「野田さんは、学生時代から、主人とライバル同士だったの」
と、美貴は言った。
「はあ」
奈々子は、それだけ言った。
「私を奪《うば》い合うと、他のみんなの前で宣言して、二人して花束だのプレゼントだの、競《きそ》っておくりつけて来て……」
「はあ」
「でも、そんなことで私、三枝を選んだわけじゃないのよ。この人となら一生、やって行ける、って感じたから。——分るでしょ?」
「ええ、まあ……」
「もちろん、野田さんも、表面は男らしく、主人と握手して、『僕の負けだ』って笑ってたけど……。でも、あの人、心の中ではずっと私や主人を憎み続けてたんだと思うわ」
「でも……」
「おかしいと思うでしょうね。ついこの間まで、野田さんを頼りにして、主人のことをドイツまで捜しに行ってもらったりしたのに、どうして急に、って」
「はあ」
「私、ついこの間、知ったの」
何を? 肝心のそこのところを聞く前に、野田が戻《もど》って来た。
——何といっても、のんびり打明け話を聞いているムードじゃなかったのである。
野田と美貴と奈々子、三人で出かけて来たのは、若い女の子がワイワイやっているフランス料理の店で、そう堅苦しくはない代りに、店の中のやかましいこと!
それでも、野田や美貴は、ここの「顔」らしく——奈々子が「顔」なのは、アパートの近くの「ほか弁」ぐらいだ——奥の方の、比較的静かなテーブルを用意してくれたのだったが。
奈々子はフランス料理といえば、ムニエルとオムレツぐらいしか知らないが、それでも、確かに、お昼に〈南十字星〉の近くで食べる〈Aランチ〉よりおいしいことは、認めざるを得なかった。
これがタダで食べられるのだから、美貴の話を聞いてやるぐらいのこと、我慢しなきゃいけないのだろうが……。
しかし、美貴も、あんなに野田のことを頼りにしていたのに、何でこうコロッと変っちゃったんだろう?
「もう一本、ワイン、どう?」
と、野田が言った。
「私、もう沢山」
と、美貴はあまり強くないらしく、頬《ほお》を赤くしている。「奈々子さん、いかが?」
「いえ——まあ——ありゃいただきますけど……」
「よし。じゃ、今度は赤を一本もらおう!」
奈々子は、特別アルコールに強いわけじゃないが、確かに、ここのワイン、アパートで友だちなんかが遊びに来た時に飲む一本千円とかのワインに比べて、格段においしいことは、よく分った……。
「ちょっと酔っちゃったみたい」
と、美貴は立ち上って、「私、顔を洗って来るわ」
野田と二人になる。
どっちかといえば、美貴と二人でいるよりも、野田と二人でいる方が、奈々子としては楽しいのだが、そこはやはり、美貴の話を聞いてしまった後なので、「まさか」とは思っても、いささか笑顔もぎこちなくなるのは当然であろう。
「——さ、飲もうよ」
と、赤のワインを注がれる。
「あ、どうも。——いえ、そんなにいただけませんから」
とか言いながら、すぐグラスを空にしてしまう。
「——おいしい」
「ね、奈々子君」
と、野田は言った。「美貴さんがいないから言うんだけどね」
「は?」
「君はとてもしっかりしていて、いい人だ」
「どうも」
「本当だよ。君のことは信用していいと思ってるんだ」
「はあ」
何が言いたいんだろ?
愛の告白っていうのとは少し違うみたいだけど……。
「君に頼みがある。美貴さんのことなんだがね。彼女、少しおかしくなってるんだ」
「おかしいって?」
「うん。——どうもね、少しノイローゼの気味がある」
「ノイローゼですか」
「まあ、見た通り、もともと神経の細い女《ひと》だしね。あっちでご主人が消えちまったらきっと、誰だって少しはおかしくなる。そうだろう?」
「そうですね」
「ところがね」
と、野田は少し声をひそめて、身を乗り出した。
「調べてたら、意外な事実が出て来たんだよ」
やかましい所で声をひそめられたんでは、ますます聞こえなくなる。
仕方なく、奈々子も野田の方へ顔を近づけた。全くもう、何でこうみんな、「内緒の話はあのねのね」なんだろ!
「何が出て来たんですか?」
「うん、それがね——」
二人の顔の間隔はほぼ十センチ。——と、出しぬけに、野田がぐっと身をさらに乗り出したと思うと、サッと奈々子にキスしたのだった。
奈々子、唖《あ》然《ぜん》として……。
「あ、いや、ごめん」
と、野田があわてて言った。「つい、その——何だかフーッとひき込まれて……」
「何するんですか、こんな所で!」
奈々子、カッと真赤になって怒ったが、今さら取り消しってわけにもいかず……。それに、「こんな所で」なんて怒ってる、ってことは、「他の所でして下さい」と言ってるのだ、とも取れる。
「いや……本当に悪かった」
野田も咳《せき》払《ばら》いして、「ワインを飲み過ぎたかな」
「それよりお話の続きは?」
「うん……。何だっけ?」
「あのね——」
「あ、そうそう。いや、もちろん、これは確実に証拠があって言うわけじゃないんだけどね。どうも……三枝は向うで美貴さんに殺されたんじゃないかと思うんだ」
「ええ?」
奈々子が仰天するのも無理はない。
美貴は野田が犯人だと言うし、野田は美貴が殺した、と……。どうなってんの、一体?
