大きい……。
奈々子としては、成田空港だって、ずいぶん広い、と感じたのだが、ドイツの表玄関と言われる、フランクフルトの空港の広いことと来たら……。
「ここで待ち合せるのは大変なの」
と、ルミ子が言った。「動かずにいるのが一番よ。向うが捜して来てくれるわ」
「そうね」
と、美貴も肯《うなず》く。「奈々子さん、疲れてるんでしょ?」
「え?——いえ、まあ別に」
アンカレッジを出てから、機内で映画が上映され、また食事。それから一眠りしてまた食事……。
奈々子は、半分くらい食べてやめておいたが、一緒に乗っていたドイツ人らしい男性はどれもきれいに平らげていた。
「大丈夫ですよ。ここに立ってりゃいいんでしょ?」
「ハンスが迎えに来てくれると思うのよね」
と、ルミ子が言った。
「ハンスって?」
と、奈々子が訊《き》く。
「人の名だろ」
と、森田が言った。
「分ってるわよ、それくらい! 犬やカモが迎えに来るわけ、ないでしょ」
どうにも相性が悪いというのか、また二人でやり合っていると……。
「あ——」
さっき、声をかけて来た紳士だ。
あの後は別に口もきかなかったが……。
スーツケースを一つ下げ、もう一方の手には、小ぶりのバッグを持っている。
奈々子たちには気付かない様子で、空港のロビーを大《おお》股《また》に歩いて行った。
歩き方が、奈々子には気になった。何だかいやに若々しい。
もしかすると、見かけよりずっと若いのかも……。
何となく目で、その後ろ姿を追っていると——。
一瞬の出来事だった。その紳士とすれ違った男——金髪の、背の高い男だった——が、パッと紳士のバッグを引ったくると、駆け出したのだった。
「——おい! 待て!」
紳士も唖《あ》然《ぜん》としたらしい。声を上げた時には、もう金髪の男の方は、人の間をすり抜けて、出口へ向って駆けていた。
全く、反射的な行動だった。——奈々子は特別に度胸がいいわけでもないし、柔道や空手の心得があるわけでもない。
それなのに、そのかっぱらいが、目の前五、六メートルの所を駆け抜けようとしているのを見ると、思わずパッと飛び出していたのである。
「危《あぶな》いわ!」
と、美貴が叫んだ。「奈々子さん!」
ここは日本じゃないんだ。——奈々子にもそれは分っていた。
しかし、一旦飛び出したのを、今さら、止められやしない。
奈々子は、その金髪の男に、真横から体当りした。
相手も、まさかこんな所で邪魔が入るとは思ってもいなかったのだろう。
もののみごとに引っくり返ってしまった。かっぱらったバッグが手から飛んで、床を滑《すべ》って行く。
奈々子は駆けて行って、そのバッグを拾い上げた。
金髪の男は、立ち上って、奈々子へ向って行きそうにしたが、その時、空港の警備員が走って来るのが見えて、パッと出口の方へ駆け出した。
あの紳士が、やっと追いついて来て、
「やあ、これはどうも!——助かりましたよ」
「いいえ」
奈々子は、バッグをその紳士へ返した。「たまたまぶつかっただけです」
「ありがたい! パスポートも全部入っていたんです。これを盗られたら、困り果てるところでした」
「どういたしまして」
奈々子は、美貴たちの所へ戻った。
あの紳士が、やって来た警備員に、事情を説明している。
「驚いた!」
と、美貴が目を丸くして、「大胆なのね、奈々子さんって」
「本当」
と、ルミ子が肯《うなず》いて、「相手が武器持ってたら、殺されてたかも」
武器か。——そんなこと、考えもしなかったけど。
「私は、考える前に行動しちゃう人だから」
と、肩をすくめて、「それで殺されても自分のせい。文句は言わないわ」
——森田も、ただ唖《あ》然《ぜん》として、声が出ない様子だ。
すると、
「ルミ子!」
と、声がして——どうやらこれが「ハンス」らしい。
「ハンス!」
ルミ子が駆けて行って、その男にキスした。
「いつの間に、あんなボーイフレンドを作ったのかしら」
と、美貴が言った。
「ハンスよ」
と、ルミ子が引っ張って来たのは、若いが、一応背広を着てネクタイもしめた、ブラウンの髪の若者だった。
「コンニチハ」
と、かたことの日本語で言って、何やらペラペラとドイツ語でしゃべり、奈々子の手を握った。
奈々子は呆《あつ》気《け》に取られて、
「何ですって?」
と、ルミ子に訊《き》く。
「勇気のある人だって、大感激してる」
「あ、そう」
「ヤアヤア」
と言うなり、ハンスは、奈々子にチュッとキスしたのだった。
「気楽にキスしないで」
と、真赤になって、奈々子は言った。
「『あ、そう』っていうのは、ドイツ語でも同じ意味なんですよ」
と、ルミ子が面白そうに言った。「だからハンス、奈々子さんがドイツ語分るのかと思ったみたい」
「冗談じゃない、って、ドイツ語で何て言うの?」
と、奈々子は訊いた……。
ハンスの運転する車で、奈々子たちはホテルへと向った。
途中、ハンスはルミ子と何やら話していた。——美貴が話を聞いていて、
「確かにそうだわ」
と、肯く。
「何が?」
「いえ、あのバッグを盗られた人のことです」
「ああ、あの人が何か?」
「かなり何度もこっちへ来てる人だ、って——」
「当人がそう言ってたわ」
「でも、おかしい、って」
「何が?」
「ハンスも、一部始終を見ていたらしいんですけど……」
「おかしいって」
と、ルミ子が言った。「盗ってくれ、と言わんばかりの持ち方をしてたって」
なるほど。確かに、いやに簡単にかっぱらわれてしまった。
「じゃ、どういうこと?」
「本当にこっちへ何度も来て、慣れてる人なら、あんな持ち方はしないって」
「初めてなのかしら、それじゃ」
「それでなければ」
と、ルミ子が言った。「わざと、盗らせたか、ですって」
「どうして、わざと盗らせたりするの?」
「渡したい物があったのかも」
と、ルミ子は言った。「渡したところを捕まったら、困るかもしれないでしょ。その点、引ったくりに遭って、バッグごとなくなっちゃえば……」
「じゃ、あの二人、仲間だった、っていうの?」
奈々子は唖然とした。
「かもしれませんね」
それを、私はわざわざ邪魔して、バッグを取り戻してしまった……。
奈々子は、また頭をかかえてしまった。
——その内に車はホテルへ着く。
「フランクフルトでは一番格式の高いホテルです」
と、美貴は言った。「もう入れるかどうか訊いてみますね」
なるほど。時差で、今はまだ朝なのだ。
「——もう入れますって」
と、美貴は言った。
「助かった!」
と、奈々子は声を上げた。「一眠りできるぞ!」
「部屋へ行って少し休みましょう」
と、美貴が言った。
さすがに、奈々子もくたびれていた。
美貴と二人で泊るには、少し広すぎるくらいのツインルーム。
「くたびれた!」
と、奈々子はベッドの上にドタッと倒れてしまった。
「——少し眠るといいですわ」
と、美貴は言った。
「ええ……」
「午後、時間があったら、ゲーテの家でもご覧になったら?」
「うん……」
「ゲーテの家といっても、別にそう珍しいというもんじゃありませんけど。——ゲーテはお好き?」
返事がない。
奈々子は、もうベッドでいびきをかいて眠り込んでいたのである。