《うで》を一《いつ》杯《ぱい》に伸《の》ばし、狙《ねら》いを定めて、引き金を引く。鋭《するど》い銃《じゆう》声《せい》が、冷たい大気を震《ふる》わせた。
逃げようとした男が、一《いつ》瞬《しゆん》のけぞって、そのまま二、三歩進んでから、倒れた。
——千枝は、息を吐《は》き出した。
「殺したの?」
「今は足を狙っているときじゃない」
小西は冷静だった。「知らせに行かれたら、こっちが危いところだ」
小西は、小走りに、倒れた男の方へと駆けて行った。——弾《だん》丸《がん》は心臓を射《い》抜《ぬ》いていて、もう男は死んでいた。
小西は、拳《けん》銃《じゆう》を納めた。仕事でも、犯人を射殺したという経験はほとんどない。
しかし、今の小西は、千晶を救い出すためなら、邪《じや》魔《ま》をする者は何人でも殺すことができた。
小西が戻《もど》ると、本沢に千枝と信江も手を貸して、桐山を、中へ運び込《こ》んだところだった。
「——ひどいな」
本沢が、思わず言った。
桐山の手首は、縄《なわ》が食い込んでいたらしく、皮がむけて、血だらけになっている。
「傷を洗わなきゃ」
と、千枝が言った。「ここ、水は出るわ。何か容《い》れ物を捜《さが》して——」
「いいんだ」
と、桐山が、かすれた声で遮《さえぎ》った。
「桐山——」
「水を飲ませてくれ……」
小西は、器に水をくんで来た。桐山は、貪《むさぼ》るように水を飲み干すと、体中で息をついた。
「どうしたんだ、一体?」
と、本沢が、桐山の背中を支えるようにして、言った。
「捕《つか》まってたのさ……。へましたもんだ……」
「一人でやろうとするからだ。もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だからな。後は俺《おれ》がやる」
小西が、桐山の上にかがみ込んで、
「子供を見なかったかね?」
「子供……」
「八歳《さい》の女の子だ。さらわれて、あの町にいると思うんだが」
「見なかったな……」
桐山は、呟《つぶや》くように言った。「ただ——誰《だれ》かが怒《ど》鳴《な》ってた。あの子供をどうした、とか……」
「何と言ったの?」
千枝が身を乗り出す。「思い出して! 私の娘《むすめ》なの」
「いや……。僕《ぼく》もよく分らないんですよ、何が起ったのか」
桐山は、ゆっくりと首を振《ふ》った。「ともかく、町が大《おお》騒《さわ》ぎになった……。こんなこと、初めてだった」
「騒ぎに?」
「誰かが——逃《に》げたらしいんです。たぶん、その子のことじゃないかな。追いかけろ、と怒《ど》鳴《な》ってた。男がいて——三《み》木《き》、とかいったかな」
やっぱり町へ戻《もど》っていたのだ! 小西は胸の高鳴りを覚えた。
「女がいるんです。——連中のリーダーらしい女」
「栗《くり》原《はら》多《た》江《え》だね」
「そう。そんな名前でした。——凄《すご》く怒《おこ》ってて……。ともかく捜《さが》し出せ、って。大騒ぎでね。その隙《すき》に逃げ出したんです」
「危なかったな! でも、助かって、良かった」
「追いつかれたから、もう殺されると思ったよ……」
桐山は、やっと弱々しい笑みを浮《う》かべた。
小西は、厳しい顔になった。
「君には悪いが、ここへ置いて行くしかない。子供が追われているのを、何としても助けたいんだ」
「もちろんです」
桐山は肯《うなず》いた。「ここにいますよ。手伝いたいけど、その力がない」
「もし、君を捜しに誰《だれ》かが来るといかん。——よし、さっき、地下の貯蔵庫があるのを見付けた。あそこへ隠《かく》そう。君、足の方をかかえて」
本沢と小西、二人がかりで、桐山の体を、地下へ運んだ。
「毛布をかけておけば、荷物に見えるだろう」
と、小西は言った。「すまないが、しばらく辛《しん》抱《ぼう》してくれ。君のことは、本沢君から聞いたよ」
「あなたは刑《けい》事《じ》さんでしょう」
