丸と三角と四角がワルツを踊ってる、ってとこかな。
奈々子は、その絵を眺めて、それから絵の下に添えられた表題を見て、目を丸くした。
これが〈雨の日の競馬場〉?
「——だめだ」
奈々子の現実的想像力では、とてもついていけなかった。
しかし——もちろん、奈々子も、美しいものは美しいと感じるだけの感受性を充分に持ち合せている。ただ——絵画の領域では、風景画とか裸婦、音楽なら「白鳥の湖」辺りに止まってはいたのだが。
スタイルもいけない。美術館に来るからって、何もこんな気取った——といったって、当り前のワンピースだが——格《かつ》好《こう》をすることはなかった。周囲を見回しゃ、ジーパンの男の子、女の子がいくらもいる。
芸術家風に髪やひげをのばして、絵の前でウーンと唸《うな》ったりしているのがいると、素直な奈々子など、ひそかに尊敬の念など抱いてしまったりするのだが……。
ところで、今日は日曜日である。
といっても、〈南十字星〉がなくなってから、奈々子にとっては、「毎日が日曜日」てなもんで、のんびり——いや、とんでもない! 一週間後には、ドイツへ発《た》たなきゃいけないというので、大あわての日々だったのである。
しかし、その辺も志村が手配してくれて、パスポートの申請もしたし、必要な物も、この二日間、毎日買物に出て、買い揃《そろ》えた。
三日後に出発。とりあえずは一息ついているのである。
〈南十字星〉の店は、マスターの奔《ほん》走《そう》で、何とか再建の目《め》途《ど》が立ちそうだった。
しかし、元のビルはもう無理というので、どこか別の場所に移ることになるだろう、ということだった。喫茶店は立地条件で八割方商売になるかどうか決ってしまう、というところがある。
マスターも、候補地選びに苦心しているようだった。しかし、奈々子は、
「新しい店でも使ってくれる」
という約束をとりつけているので、ま、後々の仕事は確保したわけである。
さて、日曜日に、奈々子がわざわざこんな美術館までやって来たのは、他でもない……。
「あ、いたいた」
と、声がして、トコトコやって来たのは、志村ルミ子だった。
「あら、ルミ子さん」
「わあ、すてき! 奈々子さんって、そういう格好すると、やっぱり女ね」
何てほめ方だ。しかし、ルミ子のような子に言われると、腹も立たない。
大体、ルミ子の可《か》愛《わい》いスタイルと比べられたら、こっちなんか——「青い山脈」なんて映画にでも出て来そうだ。
「野田さん、表の車で待ってるわ」
と、ルミ子が言った。「ごめんなさい。何だかデートのお邪魔しちゃって」
「そんなことないの。男の人と二人って、疲れてだめだから」
野田に誘われたので、ルミ子と一緒なら、という条件をつけたのである。変わったデートだ。
「野田さんは見ないのかしら?」
と、奈々子は歩きながら言った。
「うん。車、乗ってないと持ってかれちゃうからって。——私、絵って好き」
と、ルミ子は言った。
「全然分んないわ」
「分んないところがいい」
こういうのに、ついて行けないのである。
「——ね、ちょっと座りましょ」
広い美術館の一角に、お茶を飲むスペースがある。二人はその隅《すみ》の方に、腰をおろした。「ドイツ行きの仕《し》度《たく》、すんだんですか?」
と、ルミ子が訊《き》いた。
「何とかね。後は当日、行くのを忘れないようにしないと」
「面白い人、奈々子さんって」
ルミ子は明るく笑った。
「面白くたって、もてないのよね」
「そんなことないわ。野田さんだって——」
「恋人っていうんじゃないわよ」
「そうかなあ。——でも、本当に?」
と、ルミ子が、ちょっと探るように奈々子を見る。
「何が?」
「野田さんのこと。私、好きなんだもん」
「へえ……」
「もちろん、野田さんから見りゃ、子供でしょうけどね。でも、結構、家庭教師してもらってたころから、好きだったの」
あいつ! 真面目そうな顔して。
「でも、野田さんは姉さんに夢中だったし。三枝さんと結婚したんで、私、内心ホッとしたの」
「でも……」
「そう。——また、野田さんとお姉さん、って可能性も出て来ちゃったから、正直なところ面白くないの」
まあ、それはないでしょ、と思ったが、ルミ子にそうは言えない。
「奈々子さん」
「何?」
「お姉さんの気持、確かめてくれません?」
「私が?」
「そう。野田さんのこと、どう思ってるのか……。私だって真剣なんだもん。姉さんが、野田さんのこと、ナンバーツーとしか思ってないのなら、私の方がナンバーワンに考えてるってこと……。野田さんの気持はもちろん大切だけど」
