「そうか」
と、野田は肯《うなず》いて、「じゃ、もう知ってるんだね、君も」
知ってるんだね、と言われたって……。そう一人で合点して肯かれても、困ってしまうのである。
「その女の話は聞きました」
と、奈々子は言った。「ルミ子さんから。でも、それがどうかしたんですか?」
奈々子のいいところは——沢山あるが、その一つは、と言っておこう——何でもはっきり分らないことを、想像で決めちまわないことである。
奈々子は、至って現実的な女の子なのだ。
もちろん、年齢にふさわしく夢を見ることもあるが、現実を夢と混同したりすることはない。はっきり分けて考えられるというのが、まあ性質というものなのだろう。
〈南十字星〉が吹っ飛んでしまって、マスターは、まだ警察であれこれ訊《き》かれている。
奈々子は、十一時には美貴もやって来るはずなので、早いとこ野田との話を済まそうとして、近くの喫茶店に入ったのだった。
しかし、何てコーヒーのまずいこと!
奈々子は改めて、〈南十字星〉のコーヒーがいかにおいしかったかを、思い知らされた。こりゃ何としても店を再開しなきゃ!
もちろん、そんなこと、奈々子が決めるわけじゃないけど。
「あの女のことをね、僕も少し調べてみたんだ」
と、野田は手帳を取り出して、開いた。「名前は若村麻《ま》衣《い》子《こ》。二十八歳。——東京へ出て来て、一人で暮していたらしい。三枝がこの女性と付合っていたことは、確かだ。彼の親しい友人の間では、結構知れ渡っていた」
「へえ。野田さんは親しくなかったわけ?」
「厳しいね」
と、野田は苦笑した。「そりゃ、僕は恋敵だからな。三枝としては隠して当然さ」
「そりゃそうですね。すみません。つい、考える前に言葉が出ちゃうの」
こういうところが可《か》愛《わい》くないのかしら、と奈々子は反省した。
「いや、正直なのが君のいいところさ」
何だか、「馬鹿だ」と柔らかく言われてるような気がする。しかし、ま、深くは考えないことにした。
「その若——」
「若村麻衣子」
「その人の言った通り、三枝さんの子供がお腹にいて、ドイツまで追いかけて行ったとしても、それでどうして美貴さんがご主人を殺したことになるんですか?」
「それは、一つには彼女の性格だ」
と、野田は言った。「美貴さんは、極めて潔癖な人なんだ。たぶん三枝にあんな恋人がいたと知ったら、殺さないまでも、帰国後、即離婚しただろうね」
「じゃ、その女の人を殺したのは?」
「それは分らない。美貴さんか、それとも三枝か。——三枝が、美貴さんに気付かれては大変と思って、彼女を殺したのかもしれない。美貴さんがそれを知って、三枝と争いになり……。ということも考えられる」
そりゃ、色々考えられるだろう。
でも、奈々子は少々悲しい気分であった。
なぜって——もちろん野田の話はよく分るし、確かに、理屈としてもあり得ることだと思うのだが……。
でも、三枝成正は、学生時代からの友人で、美貴は結婚しようとまで思った相手ではないか。その二人を、いくら理屈が通るといっても、「殺人犯」扱いして、平気でしゃべってる、ってのが、ちょっとやり切れなかったのである。
もし、自分だったら——と奈々子は考える——友だちか、一度は恋した人が、殺人の容疑をかけられていると知ったら、凄《すご》いショックだろうし、よっぽど動かぬ証拠でも見せられない限り、信じないに違いない。
友だちっていうのは、そういうもんだろう。それとも、私の考えが甘すぎるのかしら……。
「どうかしたかい?」
と、野田が訊《き》いた。
「いえ、別に」
と、奈々子は首を振って、思った。
この人とは、もうキスしないぞ!
