で、まあ——当然予想されたことではあるのだが、次の幕でも、奈々子は十分としない内にウトウトし始めたのだった。
手にしていたバッグがストンと落ちて、ハッと目を覚ますと——オーケストラがワーッと鳴り出して、奈々子は飛び上るほどびっくりしてしまった。
その後は、眠ることもなく、曲も、じっと耳を傾けていればなかなか楽しいもので、
「オペラって、結構面白いじゃん」
などと考えたりしていた……。
幕が下りて、また拍手、拍手……。
「あと一幕ね」
と、美貴が言った。「奈々子さん、退屈じゃない?」
「いいえ。割といいもんですね」
何というオペラかも知らないで、言うもんである。
「——あいつはグーグー眠って」
森田は、休憩時間になっても、ほとんど起きることもなく、ひたすら眠りこけていた。
「人のことは言えませんけどね」
と、奈々子は笑って言った。
「ロビーへ出るわ。奈々子さんは?」
「私も」
またワインでもおごらせてやれ、と思っていたわけでは——多少、あった。
もちろん、ペーターが、また来ていればの話だが。
さっきのロビーへ来てみると、前より人が多く、中には目をみはるようなイヴニングドレスの女性もいる。
「はあ……」
と、思わず奈々子も見とれてしまった。
あの格《かつ》好《こう》そのものより、それが似合うということが凄《すご》い!
中に一人、真《しん》紅《く》のドレスに、どう見てもイミテーションとは思えない、重そうな(!)ダイヤのネックレスをした美女がいて、周囲の男たちの目をひいていた。
やはり、目立つ人は目立つのである。
すると——その女性にワイングラスを持って来て手渡している男……。
ペーターではないか!
奈々子は頭に来た。一人だとか言っといて!
しかし、本気で怒る気になれないのも、事実である。何といっても——奈々子と、その女性では、比較のしようもない。
奈々子は、ペーターと目が合うときまりが悪いので、そのままボックス席へと引き返すことにした。
ハンスとルミ子が腕を組んで、広い階段を下りて来る。
奈々子は、ボックス席に入って、誰もいないのを見て、肩をすくめた。どうやら、あの森田も、目が覚めて外へ出ているようだ。
美貴の席に、分厚いパンフレットが置いてあった。奈々子は、そのまま美貴の席にちょっと腰をおろすと、パンフレットをめくった。
もちろん、日本語じゃないから、何だか分らないので、パラパラめくって写真だけ見ていると——。
誰かがボックスへ入って来た。
振り向くと、体の大きな、ドイツ人らしいのが二人、奈々子にペラペラと話しかけて来る。
「は? あの——あのね、私、分んないんです、ドイツ語。——ええとね、イッヒ——何だっけ?」
焦《あせ》った奈々子は、立って行って、男たちに身ぶり手ぶりで、説明しようとした。
「ノーノー。ナイン、ナイン」
男の一人が、いつの間にか、奈々子の後ろへ回っていた。
奈々子の顔に、いきなり、ハンカチが押し当てられた。アッと思う間もない。
ツーンと来る匂いが頭の天《てつ》辺《ぺん》まで貫くようで、スーッと気が遠くなる。
抵抗するにも、腕の力が違う。身動きも取れずにいる内に、奈々子は目の前が真暗になり、完全に気を失ってしまっていた。
「——あら、あれ」
と、ルミ子が足を止めた。
「どうしたんだい?」
と、ハンスが訊《き》く。
「今、男の人たちに挟まれて行ったの——奈々子さんみたいだったけど」
「まさか。日本人の男性?」
「ううん。ドイツ人じゃないかな」
——お断りしておくが、この会話は、本来ドイツ語で交わされているのである。
「——人違いね、きっと」
と、ルミ子は呟《つぶや》くと、肩をすくめた。
ボックス席に戻《もど》ると、美貴と森田は席に戻っていた。
「奈々子さん、見た?」
と、ルミ子は訊いた。
「いいえ。まだ戻っていないわ」
「どうせ、聞いたって分らんのだから」
と、森田が憎まれ口を叩《たた》く。
「そう……」
ルミ子は、肯《うなず》いて席についたが、足の先に何かが触れた。拾い上げて、
「見て。奈々子さんのバッグ」
「あら。バッグを置いて?」
「おかしいわ。今、よく似た人が男二人に挟まれて出口へ行くのを見たの」
