三枝美貴さん?
何言ってんだろ、この男は。——奈々子は呆《あき》れて、
「ふざけんじゃないや」
と、言ってやろうとした。
しかし——幸か不幸か、まだ薬の効果が切れていなかったらしく、
「アアアア……」
と、赤ん坊がオモチャでもほしがっているような声しか出なかったのである。
「おいおい」
と、その日本人の男は立って「令夫人にひどい扱いをするなよ。丁《てい》重《ちよう》にもてなさなくちゃ」
奈々子は、男たちにかかえられて、木の椅《い》子《す》に腰かけさせられた。手足の縄はといてくれたが、しびれていて、すぐには全然感覚が戻《もど》らない。
——やっと、部屋の中の様子が見えて来た。
古びた木造の建物。
暖炉があって、木の机と椅子。——それに腰かけているのは、どれも赤ら顔のドイツ人らしかった。
いや、ドイツ人と思ったのは、みんなドイツ語をしゃべっていたからだ。
ただ一人の日本人は、普通の感覚でいえば太っているが、何しろ他の男たちが大きいので、何だか貧弱に見える。
隅の方に立っている、際立って大きな二人は、奈々子をあのオペラ劇場から、さらって来た連中である。
男たちは、奈々子を指さしながら、ああでもないこうでもない(かどうか知らないが)、とやっている。
「——当然ドイツ語は分るだろうね」
と、男が言った。
奈々子は黙って首を横に振った。
「おやおや。——名門のお嬢さんが、ドイツ語もできないのか」
悪かったわね。
「この連中、みんな君のことを、『東洋の神秘』だと言ってる」
あ、そう。
「日本とドイツでは、美人の基準も大分違うからね」
どういう意味だ?
「ともかく——窮屈だろうが、しばらくここにいてもらうよ」
あのホテルの方がずっといいわ。——奈々子は当り前のことを考えた。こんな所、一ツ星でもないじゃないのよ。
「ま、気の毒だとは思うがね、恨みたければご主人を恨むことだ」
ここまで来て、奈々子はハッとした。
そうか! この人たち、私を美貴さんと間違えて誘《ゆう》拐《かい》して来たんだわ。
もちろん、読者はとっくに分っていただろうが、これは奈々子が馬鹿だったのではなく、薬で頭がボーッとしていたせいなのである。
よりによって!——この私がどうしてあんなお嬢さんと……。
奈々子は、どうしたらいいか、と迷っていた。
人違いだ、と主張するのも一つの方法だが、しかし——そう分ったからって、
「そりゃ失礼!」
と、菓子折でもくれて帰してくれる、とは思えない。
むしろ、アッサリ「消される」心配もありそうだ。
逆に、美貴だと思っている限り、この連中も何かに利用するつもりだろうから、奈々子を殺したりしないだろう。
それに——もちろん、奈々子も怖かったのだが——好奇心もある。
こいつらと、三枝とはどんな関係なのだろう。
「分りました」
奈々子は、できるだけ、美貴の言い方をまねて、おっとりとした口調で言った。
「分りゃ結構、下手に逃げようとすると、あの二人がどうするか分りませんよ」
と、男はニヤリと笑って、「そういう時は殺しさえしなきゃ、何をしてもいい、と言ってありますからね」
フン、この助平!
奈々子は、ちょっと咳《せき》払《ばら》いして、
「恐れ入りますが、お茶を一杯、いただけません?」
うん、これはいい。なかなか、決ってる!
すぐに、コーヒーをくれた。日本茶がいい、と言おうと思ったが、やめておくことにした。
「どうも」
と、一応、礼など言って、「——あなたはどなたですの?」
「おっとこりゃ失礼」
と、男は立ち上って、「私は商人で、神原と申します」
と、格《かつ》好《こう》をつけておじぎをする。
「神原さん」
と、奈々子は会《え》釈《しやく》して、「どうしてこんなことをなさるんですの?」
「それは、ご主人のせいです」
「うちの旦那がどうしたんです?」
言ってから、しまった、と思った。つい、『うちの旦那』なんて言ってしまった!
しかし、神原という男、別に妙とも思わなかったようで、
「取引きですよ、マダム」
マダム、ね。——ドイツ語はマダムじゃないわよ、確か。
「取引きとおっしゃいますと?」
「つまり、あなたのご主人との取引きを、有利に運ぶためのカードですな」
「主人との?」
奈々子は、本当にドキッとした。「じゃ、主人は生きている、と?」
「おやおや」
神原は笑って、「お芝居がお上手だ。——分ってますよ、ちゃんと」
「何のことでしょう?」
「あなたも、この仕事には一枚かんでおられる」
「私が?」
何のことだろう?