ルミ子の言葉はいかにも少女らしい率直さで、奈々子の胸を打った。
しかし、正直なところ、奈々子としては、野田も完全には信じていないのだから、ルミ子のこの「告白」に、少々複雑な気分ではあった……。
「さ、見て回って、出ましょうか」
ルミ子が、パッと明るく言って立ち上った。いかにも十代の若々しさである。
「野田さんが苛《いら》々《いら》しながら待ってるわね」
「もっとのんびり見て、待たせちゃおうか」
と、言って、ルミ子は笑った。
奈々子がアパートに帰ったのは、夜の十時過ぎだった。
もちろん野田やルミ子と、大いに楽しく食事をして(当然おごらせて)来たのである。
アルコールも少々入って、欠伸《 あ く び》しながら、タクシーを降り、奈々子は、アパートの方へと歩いて行った。
お風呂へ入らないで寝ちゃおかな。でも、入らないと、却《かえ》ってすっきりしないかも……。
全くの——全くの不意打ちだった。
いきなり後ろから手がのびて来て、パッと奈々子の口をふさぐ。
声を上げる前に、両手でその手を外そうとして——目の前にナイフが光った。
後ろから組みついた誰かが、左手で奈々子の口をふさぎ、右手に握ったナイフを奈々子の胸に突き立てようとしたのだ。
ナイフが奈々子の胸をめがけて——あわや、と思った時、カチッ、と金属の当る音がした。
奈々子の手に下げていたハンドバッグが、ちょうど胸のところへ来ていて、ナイフがそのバッグを刺したのだ。
もちろん、革のバッグぐらい、簡単に貫き通してしまうだろうが、中のコンパクト——一応そんな物を持っている——に刃の先が当ったのだった。
舌打ちする音。——一呼吸あった。
奈々子も、立ち直っていた。殺されてたまるか!
肘《ひじ》で、思い切り、後ろをついてやった。これがみごとに決った。
口をふさいだ手が外れる。奈々子は、振り向きざま、バッグを力一杯振り回した。手応えがあった。
相手がよろける。——そして、諦《あきら》めるのも早かった。
相手がドッと駆け出して行った。
奈々子は、追いかけてやろうかとも思ったが……。しかし、やはりそこまでは、できなかった。
何かが足下にパラパラと落ちる。
ハンドバッグの中身だ。よく見ると、ハンドバッグが、スパッと裂けてしまっている。
もしかしたら、バッグでなく、私の胸が切り裂かれていたかもしれない……。そう思うと、急に奈々子はガタガタ震え出してしまった……。
——やっと部屋へ入ると、鍵《かぎ》をかけ、チェーンもかけ、畳の上に引っくり返る。
心臓が、今になって苦しいほど打っている。
「警察へ知らせなきゃ……」
と、呟《つぶや》いたものの、体の方が言うことをきかないのだ。
電話が鳴って、奈々子は、
「ワァッ!」
と、声を上げてしまった。「——ああ、びっくりした!」
電話が鳴り続けている。——奈々子は這《は》うようにして、やっと電話に辿《たど》りついた。
「——もしもし」
「奈々ちゃんか」
「マスター……。良かった!」
「どうしたんだ?」
「あの……今、外で、誰かに殺されかけたんです」
「何だって?」
「嘘《うそ》じゃないんですよ。本当です。バッグなんか穴があいちゃって、もう——」
「大丈夫なのか? けがは?」
「してない……と思います」
「そうか。警察へは?」
「まだ……」
「よし。僕が連絡するよ。外へ出るんじゃないよ」
「ええ。もう大丈夫」
「いや、心配してたんだ。今日昼間から、何度か電話してたんだがね」
「すみません。出かけてて。何か用だったんですか」
「用心しなさい、と言おうと思ってね」
「え?」
「例の爆発だがね。どうやら、誰かが爆弾のようなものをガスの元栓の辺りに取り付けて、リモコンで爆発させたらしいんだ」
「リモコン?」
「といっても、そう難しいものじゃない。しかし、それよりね、問題は、誰が、なぜそんなことをしたのか、だ」
「ええ、そうですね……」
奈々子は、あの直前に、無言の電話があったことを思い出した。それを話すと、
「やっぱりね」
「というと?」
「その電話は君が店にいるのを、確かめたんだと思うね」
「じゃ、あの爆発は——」
「奈々ちゃんを狙《ねら》ったんだよ」
——どうして?
どうして私が狙われるの? こんな善人が!
奈々子は、不安と怒りとやり切れなさで……。ともかく何が何だか分らない混乱の中、旅立とうとしていたのである……。