「——どうですか、美貴さん」
と、奈々子は訊いた。
「うん。眠ってる。大分脈も落ちついたようだ」
「じゃ、良かった」
奈々子は時計を見て、びっくりした。もう七時近くになっている。
ここは成田の空港に近いホテルである。
ベッドでは、鎮静剤を射たれた三枝美貴が服を着たままの格《かつ》好《こう》で眠っていた。
「悪かったねえ、君。何の関係もないのに」
と、その男は、椅《い》子《す》にかけて、「僕は野田というんだ。美貴さんの亭主の古い友だちでね」
「浅田奈々子です」
「いや、助かったよ。君が抱き止めてくれなかったら、今ごろ美貴さんはバスにひかれてただろう」
「いいえ、運が良かっただけです」
「膝《ひざ》、すりむいてたね。大丈夫かい?」
「ええ、こんなもん。私、大体ドジですから、日に二、三度は手を切ったり転んだりしてるんです」
「お礼に——ってわけでもないけど、何か食事でも取ろうか。彼女にもサンドイッチでも取っておくから。何しろ飛行機の中じゃ眠りこけてたもんでね」
「でも、私、もう帰らないと」
「遅くなると、ご両親が心配するかな」
「私、一人住いですから。でも、私がいても何だか……」
「構わないよ。それに帰りも送らせてもらわなきゃ。美貴さんもきっと気にするから」
「そうですか。——それじゃ」
正直なところ、さっきからお腹がグーグー鳴っているのを、野田に気付かれないかとヒヤヒヤしていたのだ。
野田が電話でルームサービスの注文をした。奈々子はカレーライスを頼んで、つい、いつものくせで、
「ライス大盛り」
と、言いそうになったのだった……。
「——きれいな人ですねえ」
と、奈々子は言った。
「美貴さんかい? うん。大学でも、評判だった。家は名門だし、誰が彼女を射止めるかってね。——結局、僕の友人で、三枝という男が、彼女と結婚したんだ」
「でも——どうして空港で、あんなことを……」
野田は、ちょっと眉《まゆ》をくもらせた。奈々子はあわてて、言った。
「いえ、いいんです、別に。ただ——ちょっと気になったんで」
「僕が深刻な顔をしてたせいかな」
「え?」
そりゃまあ、この野田という男、なかなか悪くない顔ではあるが、しかしそれだけのことで……。
「いや、美貴さんにとっては、僕の帰りが、待ち遠しくもあり、怖くもあったんだ」
野田は、ベッドの上の美貴へ目をやった。「自分の夫が生きているのかどうか、分るかもしれなかったんだからね」
奈々子も美貴の方へ目をやった。
ベッドの上に横たわって、眠りに落ちている美貴は、まるで子供のように見える、と奈々子は思った……。
「生きてるかどうか、って……。どういうことなんですか」
と、奈々子は訊いた。
「三枝成《しげ》正《まさ》というのが、彼の名なんだけどね」
と、野田は言った。「ハネムーンでドイツへ行った時、三枝は行方不明になってしまったんだよ」
「行方不明……。事故か何かで?」
「分らない。ただ、突然姿を消してしまったんだ。——もちろん彼女は必死で夫を捜した。しかし、結局は諦《あきら》めて、帰国せざるを得なかったんだ」
「へえ」
同情よりも何よりも、そんなことが本当にあるのか、という驚きの方が先に立ってしまう。
「三枝の実家でも、もちろん大騒ぎで、あらゆる手を打って、現地の警察に捜査も依頼した。しかし、遠い国のことだからね。はかばかしい進展はなかった」
「でも、一体どうしちゃったんでしょう」
「さあ……。で、美貴さんに頼まれて、僕が向うへ出向いて来たわけなんだ」
「何か分ったんですか」
「いや、だめだね」
と、野田は首を振った。「向うの警察も、もちろん気にはしてくれている。だけど、日本からの観光客が一人、どこかへ行ってしまった、というくらいじゃ、大捜査網をしいちゃくれないんだ」
それはそうかもね、と奈々子は肯《うなず》いた。
「でも——可《か》哀《わい》そうですね、美貴さん」
「うん。何かつかむまでは、と思ったんだけどね。いくら頑張っても、見当がつかない。——僕が、いい知らせを持って帰らなかったと分ったんで、そのショックで逃げ出してしまったんだろうな」
奈々子は、やっぱりハネムーンは国内にしよう、などと呑《のん》気《き》に考えていた。
ルームサービスが来て、奈々子は美貴の身の上(?)に大いに同情しつつも、カレーライスをアッという間に平らげたのだった……。
