「ウォー」
ライオンが咆《ほ》えたわけではない。浅田奈々子が欠伸《 あ く び》をしたところだった。
「今日は暇ですね、マスター」
と、奈々子は、カウンターにもたれて、空っぽの店の中を見渡した。
「こんな日もあるさ」
マスターは、のんびりと新聞など広げている。
本当に不思議なもので、特別に休日とかいうわけでもないのに、混雑する日というのがあると思うと、表は結構人が歩いているのに、店はガラガラってこともあるのだ。
ま、これだから面白いので、これが毎日、必ず八割の入り、とかいうのだったら、却《かえ》って妙なものだろう。
そして、暇な日というのは本当に全然客が入らないもので、それはもう何時になっても同じことなのである。
「今日は開店休業日だね」
と、マスターは、新聞をたたむと、「ねえ奈々ちゃん」
「何ですか」
「こんな日は、まず客が来ないよ」
「そうですね」
もう閉めようか、と言うのかと思って、奈々子は「儲《もう》かった」と思った。だが——。
「今、新聞見てたらね、前から行こうと思ってた展覧会が、今日でおしまい、って出てたんだ。行って来たいんだけど、君、留守番しててくれるかい?」
「あ、そう——です、か」
奈々子は、がっかりしたのを声に出さないように努力しつつ、「どうぞ。別に私、予定もないし」
「悪いね。閉店までに戻るから」
「どうぞ。私だって、コーヒーや紅茶ぐらい出せますもん」
それ以外はだめなんである。
「もしお客が来たら、作る人が休んじゃってとか、適当にやっといてよ」
「はあい」
いつも親切にしてくれるマスターのためだ。ま、たまにはいいか。
「じゃ、よろしく」
マスターは、エプロンを外し、ベレー帽などヒョイと頭にのっけて、もう画伯の気分で、ちょっと手を上げて出て行く。
「ありがとうございました!」
奈々子は元気よく呼びかけて、マスターをずっこけさせたのだった……。
——アーア。
また、欠伸が出る。
何もカウンターの外に立ってる必要ないんだ。私が「マスター代理」なんだから。
カウンターの中に入っても、別に目が覚めるわけじゃない。小さなスツールに腰かけて、またまた眠くなる。
キーン、と飛行機の音が、かすかにガラス越しに聞こえて来た。
飛行機。——外国。
「そうだ」
あの、三枝美貴って人、どうしたんだろう?
美貴を成田まで送って行って、野田という男に会って……。あれから、もう半月ぐらいたつ。
「いい男だったわね、なかなか……」
と、独《ひと》り言《ごと》。
でも、ろくに顔なんか、憶《おぼ》えちゃいないのである。ただ、もやっとした輪《りん》郭《かく》ぐらいのもんだ。
無事に旦那は見付かったんだろうか? それとも、セーヌ河辺《あた》りに死体が浮んだんだろうか。
ドイツ旅行じゃ、セーヌ河は流れてないかしら?
勝手なことを考えていると、電話が鳴り出して、ウトウトしていた奈々子は、
「ワッ!」
と、仰天して、目を覚ました。「何よ、もう!」
電話に文句言っても仕方ない。奈々子は受話器を取った。
「はい、〈南十字星〉です」
「もしもし。あの——そちらで働いている女の方……」
「私ですか?」
「お名前、何とおっしゃいましたっけ」
おっしゃる、ってほどの名じゃないですけどね。
「浅田奈々子ですけど……」
「あ、そうだわ。奈々子さんでしたね」
え? その声は、もしや——。
「三枝美貴さん?」
と、奈々子は訊《き》いた。
「そうです。まあ、憶えてて下さったの」
美貴の声が、嬉《うれ》しそうに弾《はず》んだ。
「もちろんです。——あの、その後は?」
「ええ。主人のことは相変らずです」
見付かってないのか。ま、でも死体も上っちゃいないということだ。
「早く何か分るといいですね」
「あの、奈々子さん」
と、美貴は早口に言った。「厚かましくて、気がひけるんですけど、お願いがあるんですの」
「何でしょう?」
また成田行き? ごめんよ、そんな遠い所まで。
「そちらのお店に、もうすぐ、男の人が行くと思うんです」
「男の人……」
「ええ。週刊誌を丸めて持っているはずですわ」
「目印ですね」
「その人が行ったら、私がそこへ行くまで、引き止めておいてほしいんです」
「え?」
「私も急いでそちらへ行きます。でも三十分はかかりそうなんです」
「はあ」
奈々子は肯《うなず》いて、「じゃ、美貴さんがおいでになるまで、その男の人を引き止めとけばいいんですね?」
「そうです。でも、私のことはその人に言わないで下さい」
「はあ……」
「できるだけ早く行くようにします。——あ、車が来たわ。じゃ、お願いします」
「ええ、あの——」
電話は切れてしまった。「何でしょね」
やっぱり、お金持のお嬢さんだけのことはあるわ、と思った。自分の用だけ言って、パッと切っちゃうあたりが……。
あと三十分ね。——ま、それぐらいなら、たとえ今すぐ来たとしても、こんな店の客は、たいてい二十分や三十分、居座ってるもんだからね。