「でも、もし美貴さんがご主人を殺したのなら、どうして今さらわざわざドイツへ捜しに行きたいなんて言い出すんですか?」
「そこだよ。それが僕も知りたい。——もちろん彼女が犯人でないと分れば、こんなに嬉《うれ》しいことはないけどね」
と、野田は言ったが……。
果して、どこまで信じていいものやら。
奈々子は、おいしくないコーヒーを、一口飲んで、顔をしかめた。
「——大変ね、奈々子さん」
と、美貴が言った。
同じ喫茶店。少し時間はずれて、美貴と奈々子の二人が向い合っている。
もちろん〈南十字星〉のビルの前で待っていて、やって来た美貴を、ここへ連れて来たのである。
「これからどうするの?」
「そうですねえ……。まだ考えてません」
そりゃそうだ。まさか今日、店が爆発する(!)なんて、誰が思うもんか。
「もし良かったら——」
ほら来た。奈々子は、紅茶を一口飲んで(コーヒーにこりて、今度は紅茶を頼んだのだった)、まずいのでギョッとした。
「私と一緒にドイツへ行ってもらえないかしら? とても無茶で、図々しいお願いだってことは承知してるんだけど」
「本当ですね」
と、奈々子は素直に言った。「大体、野田さんがご主人を殺したんじゃないか、とおっしゃってたでしょ」
「ええ」
「どうしてそう思ったんです? あんなに頼りにしてらしたのに」
「それなのよ」
美貴は、ため息をついた。「——私も、まさかと思ってたわ。でも、ついこの間、夫や野田さんと大学で同じだった方に、町でばったり出会ったの。そして色々話してたら、私と主人がハネムーンに出た次の日に、野田さんもどこか外国へ行った、ってことが分ったのよ」
「野田さんも? どこへ?」
「その人は知らなかったわ。きっと恋に破れてのセンチメンタルジャーニーだろう、って笑ってたけど。でも、私、気になって、調べてみたの」
「どうやって?」
「いつもあの人が航空券や宿泊の手配を頼む旅行社へ行って。私もその係の人を知ってたから。そしたら、野田さん、突然前の日になって——つまり、私たちの式の当日に、ドイツへ発《た》ちたい、何とか席を取ってくれないか、って電話して来たんですって」
「へえ……」
「それも二枚」
「誰かと一緒?」
「そうらしいの。名前は教えてくれなかったけど。でも、おかしいわ。野田さん、そんなこと、一言も言わなかった」
「なるほど……」
そりゃ、確かにおかしい。——しかし、だからって、野田が三枝を殺した、っていうのは考えが飛躍してるんじゃないだろうか。
大体、そんなに突然殺す気になるってのが妙だし、そんな時に、旅行社に頼んだりしないだろう。
殺す気でなく、ドイツへ行って、向うで何かがこじれて、結果として殺しちゃった、というのなら、分らないでもないけど。
「どうかしら、奈々子さん」
と、美貴は、何となく切なげな目で、じっと奈々子を見つめて、「旅としては快適だと思うわ。飛行機もファーストクラスを取るし、ホテルも一流の所。もし、その方がよければ別々に部屋も取るし」
「そんなこと、どうでもいいんですけど……。行って、何を調べるんですか?」
「野田さんが、向うで私たちの後を追っていたのかどうか、知りたいの」
「でも、そんなことできます? 女性二人だけで」
「私、向うに知り合いがいるの。手を貸してくれると思うわ」
美貴の決心は固いようだ。
もっとも、そんなに決心が固いなら、一人で行きゃいいようなもんだが、そこがお嬢様なんだろう。
でも——私には関係ないわ、と奈々子は思った。そうよ。私は別に何も……。
「ね、奈々子さん」
ぐっと身をのり出して、美貴は奈々子の手を握った。
いやだ! 絶対にいやだ!
そんな用事でヨーロッパに行くくらいなら、その辺の温泉でのんびりした方がよっぽどいい!
ともかく——いやだ!
「承知してくれて嬉《うれ》しいよ」
と、志村武治は微《ほほ》笑《え》みながら言った。「お礼は充分にさせてもらうからね」
「はあ」
と、奈々子は言った。
何でこうお人好しなのかしら、私は。——つくづくため息が出る。
もちろん、〈南十字星〉が吹っ飛んでしまって、しばらくは失業することになるから、仕事は捜さなきゃならないとしても……。
「美貴の力になってやってくれ」
と、志村は奈々子の手を握った。
車の中で手を握られるなんてことに、奈々子は慣れていない。
申し遅れたが、奈々子は、志村の車に乗っていたのである。といっても、運転手付きの凄く大きな外車。
志村って人は、大変な金持なんだわ、と奈々子は改めて感心した。
奈々子だって、「お金」は嫌いじゃない。でも「お金持」は——好きとか嫌いというほど、知り合いがいない!
ともかく、志村に手を握られて、奈々子は一瞬ギョッとしたのである。
しかし、志村としても別に深い意味があって手を握ったわけではないらしかった。
その証拠に、すぐ離したからである……。
「でも、私、強そうに見えるかもしれませんけど……。ま、そう弱くはありません。でも、空手も剣道もできないんです」
「分ってるとも」
と、志村は笑って言った。「実はね、美貴には言っていないのだが、君には知っておいてもらいたいんだ」
「何です?」
「ボディガードをつける」
「私たちに?」
それならそうと、もっと早く言えって!
奈々子はホッとした。
「それなら……。安心して旅ができますね」
と、急にうきうきして来るから現金なもんである。
「そう。危険はないから、君は大いに旅を楽しんでくれればいい」
と、志村は肯いた。
「で、誰がついてくれるんです?」
「ええと……」
志村は手帳を出してめくると、「——ああ、これだ。K探偵社の森田という男だ」
あの、世にも下手くそな尾行をして、奈々子を怒らせた男だ。
よりによって!——奈々子はまた、たちまち頭痛がして来そうになったのだった……。