「天高く、馬肥《こ》ゆる秋」
なんて、奈々子は呟《つぶや》いた。
特に理由はない。
本当は、「芸術の都、ミュンヘン」と言おうとしたのである。それが「芸術の秋」になり、「天高く——」「食欲の秋」の方へと行ってしまったのだった。
しかし、ミュンヘンはともかく、美しい街だった。
フランクフルトが、大都会らしく雑然としていたのに比べると、こっちはぐっと静かで、落ちついている。
もちろん、観光客は多い。しかし、石造りの古びた街並の方が、騒がしい観光客に勝っているのだ。
——さて、奈々子たちは、〈ホテル・フィアーヤーレスツァイテン〉に入って、一息ついていた。
長い名前であるが、日本語なら、結構なじみがある言葉——〈四季〉という意味なのである。
「で、警察の方では何て?」
昼食を、ホテルのレストランで取りながら、奈々子は訊《き》いた。
「それが妙なの」
と、美貴は言った。
「私がハンスに電話してもらったのよ」
と、ルミ子は言った。
「でたらめなんじゃないのか」
と、森田が相変らず憎まれ口をきく。
「どうして私が嘘《うそ》をつくのよ」
「そりゃ知らないけどな。日本語ペラペラのドイツ人に、いきなり押し倒されて、ピストルで狙《ねら》われたなんて、誰も信じるもんか」
「ディスコに置き去りにされて、怒ってんのね」
と、奈々子は言い返した。「心細くて泣いてたんでしょ」
「何だと!」
「二人とも、やめて」
と、美貴が言った。「ルミ子、話をつづけて」
「うん。——ちゃんと警察には届けたし、向うも、その時は、色々調べてくれたのよ。ところが、今朝電話してみたら、『あれはもう処理済だ』って一言でチョン」
「処理済?」
「そう。妙な話よね」
と、ルミ子は首を振った。
ハンスが何か言った。ルミ子は、肯《うなず》きながら、
「ハンスの言うには、観光客相手の強盗か何かだと思って、本気で調べていないんじゃないかって」
「ま、いいですけどね」
と、奈々子は、肩をすくめた。「日本じゃ、爆弾で店ごと吹っ飛ばされそうになるし、刺し殺されそうになるし、ドイツじゃ撃たれそうになるし……。どうせ私は長生きできないんだわ」
「そうだな」
と、森田は言った。「せいぜい生きても九十年だな」
奈々子はつかみかかろうとして、ルミ子に止められたのだった……。
午後から、一行は町へ出た。
「昼間はドイツ博物館を回ったの。で、夕食を取って、夜は二人でオペラを見たのよ」
「オペラ……」
奈々子は一瞬考えた。——美貴と三枝の足跡を辿《たど》る旅をしているわけだが、オペラを見ていて眠らずにすむだろうか?
「——いいお天気」
と、ルミ子は言った。「じゃ、ともかく、ドイツ博物館へ行きましょうよ」
「ドイツって、一つしかないんですか、博物館?」
と、奈々子は訊《き》いた。
「いいえ。どうして?」
「だって、他にもあるなら、ドイツの博物館はみんな〈ドイツ博物館〉じゃないかと思って」
奈々子なりに、筋の通った意見だったのである……。
ホテルを後に歩きかけると、後ろから、呼ぶ声がした。
「——あら、奈々子さん、お電話ですって」
と、美貴が言った。
「私に?」
「浅田さんて言ったもの」
「でも——誰だろ」
奈々子はホテルのロビーへ入って、フロントの電話に出た。
「ええと——ハロー、もしもし。グーテンターク」
向うから笑い声が聞こえて来た。
「いや、元気そうだね」
「志村さんですね」
と、奈々子はホッとした。
「どうかね、そっちは」
「ま、私以外の人は無事です」
「頑《がん》張《ば》ってくれ。——今、美貴はそばに?」
「いいえ。でも近くですよ。呼びましょうか?」
「いや、いいんだ」
と、志村はやや重苦しい声になった。「実は、警察の人間が来てね」
「もう伝わったんですか」
「何が?」
「あ、いえ。——何の用事で?」
