「じゃ、ディスコの前で撃たれたのは、私じゃなくて、あんただったのね」
と、奈々子は言った。「良かった! 何で悪いこともしてない私が狙《ねら》われるのか、って悩んでたのよ」
「いや、すまなかった」
と、ペーターが、みごとな日本語で言う。「あの店で、僕は情報屋と会うことになっていたんだ」
「へえ」
「その男はやって来なかった」
「私が邪魔したから?」
「そうじゃない」
と、ペーターは首を振って、「翌朝、死体になって見付かった」
「あら」
——奈々子は、私も、いつかこんな風に話の種になって終るのかしら、と考えた。
「ありゃ変った女だった。殺しても死にそうもなかったけど、やっぱり死んだところを見ると、人間だったんだな」
とか……。
ところで——前章の終りで、ペーターと熱いキスを交わしていた奈々子だが、今はこんなに冷静に話をしている。
あのキスの結果、どうなったかというと……。まあ、ペーターの頬《ほお》にまだ赤く手のあとが残っていることから、察しがつきそうである。
全く、ドイツ人ってのはむちゃくちゃだ!
いくら味方だって証明する方法がないからって、キスすりゃいいってもんでもあるまいが。
「——まだ痛い」
と、ペーターが頬をさわって息をついた。
「自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》ってもんよ」
と、奈々子は言ってやったが、多少は力を入れすぎたかな、という気もあって、「そんなに痛い?」
「愛情の表現だと思えば、我慢できるよ」
ペーターの言葉に、奈々子は笑い出してしまった。
このカラッとしたところが、奈々子らしさなのである。なかなか、ロマンチックなムードにゃなりそうにない。
まだ二人はドイツ博物館の中にいた。何しろ、中は迷子になりそうなほど広い。
「——凄《すご》い博物館ねえ」
と、奈々子はペーターと一緒に歩きながら言った。
「ドイツ人ってのは、いざ物を揃《そろ》えるとか、集めるってことにかけては、徹底してるんだ。きちんと分類して、整理して、何から何まで集めなきゃ気がすまない」
「らしいわね」
と、奈々子は肯《うなず》いた。「圧倒される」
本物の蒸気機関車を見上げて歩きながら、奈々子は、
「私たちのこと、調べたって——。じゃ、この旅の目的も分ってるの?」
「行方不明になってる、三枝って男を捜しに来たんだろ?」
「そう。あんたも三枝さんに興味あるの」
「うん」
と、ペーターは肯いた。「こっちで消えたのは、やっぱり密輸に係《かかわ》り合ってたからだろう」
「美貴さん、可《か》哀《わい》そうに」
と、奈々子は首を振った。「そういえば、どこにいるのかなあ。私、美貴さんのボディガードなんだから、そばにいなきゃいけないのよ。それをあんたが、キスなんかするから」
「いや、失礼」
と、ペーターは笑った。「僕としては、君のことを守らなきゃいけないと思ってるんだよ」
「私?」
「ディスコの前で、僕と話しているのを見られてるだろ。僕の同類と思われたかもしれない」
「失礼ね。あんた男で、私は女よ。こう見えたってね」
「そう思わなきゃ、キスなんかしない」
それも理屈だ、と奈々子は思った。
ともかく、日本にいたって、爆弾で殺されかけたりしているので、奈々子、少々のことでは怖がったりしないのである。
これを正しくは、「やけ」になっている、と言うのかもしれない。
「——あ、ルミ子さんの声だ」
キャアキャア笑っている、明るい声が響いて来た。
「じゃ、僕はここで」
と、ペーターが言った。
「これからどうするの?」
「また会うことになるだろうね」
そう言ってニヤッと笑うと、ペーターは足早に、姿を消してしまった。
「——フン、きざな奴《やつ》」
と、奈々子は肩をすくめたが、まあそう悪い気もしなかった。
あのキスも、突然のことでもあり、道を歩いていて、ちょっと人とぶつかったようなもんだ(大分違うかな)。少なくとも、胸のときめく暇もなかったけど……。そう悪い奴でもなさそうじゃないの。
「——あ、いたいた」
と、ルミ子が奈々子を見付けて、「捜したのよ!」
「ごめんなさい」
と、奈々子は頭をかいて、「ちょっと船の中で昼寝してたもんだから……」
このジョークが、割合、まともに受け取られるのを見て、奈々子は少し反省した。——私って、そんなに変ったことをやる人間と見られてるんだろうか……。
奈々子たちは、自動車の集めてある一画へやって来た。
「わあ、クラシックカー!」
と、ルミ子が飛び上ってハンスの手を引張ると、
「ねえ! ここで写真とって!」
と、騒いでいる。
「——いいわねえ、若くって」
と、美貴が言った。
「美貴さんだって、若いじゃないですか」
