あの、いささか謎《なぞ》めいた老紳士——いや実際はもっと若いのかもしれないが——から、「美貴とルミ子の先生」かと訊《き》かれてショックを受けた奈々子だったが、ここ、フランクフルトのホテル、フランクフルターホフでは、若いところを立証して見せた。
朝の内にホテルへ入り、ベッドに引っくり返るなり、グーッと二、三時間ぐっすり眠ってしまった奈々子、目が覚めると、すっかり旅の疲れも取れて、今度はまたグーッと……。
これはお腹の方が空腹を訴えているのだった。
「——お目覚め?」
美貴がもう、着替えをして、ソファに座っている。
「あら……。もう朝かしら?」
なんて、やっぱり多少はボーッとしているらしい。
「お昼ご飯にしましょう、って、今、ルミ子から電話があったところ。——先にロビーへ行ってますわ。シャワーでも浴びて着替えられた方が」
「あ、そうですね。じゃ、そうさせていただこうかしら」
と、奈々子はブルブルッと頭を振った。
犬が雨に濡《ぬ》れて、水を切ってるみたいだ。
「街へ出ようと思ってるから、軽装でいらしてね」
と、美貴は言った。
「ええ。でも水着じゃ困るでしょ?」
奈々子も、冗談を言うだけの元気が出ていたのである。
——シャワーを浴びて、スッキリすると、
「ヨーロッパだ!」
と、奈々子は声に出して言った。
もちろん、浮かれていちゃいけないのだが、しかし、遠路はるばるやって来たのだという感激は、味わって、悪いこともあるまい。
次の感激は——ホテルを出て、近くの広くてにぎやかなレストランで食べたソーセージのおいしかったことである。
そうか。——ここはフランクフルトだ。
それこそ本場のフランクフルトソーセージ!
結構大きなソーセージ四本をペロリと平らげて、奈々子は満足だった。
「すっかり気分も良くなったみたい」
と、ルミ子が言った。
「ええ」
奈々子は胸を張って、「矢でも鉄砲でも持って来い!」
「かなわねえな」
と、ブツクサ言っているのは、森田である。
「何よ、何か文句あんの?」
と、奈々子は森田をにらんだ。
「いいか。日本とドイツってのは時差があるんだ」
「それぐらい知ってるわよ」
と、奈々子は言った。
「普通の人なら……時差ボケってのにやられるんだ」
と、言いながら、森田は欠伸《 あ く び》している。
「もうトシね」
と、奈々子は言ってやった。
「何だと!」
「ちょっと」
と、ルミ子が顔をしかめて、「あんた、ボディガードでしょ。用のない時は黙ってりゃいいの」
ムッとして、森田はソーセージを食べ続けていた。
「時差ボケでも、食欲は落ちないみたいね」
と、奈々子は言った。
ところで——当然、この席にはハンスという青年も一緒だった。
ルミ子が前にドイツへ遊びに来た時、知り合った、ということだが、体は大きくても年齢は二十歳、という。
「この人、今はヒマなんで、ともかくお手伝いすると言ってるから」
と、ルミ子は言った。
ハンスはニッコリ笑って肯《うなず》く。いかにも人の好さそうな笑顔だった。
「——そうだ」
と、奈々子は、食後のコーヒーを飲みながら、「これから、どういう予定なんですか?」
「ええ」
美貴は、ちょっと息をついて、「ともかく主人のいなくなった所まで、私たちの道すじを辿《たど》ってみようと思うの」
「いなくなったのって、どこなんですか」
と、奈々子は訊《き》いた。
「ミュンヘンの郊外のホテルなの」
そういえば、ミュンヘンなんて町もあったわね、と奈々子は思った。
ともかく出発まで忙しくて、事前に予備知識を仕入れる時間なんて、全然なかったのである。
ま、ダンケぐらい知ってりゃ何とかなるでしょ、と無茶なことを考えて、やって来たのだ。
「このフランクフルトでは、何したの?」
と、ルミ子が訊く。
「ここは大きな都会だけど、そう見て回る所ってないのよね。むしろビジネスの町ですから」
しかし、もし三枝成正が、志村の言っていたように、密輸に係《かかわ》っていたとしたら、こういう大都会の方が、何かありそうな気もする……。
奈々子は、やっと本来の役目に立ち戻って、そう考えたりしていた。
「ゲーテ博物館へ行って、それから三越で買物して……。二日しかいなかったから、そんなものね」