「まあとぼけているのもいいでしょう」
と、神原は言った。「あなたを捕えてあると言ってやれば、ご主人も焦《あせ》って姿を現わすでしょうからね」
「何のことか私には……」
と、奈々子は気取って言った。「私は主人を捜しに来ただけですわ」
「なるほど。そういうことにしておきますか」
神原は、二人の大男に肯《うなず》いて見せた。「いいですか。この建物は人里離れた湖《こ》畔《はん》の山の上にある。いくら大声を出しても、むだですよ」
「分りました」
「おとなしくしていれば、そう辛い思いはせずにすみます」
二人の大男に挟まれて、奈々子は立ち上った。
「お部屋はどちら?」
「ここの二階です」
「分りました。じゃ、参りましょ」
奈々子は、ぐっと胸をそらし、平然とした様子で、自分から階段の方へと、歩き出したのだった……。
二階のドアの一つを開いて、大男が促《うなが》すままに、奈々子は中へ入った。
バタン、とドアが閉り、カチャッ、と鍵《かぎ》のかかる音。
——奈々子は、部屋の中を見回した。
まあ、予想していたほどひどい所でもなかった。
たぶんこの家自体が、古い農家で、ここは主寝室だろう。割合に広くて、古い木のベッドも、日本のダブルベッドぐらいある。
木の表面は、いかにも古びているが、一応清潔な感じではあった。
奈々子は、ベッドに腰かけると、まだ少し頭がクラクラして、ゆっくりと横になった。
「——参ったな」
と、呟《つぶや》いて、天井を見上げる。
いくら美貴を守るためとはいえ、代りにさらわれるとは思わなかった。——特別手当をもらわなきゃ。
あの神原の話では、やはり、三枝は生きている。そして、ペーターの言っていた通り、何かよからぬ密輸に係り合っていたらしい。
ただ、奈々子の気になったのは、美貴も仲間だったかのような、神原の言葉だ。
もちろん、奈々子を美貴と間違えるような男だ。勘違い、ってことも、充分にあり得るが……。
それにしても……。あのドイツ人たちも、密輸に関係しているんだろう。
ヨーロッパのように国と国が地続きの場所では、密輸といっても、そう難しくあるまい。
日本からヨーロッパへ来て、奈々子は奈々子なりに、「外国」というものの考え方が、全然違うんだ、ということに気付いていたのである。
さて——問題は、人違いと分った時である。
殺されるのは嫌いだ。まあ、好きな人間はいないだろうが。
「何か、武器がいるわ」
と、奈々子は呟いた。
あの二人の大男でも、不意を襲えばやっつけられるようなもの。——何かないかしら?
奈々子は、起き上って、部屋の中をあちこち捜し始めた……。
「——どう?」
と、ルミ子は訊《き》いた。
ハンスが首を振る。
「そう……」
ホテルのロビーに戻《もど》った面々、じっと押し黙って、沈んでいる。
「いよいよ決ったわね」
と、美貴が言った。「誘《ゆう》拐《かい》よ」
「そうね」
ルミ子が、肯《うなず》いて、「今になっても、何の連絡も入ってない。犯人の手がかりもないのよ」
「どうしたらいいかしら」
「ああ、あの時、すぐ追いかけてれば!」
と、ルミ子は悔《くや》しそうに言った。
「こうしていても、仕方ないわ」
と、美貴は言った。「警察へ届けましょう」
すると、
「それはやめた方がいい」
と、声があった……。
みんなびっくりして振り向くと、
「あ!」
と、ルミ子が言った。「あのディスコの前で——」
「ペーターといいます」
離れた椅《い》子《す》から、立ってやって来ると、「申し訳ありません。様子がおかしいので、聞いていました」
「あなたは……」
「あの人に一目惚《ぼ》れして、追って来たんです」
ペーターの言葉に、誰もが呆《あつ》気《け》に取られたが、ただ一人、美貴は、
「そうですか。じゃ、何か力を貸して下さいな」
と、身をのり出したのだった。
「物好きな」
と、言ったのは、「役に立たないボディガード」の森田。
「あんたは黙ってろ」
と、ルミ子にやられて、ムッとしたように口をつぐむ。
「僕の聞いたところでは——」
と、ペーターが言った。「彼女はあなたに付添って来た、と」
「ええ、そうです」
「つまり、本来のお金持はあなたですね」
「まあ……そうです」
「では、はっきりしている」
「というと?」
「奈々子さんは、あなたと間違えられたのです」
美貴は唖《あ》然《ぜん》として、
「まあ——どうしましょ」
と、言った。
「しかし、警察へ届けて、人違いと分ったら、彼女は却《かえ》って危険です。役に立たないから、と殺される心配もある」
「それじゃ——」
「こういうことは、裏のルートで探るのが一番です」
「裏のルート?」
「そうです」
ペーターは肯いて、「彼女を何とか、無事に取り戻すこと。それが第一です」
と、力強く言った。