「——ただいま」
奈々子は、アパートのドアを開けて言った。
待てよ、奈々子は一人住いじゃなかったのか、と首をかしげる方もあるだろうが、奈々子の同居人は口をきかない。
実物大のコアラのぬいぐるみである。あの〈南十字星〉のマスターのプレゼントなのだ。
明りを点《つ》けて、アーアと大欠伸。
もう夜も遅くなっていた。
三枝美貴も、眠りから覚めると、すっかり落ちついていて、奈々子や野田と一緒に、サンドイッチを食べ、野田の話に耳を傾けていた。
そして、待たせてあった車で、このアパートまで奈々子を送ってくれたのである。
やれやれ。まあ、あの美貴って人も気の毒だけど、でも、こんな六畳一間のアパート暮しのわびしさは分んないでしょうね。
夫がハネムーンの途中で蒸発なんて、そりゃ悲劇には違いないけど。
着替えるのも面倒で、ぼんやりと畳の上に座っていたら、電話が鳴り出した。
独り暮しだから、電話は必要だが、いたずらに悩まされることにもなる。用心しつつ、受話器を上げると、
「奈々ちゃんかい?」
「マスター。今、帰って来たんです」
「いや、気になったんで、何度か電話していたんだ。そりゃ大変だったね」
「いいえ」
奈々子は、受話器を持ったまま畳の上に引っくり返って、今日の出来事を話して聞かせた。もちろん、何から何までってわけにはいかないが、ともかく珍しい話題には違いない(美貴には申し訳ないが)。
「——ふーん。何かありそうだな、とは思ったけどね」
「ねえ。私、ハネムーンの時は、亭主をロープで縛ってよう」
「まず相手を見付けろよ」
と、マスターは笑って言った。
「それは言えてますね」
と、奈々子も笑った。「でも、マスターはどう思います?」
「その行方不明の旦那かい? ま、さらわれたか、襲われたかだね、一つの可能性としては」
「強盗とかですか」
「うん。でなきゃ、自分で姿をくらましたかだ」
「自分で、って……。どうしてそんなことを——」
「たとえば、向うで方々見て回るだろ? その先々で、当然、他のツアーの観光客とも出会う。その中に誰かたまたま前に知っていた女がいて、二人で逃げる、とか」
「へえ! マスターって想像力豊か!」
「からかうなよ。しかし、そんな可能性だってあるじゃないか」
「そりゃそうですね。あの人に教えてやったらいいわ」
「ま、これは無責任な推理に過ぎないからね」
「でも、あの美貴って人、何となく助けてあげたくなるタイプなんですよね。——ご主人を信じてるから、そんなこと言われても、きっと『まさか』って言うでしょうね」
「ただの事故かもしれないしね。いつかも、中年の婦人が、列車から落ちて、何か月もして見付かったことがある」
「へえ。人間、どこで災難に遭うか分りませんね」
「ともかく、ご苦労さん。明日はいつも通り出られるかい?」
「もちろん出ます」
と、奈々子は言った。「じゃ、おやすみなさい、マスター」
「おやすみ」
マスターと話をしたら、少し目が覚めた。
奈々子は、お風呂に入ることにして、浴《よく》槽《そう》にお湯を入れながら、服を脱いだ。
コアラのぬいぐるみが、奈々子を見ている。
「こら! 失礼だぞ、あっち向け」
と、奈々子は言ってやった。
——南十字星を二人で見たい。
美貴の言葉を、奈々子は思い出していた。
そうね。私だって……。
奈々子は、コアラの頭をポンと叩《たた》くと、
「君の本物にも会いたいね」
と、言ってやった。
もちろん、二人でもいいが、一人だって構やしない。
オーストラリアだのニュージーランドだの、ハネムーンとなりゃ、結構費用も馬鹿にならないから、まず望み薄だろう。
今のお給料じゃ、そんなに貯金するまで待ってたら、いくつになっちゃうか。
ふと、野田のことを思い浮かべた。
なかなか素敵な人だったなあ。もちろん、恋人がいないわけはないけど。でも、きっとあの人は、美貴さんに惚《ほ》れてるんだ。
もし、三枝という人が結局見付からずに終ったら、美貴さんは野田って人と……。
「私には関係ないか!」
奈々子は、一つ深呼吸をして、「お風呂だ!」
と、裸になって浴室へ駆け込んだ。
小さなお風呂場である。足が滑《すべ》った奈々子は、みごとに頭から浴槽へと突っ込んだのだった……。