美貴が立ち上った。
「行ってみましょ」
ハンスもせっつかれて、みんなで階段を駆け下りて行く。
ルミ子は、下の入口の所に立っている女性に、日本人の女性を見なかったか、と訊《き》いた。
返事を聞いて、美貴もルミ子も、青くなった。ハンスが、急いで外へ駆け出して行った。
一人、わけの分らない森田が、
「どうしたんです? 迷子にでもなったんですか」
と、訊いた。
「日本人の女性が一人、気を失って、男二人に連れられて出て行ったって。——貧血を起こしたんだって言ってたそうよ」
「どういうことだ?」
「鈍いのねえ!」
と、ルミ子が頭に来て、「誘《ゆう》拐《かい》されたのよ! 決ってるじゃないの!」
「どうしたらいいかしら」
と、美貴は呆《ぼう》然《ぜん》としている。
「今、ハンスが、見に行ってるわ」
ハンスが、すぐに駆け戻って来た。
「どうだって?」
と、森田が訊く。
「——どこにも見当らないって。警察へ届ける?」
「そうね」
「ハンスが言うには、奈々子さんのことを、分っていて誘拐したのか、それとも、ただ日本人でボックス席にいるから、お金持だと思って誘拐したのか分らない、って」
「だとすると……。向うから連絡があるわね。きっと」
「お姉さん、森田さんとホテルに戻っていて。何か連絡が入るかもしれないわ。私とハンスは、これが終るまでボックスにいてみる。犯人が、連絡をここへよこすかもしれない」
「分ったわ」
美貴が、ため息をついた。「——大変なことになっちゃったわ……」
ガタン、ガタン。
ずいぶん揺れるわね、この車。
奈々子は、まだ眠りつづけていたが、それでも、いくらか意識が戻《もど》り始めていたのか、車が揺れていることは、分っていた。
ひんやりした空気が、頬《ほお》を撫《な》でる。——外へ出たらしい。
ヒョイとかかえられて、どこへ行くのかしら、などと思っていると……。
ブルル……。エンジンの音。そして大きな揺れ。
船?——モーターボートか何かだろうか?
手足にしびれる感覚がある。——縛《しば》られているのだと分った。
何も見えないのは、目隠しされているからで、口にも何か布を押し込まれている。
頭がはっきりして来ると、やっと奈々子も、自分がどういう状況下にあるのか、分って来た。
誘《ゆう》拐《かい》されたんだ!
車、ボート……。どこへ連れて行かれるんだろう?
ともかく、あのミュンヘンのホテルへ連れて行ってくれるのでないことだけは、確かだった……。
美貴もルミ子も、とても追って来てはくれていないだろう。
あのペーターとかいう奴《やつ》! 肝心の時には役に立たないんだから!
こうなったら、逆らっても仕方ない、と度胸を決めたものの、怖いことには変りがない。
何やらドイツ語でしゃべっているのが、耳に入って来る。
しかし——どうして私なんか誘拐したんだろう?
奈々子としても、自分が大金持の令嬢に見えないだろうということは、分っている。美しさのあまり、どこかの王様が、
「あの娘をさらって来い」
と、言いつけた、とも……考えにくい。
すると、例の密輸に係る連中が、やったのだろうか? でも、何の目的で?
いくら考えても、そこまで分るわけがない。
と——ボートのエンジンの音が、急に静かになった。
ガクン、とボートが何かにぶつかる。着いたらしい。
ヒョイ、と一人が奈々子を軽々とかかえ上げた。
そこから十分ほどだろうか。上りの道らしく、さしもの大きな男が、途中で息を切らしてブツブツ言っている。
失礼ね! そんなに重くないわよ、私は!
——どこかへ着いたようだ。
ドアの開く音。そして、コーヒーらしい匂《にお》いが漂っていた。
数人の話し声。——そしていきなり奈々子は固い床の上に投げ出されて、したたか頭とお尻《しり》を打った。
目かくしが外される。まぶしさに目がくらんで、しばらく何も見えなかった。
それから、口の中へ押し込んであった布が取れて、やっと大きく息ができた。
まだ、何だか視界がボーッとしている。
「窮屈な思いをさせて悪かったね」
突然、日本語が聞こえた。「しばらくの辛抱だよ。三枝美貴さん」
と、その男は言ったのだった。