「うん。三枝君のことだ。どうも、彼が密輸に係っていたのは事実だったらしい」
「じゃ、そのせいで殺されたと?」
「こっちでも、受け入れ側を捜査しているということでね。何か知らないか、と刑事がやって来たんだ」
「じゃますます絶望的ですね」
と、奈々子は祈るように、「私のお葬式は出して下さいね」
「心配するな。君の家族は?」
真面目に訊《き》かれて、ますます奈々子は、暗い気分になってしまったのだった……。
「——飛行機だ」
と、奈々子は目をパチクリさせた。
——ドイツ博物館へとやってきた一行は、まず入口の前庭に当る場所にでんと置かれた本物の飛行機に目を丸くしてしまったのだった。
いや、美貴は前に来て知っているわけだが、ルミ子もここは初めてで、
「へえ! どうやってここに降りたんだろう?」
なんて、奈々子の考えてるのと同じことを言い出した。
もちろん、着陸できるわけはない。ここへ運んで来たのだ。
しかし、本物の輸送機が置いてあるというのは凄《すご》い——なんて思っていたら、それどころじゃなかった。
奈々子は、〈ドイツ博物館〉なんていうから、日本でいうと〈郷土館〉みたいなものかと思っていたのだが、とんでもない話で、何しろ中の広いこと……。
飛行機、船、列車、自動車から——およそ産業全般にわたって、「何でも」置いてあるのだ。
しかも、どれも本物。——船や飛行機も、全部、実物が並んでいる。
奈々子は、すっかり圧倒されてしまった。
ルミ子も大喜びで、ハンスと写真をとり合ったりしている。
「——これ全部見て回ったんですか」
と、奈々子は、美貴に訊いた。
「いいえ。ともかくここ、全部見て回ったら一日じゃ終らないくらい。あの人、車が好きだから、自動車の所を、長く見てたわ」
——奈々子は、船の陳列を見て歩いていた。
第二次大戦の時、ドイツ軍が連合国を震え上らせた潜水艦、「Uボート」も、本物が置いてある。船腹を開いて、中が見えるようになっている。
「狭いんだ」
と、乗組員のベッドとか、部屋を見て、奈々子は首を振った。「こんな所で、良く何か月も暮せたなあ」
「全くだね」
と、声がした。
振り向いた奈々子はびっくりした。——フランクフルトにいた、ペーターという男ではないか!
今日は、背広にネクタイというスタイルである。
「あんた——」
「しっ」
と、ペーターは、奈々子の腕を取って、「他の人たちはあっちにいる。——来てくれ」
「でも……」
奈々子は、細い通路を通って、静かな場所へ出ると、「あなた、何者?」
と、訊いた。
「僕は、日本流に言うと、麻薬捜査官だ」
「麻薬?」
ペーターは肯《うなず》いた。
「君らがミュンヘンに発《た》ったと知ったんで、追いかけて来たんだよ」
「私は悪いことなんかしてないわよ」
「分ってる」
と、ペーターは言った。「君に嘘《うそ》をついて悪かった。君と、フランクフルトの空港でぶつかったのは、確かに僕だ」
「やっぱり!」
と、奈々子はホッとして、「私の記憶力も、捨てたもんじゃないわね」
「全くだ。君らの旅のグループのことも、調べたよ」
「何が分ったの?」
「君がユニークな女性だってことがね」
と、ペーターは微《ほほ》笑《え》んだ。
「そんなことより、あの時、あなたがぶつかった年寄りは誰なの?」
「年寄りなんかじゃない。あの男はせいぜい四十歳ってところだろう」
「やっぱりね。歩き方が若かった」
「あいつは、日本からマークされている人間なんだ。しかし、『やっぱり』というのは?」
「あのね——」
と、言いかけて、「でも、あんたが信用できるって証拠はどこにあるの?」
「疑うのかい?」
「そりゃ、知らない人ですものね」
「うむ。——困ったな」
「味方であることを立証せよ」
と、奈々子は言ってやった。
「よし」
と、肯いた、と思うと……。
ペーターは、奈々子を抱きしめて、熱烈なキスをしたのだった……。