桐山は言った。「僕《ぼく》は間《ま》違《ちが》って女を一人殺してるんです」
「今の私は刑事じゃないよ」
と、小西は言った。「孫の身を心配する、一人の老人さ。——総《すべ》ては、かたがついてからのことだ」
「気を付けて」
と、桐山は、小西の手をちょっと握《にぎ》った。
「大勢いますよ、奴《やつ》らは」
「分ってる。——できるだけ早く戻《もど》るよ」
小西は、行きかけて、ふと振《ふ》り向《む》くと、「もし戻らなかったら、何とかして、警察へ連《れん》絡《らく》してくれ」
と言った。
小西が先に行くと、本沢は桐山の手を固く握った。
「早く行けよ」
と、桐山は言った。「あの娘《こ》が、尚美の妹か」
「そうだ」
「彼《かの》女《じよ》を守ってやれよ」
「必ず戻るからな」
「ああ」
桐山は肯《うなず》いた。「秋《あき》世《よ》の仇《かたき》を討ってくれよ」
本沢は、もう一度、桐山の手を握って、地下から急いで上って行った。
もう、全員、外に出て、待っていた。
「揃《そろ》ったね。行こう」
小西が促《うなが》す。四人は、足早に、林の中を歩き出した。
ほとんど口はきかなかった。誰《だれ》しも、状《じよう》 況《きよう》は分っている。
今、この瞬《しゆん》間《かん》にも、千晶は追いつめられているのかもしれない。
「止って」
と、小西が言った。「大分明るくなって来たな。——問題は、真直ぐ町へ入るか、それとも谷へ回るかだ」
「千晶は、町にいるんでしょう?」
「しかし、逃《に》げ出《だ》したんだ。——その後、どこへ行ったのか……。捕《つか》まっていないとしたら、どこかに身を隠《かく》すだろう。こう明るくなったら、見付かってしまう」
「でも、この辺なんか、千晶は知らないのよ」
「そこだ。千晶が一人で逃げたとしたら、どこか山の中に入《はい》り込《こ》むだろう。もし、誰かの助けを借りているとしたら……」
小西は、一《いつ》瞬《しゆん》 考え込んだ。——迷っている余《よ》裕《ゆう》はない。
「二手に分かれる?」
と、信江が言った。
「危険だ。私はともかく、君らは武器一つないんだから」
「ナイフは持ってますよ」
と、本沢が言った。「使ったことないけど……」
小西は、ほんの何時間かの遅《おく》れが、千晶の生死を分けるかもしれないと承知の上で、自分の直感に賭《か》けることにした。
長い刑《けい》事《じ》生活の中で、何度か、手がかりを指し、方向を示してくれた直感である。
理《り》屈《くつ》や、推理ではなく、判断の材料がないときには、直感に頼《たよ》るしかない。
もちろん、犯人を逮《たい》捕《ほ》するとき、直感に頼ったことはない。捜《そう》査《さ》の方向を決めるときに、それは、しばしば有益だったのだ。
「——谷へ行こう」
と、小西は言った。
夜は明けつつあった。誰《だれ》も、小西の言葉に異を唱えなかった。
行くべき場所がはっきりして、却《かえ》ってホッとしてもいたのである。
「——夜が明けても、お棺《かん》に戻《もど》らないから始末が悪いな」
と、本沢がグチったので、信江が、
「ふざけてる場合じゃないでしょ」
とにらんだ。
「いや、本当の話だよ」
と、小西が足取りを緩《ゆる》めずに言った。「連中が、昼間も動き回っているのは厄《やつ》介《かい》なことだ。こっちは充《じゆう》分《ぶん》に警《けい》戒《かい》してかからなくてはね」
「杭《くい》でなくても死ぬのかな」
と本沢が言った。
「あなたは怪《かい》奇《き》映画の見過ぎなのよ」
「しかし、杭でも打《う》ち込《こ》んでやりたいね、三木の奴《やつ》には」
と、小西が言った。
「お父さん——」
と、千枝が言った。
「どうした?」
「あの煙《けむり》は?」
行く手の、ずっと遠い先に、青白い煙が、ゆっくりと立ち昇《のぼ》りつつあった。
「——あれは谷の辺りかもしれん」
と、小西は言った。「急ごう!」
四人は、ほとんど走るような足取りで、煙の立つ方へと向って行った。