と、思っていると、店の戸が開いた。
「いらっしゃい——」
ませが抜けてしまって、魚屋さんかお寿司屋さんみたいに威勢よくなってしまった。
背広姿の、四十代の男。週刊誌を丸めて持っている。
「もう来たのか」
と、奈々子は呟《つぶや》いた。
男は、店の中をザッと見渡すと、窓際の席について、
「コーヒー」
と、言った。
「はい、ただいま」
もうちっと、手間のかかるもん頼みゃいいのにね、と奈々子は思った。頼まれても、奈々子には作れないのだが。
水のコップを運んで行くと、もう一度カウンターまで行って、今度はメニューを持って行った。
「コーヒーって頼んだろ」
「ええ。でもお気が変ることもあるかと思って」
「いいよ。コーヒーで」
「そうですか。ケチ」
「ん?」
「いえ、別に」
奈々子はカウンターに戻《もど》った。
コーヒーか。ま、お湯はいつも沸《わ》いてるし、フィルターの用意も粉もあるし……。
二、三分でできるんだけど。それじゃ三十分は、もたないかもしれない。
豆から挽《ひ》いてやろ。——奈々子は、缶《かん》から新しい豆を取り出した……。
「——コーヒー、まだ?」
と、男がうんざりしたような声を出す。
「今、お湯を沸かしてます」
奈々子は平然と言った。「コーヒーは心です。この店は、真心のこもったコーヒーを——」
「分ったから、早くしてくれ」
男が苛《いら》立《だ》つのも無理はない。
もう二十分もたっているのだ。
早く来ないかな、美貴さん。——これ以上は引きのばせない。
コーヒーをドリップで落とすと、男のテーブルに運んで行く。
「お待たせいたしました」
「本当だよ」
男は渋い顔で、「いつもこんなにのんびりしてんのか、この店は?」
「ゆとりを持って、働いてる、と言って下さい。都会の中のオアシス。せかせかした現代人の心のふるさと——」
「分った、分った」
男は、ミルクをドッと入れ、砂糖をドカドカ入れて、飲み始めた。
あと七分だ。——ま、何とかもつだろう。
奈々子が安心してカウンターの奥へ戻《もど》ると、
「お金、ここに置くよ」
と、言って、男が立ち上ったので、奈々子は焦《あせ》った。
「もう? もう飲んじゃったんですか?」
「ああ。まあ、なかなかの味だったよ」
と、男が出口の方へ歩き出そうとする。
「お客さん!」
奈々子は、客の前に立ちはだかった。
「何だい?」
「あの——もう一杯いかがです?」
「いや、もういいよ」
「そんなこと言わないで! ね、もう一杯飲んだら、タダ!」
「タダ! 前のも?」
「そう! 飲まない手はありませんよ」
「へえ。変ったサービスだね」
「ね、いいでしょ?」
「じゃあ……もらうよ」
と、男は席に戻った。
二杯目をいれて運ぶと、三十分が過ぎていた。
しかし——美貴が一向に現れないのである。
「——やあ、旨《うま》かった。本当にタダでいいの?」
今さら、だめとは言えない。
だけど——何て早いの、この人、コーヒー飲むのが!
「じゃ——」
と、男が立ち上ろうとするのを、
「待って!」
と、奈々子は飛んで行った。「お客さん、カラオケ、好き?」
「カラオケ?」
「そう。好きそうな顔してる! マイク握ったら離さないんでしょ」
「まあね」
と、男は笑った。
「上手なんでしょ。いい声してるもん」
「女の子によくそう言われるよ」
「聞いてみたいわ! 何か一曲!」
「いや——だって、こんな昼間に?」
「いいじゃない! 時と場所を選ばないのが、本当の名人!」
「だけど——ここ、カラオケなんて、あるの?」
そうだった。この店にカラオケのあるわけがない。
「あのね——私、私がやります」
「カラオケを!」
「ええ、タータカタッタ、ズンパンパン、とか」
「面白い子だね、君」
と、男は笑い出した。「でも、用事があるんでね、悪いけどこれで……」
まだ美貴は来ない。——奈々子はぐっと凄《すご》んで、
「ちょっと!」
と、男をにらみつけた。
「な、何だよ?」
男が思わずのけぞる。
「コーヒー二杯飲んで、逃げる気?」
「しかし——君がタダだ、と——」
「代りに条件があるのよ。分った? おとなしく座ってないと、一一〇番するからね!」
「わ、分った……」
男は目を白黒させて、椅《い》子《す》へドカッと腰をおろした。
「私の歌を聞いてからでないと、帰さないわよ!」
と、言ってから——だめだ、と思った。
何しろ奈々子、えらい音痴である。歌の方は全然だめなのだ。——どうしよう?
「聞くよ、聞くよ」
男は、情ない顔で、「早く歌ってくれ」
「うるさいわね!」
と、奈々子は怒《ど》鳴《な》りつけた。「今、何を歌うか、考えてんじゃないの! おとなしく待ってなさい!」
「す、すみません……」
男は、椅子に座り直した。
結局——美貴が店へ駆け込んで来たのは、さらに二十分後。
美貴は、たった一人の男の客の前で、盆踊りを踊っている奈々子を見て、唖《あ》然《ぜん》としたのだった……。