「だけど、十代の子にはかなわないわよ」
「そんなこと言って! 若くない、ってのは、ああいうのを言うんです」
奈々子は、すっかりへばって、ベンチにのびている森田の方を指さした。
「あの人だって、若いでしょ、まだ」
「きっと、ふだんの栄養状態が悪いんでしょう」
と、奈々子は言った。「——三枝さん、ここに長くいたんですね?」
「そう。あの人、車が好きだから。——もう、ポルシェとか、その辺の車、いつまでも飽《あ》きずに見てて。私が呆《あき》れて先に行っちゃっても、三十分も来なかったわ」
と、美貴は微《ほほ》笑《え》んだ。
三十分も。——ということは、ここで、三枝は一人になったわけだ。
大体、ハネムーンに来て、夫と妻が長いこと別々になる、ということは少ないだろう。
「他に、ご主人が一人でいたってこと、ありました? フランクフルトで、夜、ちょっと出かけてらしたんですよね」
「ええ。その時以外は……。そうねえ。あんまりなかったと思うけど」
と、美貴は言った。
「ここで三十分ほど一人でおられた時はどうでした?」
「どうって?」
「誰かとひょっこり会ったとか、そんなことなかったでしょうか」
「さあ……。何も言ってなかったけど」
と、美貴は首をかしげた。
まあ、ハネムーンの最中でなくても、少しボーッとしたところのある美貴のことだ。少しぐらい夫の様子がおかしくても気が付くまい。
——その後、もう少し博物館の中を見て回り、一行は引き上げることになった。
今度は、忘れずに森田もくっついて来ている。
「絵ハガキ、買って行こう」
外へ出た所で、大きな売店があり、色々売っている。ルミ子がハンスを引張って、中へ入って行った。
「——そうだわ」
と、美貴が言った。「思い出した」
「え?」
「あの時、帰りに絵ハガキを買おうって言ってたの、あの人。でも、出て来ると、さっさと行っちゃうんで、私、訊いたのよ。買わなくていいの、って」
「ご主人は何て?」
「くたびれたから、早く帰ろうって。絵ハガキなんか、どこででも買えるよ、って言って……。何だか、ちょっと苛《いら》々《いら》してるみたいだったわ」
すると——やはり三枝は、博物館の中で誰かに会ったのではないか。それとも、誰かを見かけて、会いたくないので、急いで帰ろうとした……。
フランクフルトの夜の外出、そしてここでの三十分。
その二つには意味がありそうだわ、と奈々子は思った。
拍手の音で、奈々子はハッと目が覚めた。
え? もう終っちゃったのかしら?
パチパチ、と拍手をして……。
「休《きゆう》憩《けい》だわ」
と、ルミ子が席を立つと、「奈々子さん、ロビーに出てみる?」
「ええ、それじゃ……」
やっぱり、眠ってしまった。
夕食でお腹も一杯。心地良く音楽なんか流れていたら、つい眠くなるのも無理はない。
——ホテルから歩いて数分の、国立オペラ。
ボックス席というやつを一つ、奈々子たちのグループで占めていた。おかげで、奈々子が居眠りしても、あまり周囲に迷惑にはならなかったのである。
まだ拍手は続いていたが、奈々子はロビーへ出て、伸びをした。
「シュトラウスっていうから、ワルツかと思った」
と、奈々子は呟《つぶや》いた。
それは、ヨハン・シュトラウス。このオペラはリヒャルト・シュトラウスで、二人は別に親類でも何でもないということを、奈々子は初めて知ったのだった……。
ロビーが、まるで宮殿のように広くて立派である。——この辺が、日本の劇場とは大分違うのね、と奈々子は思った。
ボックスの番号を間違えないように、とよく確かめてから奈々子は、広い階段を下りて行った。
絵や彫刻の飾られた部屋で、簡単な飲物や軽食を出している。
奈々子は、ワインを一杯もらって、ゆっくりと周囲を見回した。
「——失礼」
ポンと肩を叩《たた》かれて振り向くと、タキシード姿の紳士。
「何だ、あんた、また来てたの」
ペーターである。
「ボックス席にいたね。下から見てたよ」
奈々子は、赤くなって、
「趣味悪いわね、全く!」
と、にらんでやった。
「いやいや」
ペーターは笑って、「リヒャルト・シュトラウスで眠っても、そう恥ずかしくはないさ。みんな一緒?」
「ええ。何人起きてたかは知らないけどね」
「今夜は日本人が少ないね。まあ、ツアーで見に来るようなプログラムじゃないんだろうけど」
「一人なの?」
「君と二人」
「今だけよ」
と、奈々子は言ってやった。
「何か食べる?」
お腹一杯、と言おうとして——おごってくれるのを断るのも、もったいない、と思い直すところが、我ながら情ない。
「じゃ——何があるの?」
「サンドイッチぐらいかな」
「いただくわ」
と、奈々子は言った。