と、そこへ、
「——見ちゃったわよ」
と、女の声。「隅《すみ》に置けない奴《やつ》!」
見ると、格《かつ》好《こう》は一人前に赤のワンピースなんか着てるけど、顔はあどけなく、どう見ても十六、七という少女。
「ルミ子君!——来てたのか」
「今、この人に何をしたか、ちゃんと見てたからね」
と、その少女、ニヤニヤして、「パパに言っちゃおうっと」
「おいおい」
野田は苦笑して、「僕は独身だからね、言っとくが」
「お姉さんが一人、傷心の日々を送っているのに、冷たいんだ」
「一緒だよ、彼女も」
「へえ! 気が付かなかった」
そこへ、美貴が戻《もど》って来て、少女に気付くと、目を見開いて、
「ルミ子。あなた、どうして——」
「パパと一緒よ。ほら、そこの席」
指さす方へ、奈々子は目をやった。五十歳ぐらいか、がっしりした体格の、忙しいのが大好きという感じのビジネスマンタイプの男性が座っていた。
「あら、いつ来たの?」
「たった今、そしたら、野田さんが——」
「良かったら、一緒にどうだい?」
野田があわてて言った。
「もうそちらは終りでしょ? こっちはメニューもこれからだもん」
と、ルミ子は言った。「でも、お姉さん、パパに声ぐらいかけて来たら」
「そうね」
美貴が、その男性の方へと、ルミ子と一緒に歩いて行く。
「——やあ、何だ、美貴じゃないか!」
と、体にふさわしい大きな声を出して、その男が、美貴の肩をつかんだ。
「——あの人は?」
と、奈々子は野田へ訊いた。
「美貴さんの父親だよ。志村武治といってね。ルミ子は美貴さんの妹だ」
「志村っていうのが、美貴さんの旧姓……」
「そうだよ」
奈々子は、美貴が、その志村という男、それにルミ子という少女と話しているのを眺めていたが、何だか……。
「——首をかしげているね」
と、野田が言った。
「え? あ、いえ——何となく、実の姉妹とか親子っていうより、義理の、って感じがして」
「さすがだ」
と、野田は言った。
「え?」
「美貴さんは父親が違うんだ。小さいころに父親が亡《な》くなって、母親の再婚相手が、あの志村。ルミ子は志村との子だから、美貴さんとは十歳近くも年《と》齢《し》が離れてるんだよ」
「なるほどね」
奈々子も納《なつ》得《とく》した。「で、美貴さんのお母さんは?」
「亡くなって四、五年たつかな。それからあの志村は娘のルミ子と二人で暮してるんだ」
「へえ……」
何だか、割とややこしいんだ、と奈々子は思った。
「まあ、そんなこともあって、美貴さんも、寂しかったんだろうな。本当に心を打ちあけて話をする相手がいなくなって……。ルミ子じゃ年《と》齢《し》が離れ過ぎて、とても話し相手にならないしね」
「ふーん」
と、奈々子は感心したように言って、「でも、どうして美貴さんが、ハネムーンの途中で旦那を殺さなきゃいけないの?」
「しっ! その話はまた」
美貴が戻って来たので、二人の話はそれきりになってしまった。
そして——その後は何となく当りさわりのない話題に終始して、この夜の「夕食会」は終ったのである。レストランを出ると、
「奈々子さんを送ってあげて」
と、美貴は言って、さっさとタクシーを停《と》め、一人で行ってしまった。
どうやら、野田と二人きりになりたくないようだ。
「奈々子君——」
「私、電車で帰ります」
と、奈々子は言った。「その方がよっぽど早いの」
「そうか。——まあ、それじゃ、無理には誘わないよ」
「誘うって、どこへ?」
「どこかで、一杯やろうかと思ったんだけどね」
「もう沢山!」
と、思わず奈々子は言って、「でも、とってもおいしかった。ごちそうさま」
「また、電話していいかい?」
「ご用があったら、お店の方に」
「君のアパートは?」
「だめです」
「分った」
と、野田は笑って、「じゃ、気を付けて帰ってくれ」
「さよなら」
と、奈々子は歩き出して、振り返ると、「野田さん」
「何だい?」
「野田さん、名前の方は何ていうんですか?」
「ああ。言わなかったかな。野田 悟《さとし》。『悟る』一文字だよ」
「ハハ、悟りにはほど遠いや」
「全くだ」
ちょっと手を振って、野田は歩いて行った。それを見送って、奈々子も歩き出してから、
「——あ、そうだ!」
と、呟《つぶや》いた。
あいつ、いきなりキスなんかして! そうだった。怒ってたんだわ、私。
思い出して怒りながら(?)、奈々子は、それでも満腹で少し酔って、機嫌よく、アパートへと戻って行ったのだった。