「三越があるんですか」
と、奈々子は言った。
「ええ、このすぐ近く」
「伊勢丹は?」
訊いてから、奈々子は後悔した。
——食事を終えて、ともかく一同、店を出ると、その三越デパートへ足を向けたのだった……。
「いらっしゃいませ」
日本語で挨《あい》拶《さつ》されるっていうのも、何となく妙な感じではあった。
もちろん、デパートといっても、日本のそれのように大きくはない。しかし、ズラッと売子に日本人の若い女性が揃《そろ》っているのには、奈々子もびっくりしてしまった。
「これはどうも」
と、かなり上の方らしい男性が、美貴のことを思い出したようで、急ぎ足でやって来た。
「三枝様でございますね」
「ええ」
と、美貴は肯いた。
「その節はどうも……。ご主人のこと、気にはなっていたんでございますが」
「ありがとう。——まだ行方が分りませんので」
「さようでございますか。ご心配ですね」
と、男の方も、深刻な顔で肯く。
「こちらへ立ち寄られた日本の方から、何かお聞きじゃありません?」
「残念ながら……。お話をうかがって、気を付けてはいたんでございますが」
「そうですか」
——奈々子は、その対話に耳を傾けながら、目はついウインドーの方を向いていた。
と、女店員の一人が仕事の手を休めて、美貴の方を見ると、あっという顔になった。
奈々子は、美貴をチョイとつついて、
「あそこの女の人、何か話がありそうですけど」
と、言った。
「え?」
男の方が目をやって、
「何だ。大江君じゃないか。——大江君」
「はい」
その女店員がやって来る。
「何か知ってるのかい?」
「あの——今日、主任さんがお出かけになってる時に」
「どうした?」
「男の方がみえて……。この女の人を見かけないか、って」
「女の人?」
「ええ」
その女店員は、美貴を見て、「この方の写真を見せたんです」
「まあ」
美貴の頬が紅潮した。「それ——どんな男の人でした? 二十六、七の、背の高い——」
夫のことを言っているのだろう。
しかし、女店員は首を振った。
「いいえ、そんな方じゃありません」
「じゃ——」
「もっとお年《と》齢《し》の方です」
「いくつぐらいの?」
「たぶん……五十から六十くらいで。髪が少し白くなっていて……」
「——誰かしら?」
と、ルミ子が言った。「どう見ても三枝さんじゃないね」
「他には何か?」
「いいえ」
「よくみえるお客かい?」
と、主任の男性が言った。
「さあ。たぶん初めてだと思います。入って来られた時の様子が」
「なるほどね」
と、ルミ子は肯いた。「お姉さん、心当りは?」
「ないわ。そんなお知り合い、こっちにはいないし」
「でも、お姉さんの写真を——」
「ちょっと」
と、奈々子は割って入った。「その写真、どんな写真だった?」
「そうだわ!」
と、美貴は目を輝かせて、「奈々子さんって頭がいいのね」
「どういたしまして」
「俺だって、今考えた」
と、森田が呟《つぶや》いた。
その女店員が、少し考えてから、写真の美貴の服装を説明すると、
「それ——今日、こっちへ来る時に着てた服だわ」
と、美貴が面食らって言った。
「前には着なかったんですか?」
と、奈々子が訊《き》くと、
「ええ。今度の旅のために買ったんですもの、それ」
「じゃ、どこでそんな写真を——」
みんなが顔を見合わせる。
待てよ、と奈々子は思った。
五十から六十ぐらいの、髪の白くなった……。どこかで、そんな人を——。
「そうだわ!」
奈々子が大声を上げたので、店の中が、シンと静まり返った。
「——耳が痛かったぞ」
と、森田が言った。
「ね、美貴さん、あの人だわ、それ」
「え?」
「ほら、ファーストクラスに乗ってて、空港で私がバッグを取り返した……」
「まあ! 本当ね。それなら——」
「写真はきっと、飛行機の中か、アンカレッジで、そっと撮ったんだわ」
「そうですね」
と、女店員が言った。「あれ、アンカレッジの空港でした」
美貴は、戸《と》惑《まど》って、
「一体誰なのかしら、その人」
と、首をかしげる。
「その人、何か言ってた?」
「いえ。何とも言わずに帰られましたけど」
——どうもいやな予感がする。
奈々子は、あの紳士と、またどこかで出くわしそうな気がした。